ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

謎解き詠花鳥和歌 藤と雲雀(ひばり)ー48 天武天皇の褶(ひらみ)禁止令

2014-06-19 13:21:48 | 日本文化・文学・歴史
最近某航空会社の客室乗務員の制服がひざ上15センチのミニスカート着用となり世間の話題に
なっていましたが、1972年に発見された飛鳥の高松塚古墳の壁画を見た時には我々日本人が
なんとなくイメージしていた古代の女性像とかけ離れている姿に驚きと興奮をおぼえました。
未だに誰の古墳か特定されていませんが飛鳥時代の貴人の墓であり、貴人の周辺に仕えた人々の
日常の姿が再現されているのだろうと思います。この被葬者とそう違わない時代に生きていたと
思われる天武天皇が、親王はじめ官人たちへ従来の服制の一部を禁止する以下のような詔を発し
ています。

日本書紀の天武天皇11年(686年)辛酉条
 「親王より以下、百寮の諸人、今より己後、位冠及び禅(まへも)褶(ひらおび)脛裳(はぎ
  も)着ること莫れ、亦膳夫、采女等の手襷(たすき)、肩巾(ひれ)ならびに服ること莫れ」

 名称も形も現代人とはかけ離れているので奈良時代の服制図を参考に示します。


ところがこの禁令の中の<褶>は日本書紀の推古天皇13年(606年)閏2月に皇太子だった聖徳
太子が「諸の王、諸臣に命(みことおほ)せて褶(ひらおび)着しむ」と記されているのです。
聖徳太子が着用せよと決めた<褶>が何ゆえに禁止されたのか?それは大海人皇子という海人系
の天武天皇にとって受け入れがたい服制(習俗)だったからではないかと私は疑いました。

<褶>とは何を指すか諸説あって確定されていないようですが、漢和辞典には次の様にあります。
 褶 (音)チョウ・シュウ
      現代は ひらみ・ひらおび と訓読されている。
   (解字)習が音を表し、また重ねるの意をもっている。
   (字義)1、あわせ 裏のついた着もの
         重ねる 衣服を重ね着る
       2、①馬のり袴 乗馬用のはかま
         ②ひだ イ、衣服の折り込み
             ロ、衣服のひだのように山や谷の凹凸のあること(褶曲)
とあるので、上図の礼服姿で袴の上に重なる襞(ひだ)の部分を<褶>としていることは正しい
と思いました。

そして現存する聖徳太子時代の遺物に<褶>を確認することは出来ないだろうかと考えました。
もしかしたら聖徳太子が622年に逝去された後に、妃である橘大郎女が推古天皇の許しを得て
作成したという「天寿国繍帳」の中に描かれているかもしれないと思いました。

上図はこの繍帳の中から選んだふたつの画像ですが、長いスカートの方が女性で、上着の下に短
い襞スカートをつけているように見える方が男性。このひだのように見える部分がまさしく<褶>
と思われます。
褶の具体的なイメージが分ってきたところで次にみつけたのが聖徳太子を祀る斑鳩の法隆寺金堂
の四天王像です。

この四天王像は日本では最古の遺品であり、その姿形は大陸の貴人の正装を取り入れた例外的な
像であるという。これ以外の日本の四天王像の甲冑は基本的には7世紀半ばの唐において成立し
た甲制に倣い同じ形式をとっており、時代が下がるにつれて装飾的な飾りや金具のついた華麗な
姿になっていく。

法隆寺の四天王像に見られる大陸的な貴人とはいったいどこの国でしょうか?残念ながら仏像以
外で古代の男性の服装がみられるのは中国と西域ぐらいで他はほとんどわかりません。
ならば「天寿国繍帳」の女性像から辿ることは出来ないかと考えました。

天寿国繍帳の女性はイラスト的なので高松塚古墳の女性とは全く別物にみえますが、よく見ると
腰の丈まである上着、腕にぴったりではないけれど和服のような長い袂でもなく、少し広口の袖、
下半身にはプリーツ状のひだスカートとほぼ共通した着衣であることがわかります。

後のふたつは4世紀から6世紀に今の北朝鮮から中国にかけて存在した高句麗の古墳の壁画の女
性像です。髪の形や細部に違いはあるものの7世紀の飛鳥の貴人たちとほぼ同一の着衣を身につ
けております。これらのスタイルは現在の韓国や朝鮮の民族衣裳・チマチョゴリとは系統が異な
る様に見えます。

天寿国繍帳の中の小さな女性たちの源流はいったいどこにあるのでしょうか?
この二週間ほど私は手持ちの本の画像を片端から探し続けておりました。そしてやっと一例だけ
みつけることが出来ました。


この画像は2000年の10月、朝日カルチャースクールで企画された「仏像の来た道を訪ねる
旅~天山南路の道~クチャ・コルラ」に参加した時に購入してきた『新疆文物古跡大観』(新疆
美術出版社・1999年)の中の和田(ホータン)地区にあるBugaiwayulaikBuddhisteという
南北朝~唐代にかけてあった寺院遺跡に残されていた供養者の絵です。ガウンを羽織っています
が前あきで腰丈の上着、プリーツ状のスカートは高句麗や飛鳥の女性の着衣と一緒です。
解説には「古代の和田(ホータン)婦女の服飾的研究の珍貴資料」と書かれていますが、東の果
ての日本に繋がっていました。西域のホータンからシルクロードの最北コースを辿って来た人々
が飛鳥文化の担い手だった可能性がありそうです。


ちなみに中国の唐代の古墳・永泰公主墓(706年)の侍女図はまるで西洋のドレス姿とみまごう
ばかりです。上着丈の短い韓服はどちらかといえば唐代の衣裳の系統に見えます。

正倉院に残る戸籍の様式が西域から発掘したものと同じという研究者の記事を次回に・・・

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