『出雲国造神賀詞』で大穴持命(大国主命・大物主命)が「皇御孫(すめみま)の命の鎮
まりまさむ大倭(おほやまと)の国」と述べている飛鳥の地で皇孫を守ると誓っているのは
三輪山に坐す大物主命の社(大神神社)・その御子神である阿遅須岐高彦根命の社(葛木の
高鴨阿遅須岐託彦根神社)・同じく御子神である事代主命の魂を祀る社(高市御県坐す鴨事
代主命神社)・加夜を冠した加夜奈留美命(岡山県吉備津神社の創始者)の加夜奈留美命神
社の四社ですが、これらの神社をつなぐと菱形の形をつくり飛鳥の宮都がすっぽりと納まっ
てしまいました。
この四社が何時頃から存在していたのかは分りませんが『日本書紀』の天武天皇朱鳥元年
(686年)7月5日条に「幣(みてぐら)を紀伊国にまします国懸神・飛鳥の4社・住吉大神
の奉りたまふ」とあり、この前の年の秋から天武天皇は病がちとなり9月には「天皇の病遂に
癒えずして正宮に崩御される」ので7月の奉幣も病気平癒の祈願と思われ、国懸神とは三種の
神器のひとつである宝鏡の最初に出来た鏡が祀られた社。次に出来た鏡が伊勢の神宮に祀ら
れた鏡であると伝承されています。6月には天皇の病をうらなうと草薙剣(三種神器)に祟
れりと卦が出たので即日熱田社に送り返したともあり、祟神天皇以来飛鳥は出雲系の神に祟
られる地と認識されていたようです。
飛鳥の4社とはどこか特定されていませんが出雲国造神賀詞で皇孫を守ると誓う4社と考える
のが順当でしょう。住吉大神とは大阪の住吉大社(神功皇后の創建と伝わる)と思われます。
前回のブログで紹介しましたが住吉大社の神紋が花菱でした。
花菱は日本の原初に海の底・中・上から生まれた海神・筒男三神を祀る住吉系の神社に共通
する神紋であり、なんらかのメッセージが込められているとすれば<端(はな・物事の初め)
洲(ひし)>ともじっているのでしょう。
さらに出雲国造神賀詞で誓う飛鳥に坐す4社をつなぐ<菱形>には<洲方>あるいは<秘し
方>というメッセージが隠されているように思われます。
飛鳥は何故か出雲の神々に祟られており、祟神天皇の時代のこと、天皇は三輪山周辺の一角に
「磯城瑞籬宮」を作りましたが三輪山は出雲氏の祖神・大物主命の鎮まる神奈備山でした。
しかし予め地主の神である大物主命が祀られることはありませんでした。やがて疫病が流行り
人民が絶えてしまいそうになりました。天皇はそれを憂えていると大物主命が夢に顕れて
「この事態は私の意思なり。意富多々泥古を以ちて我を祀らせよ」と告げられ、お告げ通りに
祀ったところ疫病は治まり、国内は平穏になったという説話が記紀に記されています。
この祟神天皇を古事記では「初国知らしし御真木天皇」。日本書紀では「御肇国天皇(はつ
くにしらすすめらみこと)」と記されています。つまり祟神天皇は新しい王朝の初代と称え
られている訳でその裏には纂奪者の顔を秘めていると思われ、先の説話で祟り成す大物主命
こそ前代の王者であり出雲系の国神が支配する地域であったと思われます。
昔の栄光を取り戻したいとは誰もが願うことですが、大海人皇子が壬申乱に勝利した時に、
大海人皇子に味方した出雲系の人々の喜びは大きくまた天武天皇の治世が永らえることを願
い出雲国造神賀詞で皇孫を守ると誓いをたて、その証しに飛鳥の宮都を出雲系の4社で囲い
その形を菱形にしたのではないでしょうか。ただ菱形が隼人に係わると考えると出雲と隼人
がどうつながるかを説明できなければなりません。
幸いなことに『神奈備 大神 三輪明神』(三輪山文化研究会編・1997年東方出版㈱)の中の
「三輪山と古代王権」(千田稔)の文中に興味深い記述がありましたので引用させていただき
ます。
<四、三輪山祭祀の源流>
『新撰姓氏録』によると「大和国神別」に大神朝臣「素佐能雄命六世孫大国主命之後也」
賀茂朝臣「大神朝臣同祖大国主命之後也」とあって、平安時代においても大神氏と賀茂氏
にはオオクニヌシへとつながる系譜が伝承されていたことをしる。
ところが「河内国神別」には宗形君「大国主命六世孫吾田片隅命之後也」ともあり、海人族
の血を引く宗形氏にもオオクニヌシへとさかのぼる系譜が伝えられていたらしい。ここで
注目しておきたいことは、宗形君はアタノカタスミノミコト(吾田片隅命)の後裔として
いる点である。ここにいう「吾田」は私は隼人などの源郷である薩摩の阿多のことであろ
うと考えている。
一般的に海洋民である宗形(宗像)氏は北九州に根拠地をもつとされているが『新撰姓氏
録』によるかぎりでは本来南九州に最初の拠点をもっていたと思われる。三輪の神を論じる
際に宗形(宗像)氏の問題に及んだのは実はさきにオオタタネコの伝承にふれたときにその
母は別伝としてクシヒカタアマヒカタタケチヌミ(奇日方天日方武茅渟祇)の御名とするこ
とをあげておいたことに関わるからである。
『古事記』ではオオモノヌシの子としてクシミカタ(櫛御方神)の名をあげているが『先代
旧事本紀』ではクシヒカタアマヒカタタケチヌツミのまたの名をアタツクシノミコト(阿田
都久志尼命)とする。
つまり「阿田」は「阿多」のことで「都久志」は「筑紫」の意味と理解できれば、オオタタ
ネコ伝承ははるか南へとその系譜を求めることも可能である。(後略)
千田氏の説は出雲族の源流が隼人族と血縁関係があった可能性を示唆しており我が仮説を後押
ししてくれるうれしい情報でした。
まりまさむ大倭(おほやまと)の国」と述べている飛鳥の地で皇孫を守ると誓っているのは
三輪山に坐す大物主命の社(大神神社)・その御子神である阿遅須岐高彦根命の社(葛木の
高鴨阿遅須岐託彦根神社)・同じく御子神である事代主命の魂を祀る社(高市御県坐す鴨事
代主命神社)・加夜を冠した加夜奈留美命(岡山県吉備津神社の創始者)の加夜奈留美命神
社の四社ですが、これらの神社をつなぐと菱形の形をつくり飛鳥の宮都がすっぽりと納まっ
てしまいました。
この四社が何時頃から存在していたのかは分りませんが『日本書紀』の天武天皇朱鳥元年
(686年)7月5日条に「幣(みてぐら)を紀伊国にまします国懸神・飛鳥の4社・住吉大神
の奉りたまふ」とあり、この前の年の秋から天武天皇は病がちとなり9月には「天皇の病遂に
癒えずして正宮に崩御される」ので7月の奉幣も病気平癒の祈願と思われ、国懸神とは三種の
神器のひとつである宝鏡の最初に出来た鏡が祀られた社。次に出来た鏡が伊勢の神宮に祀ら
れた鏡であると伝承されています。6月には天皇の病をうらなうと草薙剣(三種神器)に祟
れりと卦が出たので即日熱田社に送り返したともあり、祟神天皇以来飛鳥は出雲系の神に祟
られる地と認識されていたようです。
飛鳥の4社とはどこか特定されていませんが出雲国造神賀詞で皇孫を守ると誓う4社と考える
のが順当でしょう。住吉大神とは大阪の住吉大社(神功皇后の創建と伝わる)と思われます。
前回のブログで紹介しましたが住吉大社の神紋が花菱でした。
花菱は日本の原初に海の底・中・上から生まれた海神・筒男三神を祀る住吉系の神社に共通
する神紋であり、なんらかのメッセージが込められているとすれば<端(はな・物事の初め)
洲(ひし)>ともじっているのでしょう。
さらに出雲国造神賀詞で誓う飛鳥に坐す4社をつなぐ<菱形>には<洲方>あるいは<秘し
方>というメッセージが隠されているように思われます。
飛鳥は何故か出雲の神々に祟られており、祟神天皇の時代のこと、天皇は三輪山周辺の一角に
「磯城瑞籬宮」を作りましたが三輪山は出雲氏の祖神・大物主命の鎮まる神奈備山でした。
しかし予め地主の神である大物主命が祀られることはありませんでした。やがて疫病が流行り
人民が絶えてしまいそうになりました。天皇はそれを憂えていると大物主命が夢に顕れて
「この事態は私の意思なり。意富多々泥古を以ちて我を祀らせよ」と告げられ、お告げ通りに
祀ったところ疫病は治まり、国内は平穏になったという説話が記紀に記されています。
この祟神天皇を古事記では「初国知らしし御真木天皇」。日本書紀では「御肇国天皇(はつ
くにしらすすめらみこと)」と記されています。つまり祟神天皇は新しい王朝の初代と称え
られている訳でその裏には纂奪者の顔を秘めていると思われ、先の説話で祟り成す大物主命
こそ前代の王者であり出雲系の国神が支配する地域であったと思われます。
昔の栄光を取り戻したいとは誰もが願うことですが、大海人皇子が壬申乱に勝利した時に、
大海人皇子に味方した出雲系の人々の喜びは大きくまた天武天皇の治世が永らえることを願
い出雲国造神賀詞で皇孫を守ると誓いをたて、その証しに飛鳥の宮都を出雲系の4社で囲い
その形を菱形にしたのではないでしょうか。ただ菱形が隼人に係わると考えると出雲と隼人
がどうつながるかを説明できなければなりません。
幸いなことに『神奈備 大神 三輪明神』(三輪山文化研究会編・1997年東方出版㈱)の中の
「三輪山と古代王権」(千田稔)の文中に興味深い記述がありましたので引用させていただき
ます。
<四、三輪山祭祀の源流>
『新撰姓氏録』によると「大和国神別」に大神朝臣「素佐能雄命六世孫大国主命之後也」
賀茂朝臣「大神朝臣同祖大国主命之後也」とあって、平安時代においても大神氏と賀茂氏
にはオオクニヌシへとつながる系譜が伝承されていたことをしる。
ところが「河内国神別」には宗形君「大国主命六世孫吾田片隅命之後也」ともあり、海人族
の血を引く宗形氏にもオオクニヌシへとさかのぼる系譜が伝えられていたらしい。ここで
注目しておきたいことは、宗形君はアタノカタスミノミコト(吾田片隅命)の後裔として
いる点である。ここにいう「吾田」は私は隼人などの源郷である薩摩の阿多のことであろ
うと考えている。
一般的に海洋民である宗形(宗像)氏は北九州に根拠地をもつとされているが『新撰姓氏
録』によるかぎりでは本来南九州に最初の拠点をもっていたと思われる。三輪の神を論じる
際に宗形(宗像)氏の問題に及んだのは実はさきにオオタタネコの伝承にふれたときにその
母は別伝としてクシヒカタアマヒカタタケチヌミ(奇日方天日方武茅渟祇)の御名とするこ
とをあげておいたことに関わるからである。
『古事記』ではオオモノヌシの子としてクシミカタ(櫛御方神)の名をあげているが『先代
旧事本紀』ではクシヒカタアマヒカタタケチヌツミのまたの名をアタツクシノミコト(阿田
都久志尼命)とする。
つまり「阿田」は「阿多」のことで「都久志」は「筑紫」の意味と理解できれば、オオタタ
ネコ伝承ははるか南へとその系譜を求めることも可能である。(後略)
千田氏の説は出雲族の源流が隼人族と血縁関係があった可能性を示唆しており我が仮説を後押
ししてくれるうれしい情報でした。