ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

謎解き詠花鳥和歌 藤と雲雀ー47 壬申の乱・隠された背景④

2014-05-31 19:14:51 | 日本文化・文学・歴史
先日NHK、BSのアーカイブで再放送された「俵屋宗達」を見ました。風神雷神図屏風
舞楽図屏風、松島図屏風などを技法や構図を解説し見ごたえのある番組でした。その中の
松島図屏風に私の注目してきた<必志(ひし、砂州)>が描かれておりました。海中に少し
くろずみゆがんだ菱形の曲線に縁どられた白い砂州。かつては「荒磯の屏風」と呼ばれて
いたそうで、住吉あたりの海岸風景と考えられているようです。安曇氏の祖である少童三
神(わたつみさんしん)と同時に生まれたとされる住吉神・筒男三神(つつのおさんしん)
を顕す場合にも必志を描く約束ごとがあったのかもしれません。

前回は天武天皇が信州松本付近に都を造ろうとした気配が日本書紀に記されており、その
地は安曇族の祖である穂高見命を祀る穂高神社のお膝元でありました。海人系(地祇系)
の支援をうけて勝利した天皇は、安曇族の栄光を再び取り戻したい想いにかられていたと
思われますが、志半ばで病が重くなり、また天変地異が多発したこともあって実現すること
はできませんでした。と、推量したもののいま一つ説得力に欠けると思い安曇野と天武天皇
をつなぐ物が欲しいと検索を続けたところ『安曇族と徐福』の著者・亀山勝氏のホームペ
ージ中に興味深い記事がありました。
亀山氏も私と同様に天武天皇が何ゆえに信州に都を造ることに執着したのだろうと疑問を
持ちながら松本市と安曇野市を訪れたそうです。

上図はその関係地ですが、氏の関心事は穂高神社の他に犬飼山御嶽神社と住吉神社でした。
その理由は穂高神社が発行した「安曇族文化の信仰的象徴」(1949年)で宮地直一が述べた
「筑前国の住吉神社の東南に犬飼村があり同じように安曇野の住吉神社の東南にも川に囲
まれて島の形をしている犬甘(いぬかい)島があるが、どういう縁故で住吉神社と犬飼
(甘・養)氏が結びついているのかわからない」と書いてあった事に対し、何かいわくが
ありそうに思え筑前の住吉神社と犬飼神宮を訪ね、また安曇野の住吉神社と犬飼山御嶽神
社を訪ねたが、結果的に両者の関係を結び付ける手がかりは得られなかったという。

犬飼山御嶽神社の由来は戦国武将辛犬甘氏の居城のあった所に祀られた神社で祭神は国常
立尊、大己貴命、少彦名神かという。犬甘氏は紀州から移住した犬飼氏の分派とみられて
おり、7世紀以前まで遡る歴史があるかどうかはわかりません。

私は天武天皇の舎人であり、天皇の殯庭で「宮内の事」を誅した縣犬飼宿禰大伴が頭に浮か
びました。『日本古代氏族人名辞典』によると犬飼氏は安曇犬飼氏、海犬飼氏が安曇系、
若犬飼氏は火明系としており、安曇族の故地である筑紫にも、安曇族の開拓したあづみ野
にも同族の犬飼(養、甘)氏がいるのは当然と言えましょう。
大海人皇子は天智天皇が病の床についた頃には、湯沐令(料地)の美濃、隣接する信濃、
元々が海人系の伊勢、志摩、尾張を含んだ一大勢力圏をバックに持つ実力者に成長していた
と思われます。

上図は安曇野の初期水田好適地。清浄な湧水が豊富なあづみ野で米作りが行われたようだ。
亀山氏のホームページは「海から見た日本列島」と「新、海から見た日本列島」があり安
曇野の水田の考察や写真、多様な内容がつまっていて勉強になりました。

海の民であった安曇氏が信濃の山深い地にいつごろどのルートを辿って来たのか、地元の
方には「日本海側の犀川を遡って来た」と伝えられているようです。が、安曇氏ゆかりの
地名は日本海側(新潟県関川村安角、富山市安住町、石川県志賀町安津見など)にも、東海
地方(愛知県豊田市志賀、愛知県渥美町、名古屋市志賀地域、岐阜市厚見など)にもあり、
ひとつに特定する事は困難でしょう。

当ブログでは2010年7月から8月にかけて掲載した「詠花鳥和歌女郎花と鵲ー17~21」のテー
マは東海で生まれた弥生土器・S字甕がある時期から拡散していき、その伝播したルート
が東国に向かうのですが、それが安曇氏の辿った道でもあったと思うようになりました。

その説は赤塚次郎著『幻の王国・狗奴国を旅する』などから得た情報を要約したものですが
その時、特に安曇氏を念頭におくことはありませんでした。

『幻の王国・狗奴国を旅する』の中から「東海系のトレース」を引用させていただきます。

 濃尾平野から古代東山道を北上すると、やがて最大の難所である神坂(みさか)峠を越え
 伊那谷に出る。この神坂峠からS字甕B類が出土しており、明らかに三世紀段階ではこの
 峠を超えて東海系文化が伊那谷に向かっていたことをわれわれに教えてくれている。そし
 て北上して雄大な山々に囲まれた松本平に出ると、そこにはさらに興味深い東海系文化が
 眠っているのだ。

 長野県松本市、ここに弘法山古墳という東日本最古級の前方後方墳が存在する。古墳に
 上がると、そこからは松本平が一望でき、まさにおすすめの絶景ポイントでもある。
 60メートル規模という大きさと獣帯鏡や豊富な武器類が副葬されていた。瓦石を組み
 合わせ、天井石をもたない石槨状の主体部の上部から発見された土器はその多くが濃尾
 平野で生みだされた土器群をモデルにしているものであった。そのかたちから廻間Ⅱ式
 中頃を下ることはない。即ち3世紀前半期の大型前方後方墳と評価してよい。

 さらに塩尻市からは、東海系土器がまとまって発見される塩尻市上木戸遺跡なども見ら
 れるのであり、前述したS字甕の第一次拡散によりもたらされた東海の文化の一つの受
 け止め方の見本がこの松本平の地域社会には見られることになる。なお尾張地域で製作
 された可能性が指摘されている三遠式銅鐸も出土しており、弥生時代後期段階からの継
 続的な文化交流が存在していたことがわかる。現在は塩尻市平出博物館に展示されている。

 西暦200年前後、東海系文化が主に東海・東山・北陸道に向かって広がっていく。第一次
 拡散期と呼んだ現象である。すでにこの段階では八王子遺跡・象鼻山三号墳で推定した
 伊勢湾沿岸部を一つにまとめるような共同意識が確立していたと考えてよい。二世紀中
 頃を中心としてさらにより強い部族意識の高揚が、それまでの弥生時代以来の伝統的な
 小さな地域社会の枠組みすら変容させようとしていたのである。

 具体的には伊勢湾沿岸部の集落動向から容易に読み取ることができる。即ち弥生中期・
 後期以来の集落の多くがこの段階で消失していくのである。三重県松阪市の阿形遺跡や
 草山遺跡、愛知県清洲市の朝日遺跡など枚挙に暇がない。それは地域社会がより広域的
 に新たな枠組みを模索し、具体化していった証と考えたい。このような変化は、あるい
 は環境的な寒冷化となんらかの関連があるかもしれないが、いずれにしても、やがて濃
 尾平野低地部で誕生した廻間様式という新しいかたちが、モデルとなり受け入れられて
 いく。  (後略)

伊勢湾周辺から内陸部に定着した人びとは<秋の七草>の暗号では<尾花>にあたり、海に
潜って魚をとり朝鮮半島南岸の伽耶から九州の北岸を拠点としていた南方系の人々がなんら
かの理由で移動し、瀬戸内海をはさんだ「備讃地域」と「伊勢湾地域」に定着したと考えて
います。この二つの地域を主に彼らの習俗である黥面文身を描いた「線刻人面土器」が発掘
されています。

記紀には安曇氏の入墨の説話もあり現代の我々からは想像もつかない光景があったようです。


 











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