令和二年の新春そうそう米国とイランの間に戦争が始まるのではないかと世界中の人々が恐れを抱きましたが
両国の指導者が戦争を望んではいないと発信したことから、今回の危機は去ったと皆安堵しました。
人間同士の戦いは人類が誕生した時から食べ物を奪い合うなど生存にかかわる争いがあったと思われますが、
わが国の古代史上では587年・廃仏派の物部守屋と崇仏派の蘇我氏、聖徳太子らが戦い守屋が敗れた乱や、672
年の壬申の乱位しか知られてはいないと思います。しかし記紀には皇族同志による数多くの反乱伝承が伝えられ
ています。
「古田史学」の古賀達也氏は「高良玉垂命は九州王朝の天子だった。」という説を論じていますが、高良玉垂命
とは福岡県久留米市にある築後一の宮「高良大社(こうらたいしゃ)」の主祭神です。この高良玉垂命とは一体
誰のことか諸説あり未だに謎のままです。
私の若かりし頃、勤務先に高良さんという方がおられ珍しい名前と記憶していましたが、今回「高良は加波良(か
わら)と訓むべし。」という注記に出会い目をひかれました。これは江戸時代の神官で国学者・鈴鹿連胤の著作
『神社覈録(じんじゃかくろく)』全75巻(天保7年〜明治3年完成)という古社考証の書の一文でした。
普通には高良を<加波良>とは読めないと思うので高良が<かわら>とルビされたものの存在を探そうと思いました。
直感的に八幡神発祥の地という古宮八幡宮の所在地・香春は『豊前国風土記』逸文によると本来は<清河原の村>で
あるという<かわら>がヒントかも知れないと思い手持ちの風土記を調べてみると勘は当たっていました。
上記は『肥前国風土記』(著者・沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉。2007年。山川出版社)Ⅱ其肄郡(きのこおり)条
をコピーしたものです。
この条の第一段には、景行天皇(第12代天皇。父は垂仁天皇、崇神天皇の孫にあたる。)が筑紫国御井郡の高羅の
仮宮においでになって国内を巡行した際に霧が山を覆ったために其肄郡(きのこおり)と名付けたという謂われを
述べていますが、文中の<高羅>行宮には<かわら>とルビがふってありました。
著者のあとがきによると、「『肥前国風土記』は猪熊本を底本として、恣意的な改変を避けながら校訂を行い、本文
を復原するとともに<奈良時代語による訓読文>を作成した。」とあり高良を<かわら>とする論拠になると考えました。
第二段は長岡神社(ながをかのやしろ)にまつわる伝承で、景行天皇が酒殿泉(さかどののいづみ)で酒食を召して
いる時に(<天皇の甲鎧(よろいかぶと)>が常と異なり光り輝いたので不思議に思い占わせると「ここに居ます神が
大変鎧を欲しています。」と告げたので天皇は「誠にそう望むなら神社に納めよう。永き世の財とすべし。」とおっし
ゃって寄進しました。其の鎧はほとんど朽ち絶えたが、冑と甲の板は今(奈良時代)に在るという。酒殿泉が何処にある
か不明。
第三段は姫社郷(ひめごそのさと)今回のテーマとは関わらないと思うので省略。
この『肥前国風土記』の巻末には補注があり、文中の不明な点の理解に役立ちましたが、さらに高羅の項に思いがけない
情報がありました。
「高羅ー当条と同一の地ではないが『古事記』中応神に「訶和羅の前」。崇神天皇10年7月条に「伽和羅」と見えるのを
はじめとして『出雲国風土記』意宇郡に「加和羅神社」。『延喜式』神名上、伊勢国奄芸郡に「加和羅神社」、同丹波郡
氷上郡に「加和羅神社」など各地にカワラという地名が見えることからここもカワラと訓む。」
古事記と日本書紀の中にあるという「伽和羅」がどのような場面で使われているのか知りたいと思い確認すると、二つ
とも皇太子になれなかった皇子の反乱伝承でした。
高良玉垂命の玉垂は日本で他に例のない表現と思われますが、韓流の王朝ドラマで即位や婚礼などの公式な行事の際の王
は四方に珠類が簾のように垂れ下がっている冠(冕冠)を被っており、私は天子の印だと思っていましたので、天皇家の
反乱伝承に関わっているらしいと知ってワクワクしました。
二つの反乱伝承は以下に記されています。
A、『古事記』では 崇神天皇三 「建波邇安王の反逆」
『日本書紀』では 崇神天皇10年9月条に 武埴安彦と妻・吾田媛の謀反。
B、『古事記』では 応神天皇七 「大山守命の反逆」
『日本書紀』では 仁徳天皇即位前記に応神から仁徳への皇位継承の経緯の中で大山守皇子が兵を挙げる。
これらの本文は長文なので、関心のある方は原文をお読みいただきたく、当ブログでは要点を整理し本質を探りたいと思い
ます。
A 武埴安彦の反逆
① 出自 父 孝元天皇
母 孝元天皇妃 埴安媛(河内青玉カケの娘)
異母兄 大彦命(孝元天皇の皇后の長子)
甥 崇神天皇(開化天皇の子)
② 反乱の動機・発端 崇神天皇10年秋のこと、武埴安彦の妻・ 吾田媛がひそかに倭の香山(かぐやま)に来て埴土を
取り領巾(ひれ)の端に包んで祈ることには「是、倭国の物実(ものしろ)」と言って帰っていっ
た。この項は古事記に記載なし。その後に将を集めて反逆ののろしを上げて攻めてきた。
③ 戦いの場所と経過 武埴安彦は山背から、吾田媛は大阪から都を襲わんとする。
官軍の将は大彦と彦国葺(和珥氏の祖)が王命を受け、那羅山を過ぎ輪韓河に到り河を挟んで
対決する。この河を時の人は挑み河(いどみ河)と名付け、今は泉河と訛って呼ぶという。
最初の矢は武埴安彦が射るがはずれ、次に彦国葺の射た矢が武埴安の胸に当たり死んでしまい、反
乱側の兵は怯えて逃げようとするが半ばは首を切られ死体があふれた。その場所を羽振苑(はふり
その)といい、現在の祝園(ほうその)の地名起源である。
生き残った兵らは甲(よろい)を脱いで逃げるが、勝ち目は無いと覚って敵将に土下座して「我君
(あぎ・我が君)」と降伏の意を表明する。その<甲を脱いだ処>を名づけて「伽和羅という」と
している。
『古事記』では建波邇安王(たけはにやすのみこ)と表記している。紀の輪韓河は記では和訶羅河と
表記し、泉川すなわち木津川の古名という。
B、大山守命の反逆
① 出自 父 応神天皇
母 高木入日売 父は品陀真若王。三人の姉妹がおり共に応神の妃となる。長女は高木入日売 。二女の中日売命
の皇子は後に仁徳天皇となる。
② 反乱の動機・発端 大山守命は崇神、垂仁、景行、成務、仲哀、応神と続く皇統の年長の皇子であったが、応神天皇が和珥臣
の祖・日触使主の娘・宮主矢河枝比売との年少の皇子・宇遅能和気郎子を皇太子に決めたことに不満を
持っていた。加えて倭の屯田は山守を担う大山守命のものと出雲の意宇の宿祢に 主張し争うが。倭の屯田
は常に天皇のものであり山守の管理するものではないと退けられ不満を持っていた。
これらの不満から宇遅能和気郎子を殺して帝位につこうと画策する。
③ 戦いの場所と経過 異母弟の大鷦鷯命(後の仁徳天皇)は大山守命の動きを察して、太子に告げて戦いの備えをすすめた。
宇遅能和気郎子は兵を用意し菟道の渡し場で舟の渡し守に変装して待ち、知らずにその舟に乗った大山守
を河中に至ると舟を傾かせて落としてしまう。さらに隠れていた兵が岸に近ずけさせず遂に沈んでしまい、
其の死体は<考羅済(かわらのわたり)>に浮き出たという。
古事記のこの章は文学的、物語的に構成されており、河に堕ちた大山守命が流れる場面は日本書紀とは違って
おりまるで『『肥前国風土記』Ⅱ其肄郡(きのこおり)・長岡神社の条の前段ではないかと思われる記述内容
です。
「ここに河の辺に伏し隠れたる兵、かなたこなたもろともに興りて矢刺して流しき。かれ訶和羅の前に到りて
沈み入りき。かれ鉤(かぎ)を以ちてその沈みし処を探れば、その衣の中の甲に繋りて<かわら>と鳴りき。
かれ、其地(そこ)を号けて<訶和羅>の前と謂ふ」
<訶和羅>をキーワードとして『肥前国風土記』とあきらかに繋がっていると思います。
時代も登場人物も違う二つの反乱伝承の主人公、武埴安皇子と大山守皇子がそれぞれ戦いに敗れて屍の沈んだ処を<かわら>としており
岩波文庫版『日本書紀』で<訶和羅>の注記は崇神紀、仁徳即位前紀は共に同じ場所を指し、同じ内容でした。
「山城国、綴喜郡河原村(今、京都府綴喜郡田辺町河原付近)。仁徳即位前紀に考羅済(かわらのわたり)とあり。それについて応神記
には鉤をもって大山守命の沈んだ処を探ると甲にかかって訶和羅と鳴ったのでその地名としたという起源説話を載せている。ここもカワラ
は擬音語で甲を脱ぐときにカラカラという音がしたという意に解することも出来る。甲を古くカワラといったという説もあるが確証はない。」
時代も違う二人の皇子の反乱が同じ場所で戦い屍も同じ場所から見つかる可能性はゼロと思うので、この二つの反乱伝承は本来はひとつ
であったことでしょう。ではどちらの皇子かといえば武埴安皇子でしょう。なぜなら大山守皇子は応神天皇の皇子ですから先祖である景行
天皇におねだりすることは不可能なのです。ただキーワードの<訶和羅>が古宮八幡神社の<香春>と繋がると考えたのが誤りとも思え
ません。この矛盾を次回に解いていきたいと思います。