ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

謎解き詠花鳥和歌 残菊と白鳥 7 ホータンと繋がる?日本とチベットに共通な遺伝子

2014-11-30 09:37:01 | 日本文化・文学・歴史
日本人なら一度は聞いたことがあろう『竹取物語』。その主人公であるカグヤ姫は、美しさに
魅せられて求婚してくる五人の男たちに、自分の望む物をお持ち下されば求婚に応じましょう
と言って難題をつきつける。その品々は奈良時代の日本には存在しないもので遥かなるシルク
ロードを経なければ手に入れる事が不可能なものばかりであると解き明かした山口博著『平安
貴族のシルクロード』(平成18年角川選書)は知的好奇心を満たしてくれる面白い本ですが、
私はそのあとがきに共感しました。

 「シルクロード・ツアーに参加してガイドの解説を聞いても現地ガイドはもちろんのこと
  日本人ガイドも日本を意識しての話をすることは無い。『竹取物語』『宇津保物語』『源
  氏物語』等が、シルクロード旅行で語られるのを知らない。シルクロードは畢竟現代の日
  本人にとってもの珍しい異国の地でしかないのだろうか。


  そうではない。西安郊外の漢武帝陵周辺に生える苜蓿(うまごやし)を見れば『新撰万葉
  集』の漢詩にそれが歌い込まれていることを思い出し、ペシャワールの街に降り立てば5
  世紀にはそこにカグヤ姫の欲しがった仏鉢があったことを語り合い、西安の華清池で楊貴
  妃の像を見れば『源氏物語』の一節をつぶやき、アフラシアブ丘壁画でソグド人の衣服の
  咋鳥文模様を見て『宇津保物語』のヒーロー誕生のエピソードを想起するのが日本人のシ
  ルクロード紀行ではないか。
  砂漠で渇して死の世界をさまよう三蔵法師玄奘を日本僧・道昭(照とも)が救ったという
  話に驚いてこそタクラマカン砂漠を行く面白さは倍加するであろう。漫然と石窟壁画を眺
  めるのではなく、視点を日本の古代に定めることにより壁画が新たに生きてくるであろう」

今回のブログ「残菊と白鳥1~6」では古代日本の文化の中に西域のホータンと繋がりのある
ものをテーマに考察して来ました。これらの文化は<中国から伝えられたもの><中国から留
学僧が持ち帰った><ソグドなどの商人から伝わった><朝鮮半島から伝わった>など初めか
ら日本人がいて外国の文化を受け入れたように言われていますがはたしてそうでしょうか?

近来の科学の進歩は驚くべきことに私たちの祖先が辿って来た道さへ推量できるようになりま
した。1990年代以降DNAの分析技術が飛躍的に進歩し、現代人はもとより古人骨に残さ
れた遺伝子配列から日本人との近縁関係が数値化され、かっては主流だった日本人の単一民族
説は完全に否定されました。
日本の成り立ちを伝えようとした、<秋の七草>の暗号で<萩>と比定したのが荒吐神(縄文
晩期の遮光器土偶)を信仰した荒吐族(アラハバキ)でしたが、この土偶は西域の莫煌窟45
窟の天王像と同じスタイルが土偶として造られたもので、彼らは吐蕃民族(チベット)と推定
しました。DNAの分析から見るとこの推量が当たっているかもしれないのです。

『日本人になった祖先たち・DNAから解明するその多元的構造』(篠田謙一・2007年NHK
ブックス)からの受け売りですが、
「様々なタイプのミトコンドリアDNAでハブログループМ10が日本人の人口に占める割合は
1、3%という少数派ですが、チベットでは人口の8%を占めていて人口比では最大の地域でし
た。このグループはブリヤートやモンゴルにも見られ、チベットから中央アジア、朝鮮半島、日
本へと続く北方アジアの道を辿って来たと考えられています。
茨城県取手市にある中妻遺跡から発掘された103体ほどの縄文人骨のDNA分析を分子人類学
者の著者が担当した結果によると、彼らの多くが持っていたミトコンドリアDNAのハブログル
ープがМ10だったという。
ミトコンドリアDNAは母から子に受け継がれる遺伝子ですが、一方父から息子に受け継がれる
のがY染色体DNAですが、日本人のY染色体ではC、D、Оと呼ばれる三つの系統が人口の
90%以上を占めているのですが、<ハブログループО>は日本人男性人口の約半数を占めてい
る最大グループ。この中で朝鮮半島や華北系統と華北から華南の系統があるという。<ハブロ
グループC>は本土日本では約10%で北海道のアイヌはやや多いという。沿海州の先住集団や
モンゴルに多く見られるタイプという。
<ハブログループD>は日本人男性の30~40%の多数を占めているが、このタイプを高頻度
で持っている集団は日本の近隣集団には無く、チベットで人口の30%程度を占めているという。

日本とチベットで高い割合で占めている理由を遺伝学では、もともと北東アジアに広く分布して
いたこのハブログループがその後中国を中心として勢力を伸ばしたハブログループОの系統に
よって、周辺に押しやられてしまった結果、東と西に分断されたからではと考えているようです。
が、私は縄文時代?にチベット系の男たちが北回りで直接列島へ渡来してきた可能性があるのでは
と思っており、その痕跡が荒吐神(縄文晩期の遮光器土偶)を信仰した荒吐族(アラハバキ)の
伝承であり、つぼの石碑(いしぶみ)伝承であろうと思います。

「つぼの石碑(いしぶみ)」とは平安末期に藤原顕昭撰の歌学書『袖中抄(しょうちゅうしょう)』
に「陸奥には<つぼのいしぶみ>という石碑あり。蝦夷征討の際に田村将軍(坂上田村麻呂)が
矢筈を使って<日本中央>という文字を刻んだものである」という一節があり東北の歌枕として
和歌によみこまれており、遠い陸奥にあるという<つぼのいしぶみ>を見てみたいとあこがれる
者もいた。江戸時代には宮城県多賀城址から発堀された石碑を<つぼのいしぶみ>と目されていた
ためか松尾芭蕉が訪れ『奥の細道』に記述している。

明治9年のこと、天皇の東北巡行に際し宮内省から青森県に対し<つぼのいしぶみ>発見の要請が
あったため、田村麻呂が石を埋めたという伝承のある千曳神社で大掛かりな発掘作業が行われたが
発見には至らなかった。ところが昭和24年6月に千曳神社近くの青森県東北町石文(いしぶみ)
という所から突如として「日本中央」ときざまれた石碑が出土し、この付近には都母(つぼ・つも)
都母川の地名があるところから<つぼのいしぶみ>の可能性があるとみられている。ただし、坂上
田村麻呂(758?~811)はこの地まで遠征しておらず、実際には後任の文屋綿麻呂(765~823)が
この地一帯にはじめて足を運んでいる。(日本伝承大鑑による)

しかし<つぼのいしぶみ>には異説もあり江戸時代後期の南部藩の儒学者・市原篤焉が編纂した
『篤焉家訓』によると「七戸(しちのへ)の壺と云在名正しきが上に、壺川と云うる古き名残りし
川と石而四、五丈計なる岩あり。其石のある所を杉淵と云う。昔は川岸にこの岩あり。今は川岸
崩れて岩のなかば川水に横たはる。日本中央と云へる文字も土中の方に成りたるへし。壺の在名
(小村なり)同壺川ある上は不可疑。正しき碑なり」と朱書きされていて少なくとも江戸時代後期
には南部壺碑が川の中にあったという説は存在しており、谷底にあったとする巨岩の記述も複数
あったという。

私が興味深く思ったことは宮内省から<つぼのいしぶみ>を発見せよとの要請があったことを知り
、古今伝授に纏わる話を思いだしました。
関ヶ原の合戦のあった1600年に丹後の田辺城を石田三成の軍勢にかこまれた細川幽斎(1534~
1610)が籠城・討死を覚悟する事態になった時、それを伝え聞いた後陽成天皇は勅使を派遣して
和議を講じさせた。天皇は古今伝授を受け継いだ幽斎が討死すると古今伝授を伝えるものがいなく
なるので<本朝の神道奥儀、和歌の秘密が永く絶え、神国のおきても空しくなる>と憂えたのだと
いう。明治時代になっても宮中には<はぎ・萩・脛>の伝承が密かに伝えられていたのでしょうか?

今回<つぼのいしぶみ>について長々と述べた理由は<つぼ>の意味が吐蕃民族にかかわり、ホー
タンともかかわると思われるからです。
西域で活動した<吐蕃>とは、現在のチベットではなく中国新疆ウイグル自治区のホータンを意味
しています。<吐蕃>は中国語の発音では<Тubo.Тufan>。トルコ語では<Тibbat.Тubbit>
と記されます。<つぼのいしぶみ>とはチベット系吐蕃人の記念碑的な存在を意味しているのです。

彼らの往来はその後も続き平安時代に将来した羅城門上に置かれた<兜跋毘沙門天>とつながるの
ではと推量しています。




















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