ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

謎解き詠花鳥和歌 藤と雲雀ー46 壬申の乱・隠された背景③

2014-05-16 06:50:19 | 日本文化・文学・歴史
壬申の乱に勝利した大海人皇子は倭京に新しく宮室を造り飛鳥浄御原宮で即位しました。
日本書紀の巻28は壬申紀を、巻29は天武天皇の治世が記されていますが、壬申の乱の
功臣への叙位・恩賞の記事は多くあるものの、壬申の乱以前と乱後の政治が極端に変わった
様子はうかがえません。が、地祇系(海人族)の支援を受けた大海人皇子らしい事績が何
らかの形で残されているはずではと考えた結果、あまり注目されることはないようですが
「信濃へ新京を造ろうとしたこと」が重要ではないかと思いました。

天武天皇は唐制にならって複都(唐では長安のほかに洛陽を準首都としている)を作ろうと
したと思われ以下のような動きがありました。

 天武12年(683年)12月 「複都制導入の詔」を出しました。
 天武13年(684年) 2月  広瀬王、大伴安麻呂らを畿内の内で新京造営に相応し
                 い土地の視察させる。
             同日  三野王、采女臣筑羅らを信濃に遣わして地形を調べ
                 させる。(この記事の後に書紀の編者は「この地に
                 都つくらむとするか」と注記している)
 天武13年(684年)閏4月  三野王ら天武の命により調査した信濃国の地図を提出
                 する。
 天武14年(685年)10月  軽部足瀬らに命じて信濃国に行宮の造営を開始している。
                 この行宮について書紀は「束間温湯(つかまのゆ)に
                 幸(いでま)さむと擬(おも)ほすか。」と推測して
                 います。束間温湯とは信濃国筑摩郡。現、長野県松本市
                 の浅間温泉と考えられている。

その後(17日)伊勢王ら亦東国にまかるともありますが、翌朱鳥元年(686年)9月9日
天武天皇は崩御し、結果的に天武天皇の信濃国への遷都計画が実現されることはなく、新京
として藤原京(新益京)が造営されるのでした。

なぜ新京を信濃国に造ろうとしたかは謎とされていますが、私はこの遷都計画が天武天皇の
発案でなされ、想定された場所が松本市付近であると知った時に、これは天武天皇にとって
大変重要な意味があると思いました。というのはこの地域が現在は「安曇野」と呼ばれている
ように北部九州で繁栄していた海人・安曇族の開拓した地域で、その祖神を祀る<穂高神社>
のお膝元なのです。

穂高神社は長野県安曇野市穂高に本宮、松本市安曇上高地明神池のほとりに奥宮が鎮座。
祭神は穂高見命、綿津見命、瓊々杵命。海神・綿津見命を祖とする阿曇連(安曇氏)が奉祀した
古社。

祭神の穂高見命は綿津見命の4人の子供のひとりで、神話に登場する豊玉毘売、玉依毘売と
倭氏や尾張氏の祖とされる弟・振魂命がおり、穂高見命は宇都志日金析命とも呼称される安曇氏
の祖である。

大海人皇子と名付けられた天武天皇が海人族といかなる血縁関係にあったかは不明ですが、
親しい関係にあったことはこれまでのブログで理解していただけると思います。
天武天皇は<立つハナ(端>つまり日本の国の原初(地祇、海人系の国)に戻したい思いが
信濃国への都造りにかりたてたように思います。しかし当時の寿命から考えて天皇に即位した
のが遅すぎたことと、行宮計画が開始された年に信濃国で火山の噴火がありその猛烈な火山灰
によって草木が枯れる被害があったという。都に相応しい土地ではないと反対する者も多かっ
ただろうと思います。

倭国の原初を主導したと思われる安曇氏について、あまり重要視されることはなかったと思い
ますので、彼らについて分かりやすく解説した一文を紹介します。

 講談社選書メチエ281 『倭国の謎・知られざる古代日本』 (相見英咲・2003年・講談社)
  第一章 2 最古の氏族=アヅミ氏の国造り より

海人族の首領アヅミ氏
  「倭国王師升」、即107年樹立の<倭国=日本>の初代国王は奴国の王だった。こう
  判断するのには、前節で述べたこと以外にも理由がある。実は、奴国というのは、日本
  でも最も古い氏族、阿曇氏が立てた国だったと考えられる。アヅミ氏は列島各地に展開
  し、多くの国を立てた。
  まず、奴国の首長がアヅミ氏であるという点は57年に後漢の後部帝より賜った奴国王
  の金印、「漢の委の奴国の王」印が、奴国故地(博多辺)のすぐ北の志賀島から出たこと
  から明らかになる。
  三世紀代、志賀島は不弥国ー海国(田中卓氏)ーの重要な構成島だった。この島には
  『延喜式』神名帳(10世紀初)記載のいわゆる式内社「志賀海神社三座」がある。
  三座とはアヅミ氏が奉斎したアヅミ三神=少童(わたつみ)三神、底津少童命・中津少童
  命・上津少童命のこと。
  奴国の王の金印は、すぐ北の、アヅミ氏の島とも言える志賀島から出た。ところが、志賀
  島は不弥国の構成島だ。この諸関係の意味するところは、不弥国と奴国とは親子ないし兄
  弟関係にあった同族の国で、両国の首長・王はアヅミ氏だった、ということだろう。
  アヅミという氏名は、<海津耳>、すなわち海人たちの指導者・支配者という意味の普通
  名刺が固有名詞化したもの<アマツミミ→アマツミ→アツミ・アヅミ>と考えられる。
  アヅミ氏と海人たちは、日本列島各地に散らばり展開した。彼らは列島に水稲耕作を伝え
  広めた。
  『魏志』倭人伝が記す「黥面文身」を初めとする数々の風俗も彼らがもたらしたものが多
  い。彼らは南方系の説話伝承ももたらした。イザナギ・イザナミ男女二神(奴の男神・奴
  の女神か)の島生み国生み神話、木花咲那姫の火中貴子出産説話、山幸彦の海宮遊幸説話、
  浦嶋子物語、海神(少童三神・住吉三神)出現譚、大倭(やまと)氏の祖・珍彦出現譚等
  はいずれも彼らがもたらした南方系伝承であるか、もしくはそこから変容発展したもので
  ある。
  不弥国の志賀島はアヅミ氏の聖島であろう。アヅミ氏の本拠は不弥国・奴国、とりわけ奴
  国であろう。この氏族は幾重にも枝分かれして、九州島はもちろんのこと、本州島にも朝
  鮮半島にも進出していった。彼らの入植・植民活動は紀元前をはるかに遡って考えられて
  良い。

列島各地に入植・植民活動をした安曇氏ですが、海のない信濃国にはどのようなルートを辿り
山の民に変貌していったのでしょうか?次回に



  
  

















      

                 
 

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