ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

古代からの暗号 精一杯の主張<杉の葉神輿>

2020-02-22 08:34:04 | 日本文化・文学・歴史

米国とイランの危機が去ったと安堵したのもつかの間、中国の武漢に発生した新型コロナウイルス感染の恐怖に世界中が怯えて
います。まるで消防のように消毒液を散布しまくっても消えない武漢のコロナウイルス。より強力な毒性に変化することのない
ように祈るばかりです。

今回は<カワラ>と読むべしとされる<高良>ですが<コウラ>となるきっかけは地名からであったと思われる記述が見つかり
ました。『宇佐八幡と古代神鏡の謎』(著者・田村園澄・木村晴彦・桃坂豊 2004年 戎光祥(株))の第四章「採銅所と古宮八幡
神社の祭ー古宮八幡神社の成立」によると
 現在の香春神社は香春岳一の岳南麓に和銅二年(709年)に創始した新宮をいうが、それ以前は香原岳三の岳の採銅所内の阿曽隈
にあった。これを古宮八幡(本宮)と称している。さらに現在三の岳の東の麓に古宮が鼻があり、その付近一帯の小字を古宮といい
古宮八幡が慶長四年採銅所町の北端、高巣の森に遷座するまでは、この古宮という現在藪になっている場所に社殿拝殿が建てられて
いた。この小字には古宮八幡があったのでその前方東の方を宮原と呼んでおり、宮原の台地には中国から渡来の円行花文鏡を出土し
た宮原古墳群があり、この台地と金辺川の作った平野との境界付近には古くから豊比咩命を祀る人々の集落があったと考えられてい
る。現在は宅地になっているところに<河原=ゴウラ>という地名が存在していたのです。

古宮八幡宮の原初の地<河原>が<ゴウラ>と伝承されていたことは重要で『豊後国風土記』逸文の「鹿春の郷。此の郷の中に河
あり(中略)因りて清河原の村と号(なづ)けき。今鹿春(かはる)の郷と謂ふは訛れるなり。昔者(むかし)、新羅の国の神、自
ら度り到来りて、此の河原に住みき。便即(すなは)ち名づけて鹿春の神と曰ふ」この文面からは何の不審な点は感じられませんが
<河原>の読みが<ごうら>だったら<鹿春=かはる>に訛化するとは考えられません。

つまり<ごうら>が<香春(新羅系渡来人・秦氏)>に交替(かはる)した事を暗示しており
① 前回のブログの<高良>を<かわら>と読むべしという説と
② 今回の<河原>が<ごうら>と読める事例によって
二つの関連性は明らかとなり高良大社祭神は香春神社の始原である古宮八幡の祭神・豊比咩命であろうと推量出来そうです。

記紀と風土記の編纂者たちは<かわら>をキ-ワードとして孝元天皇と応神天皇の皇子たちの反乱伝承を挿入しましたが、これらの
エピソードの主人公・建埴安の妻は<吾田媛>・大山守は八幡神とされる応神天皇の皇子なので九州に縁ある人物です。
『古代八幡と古代神鏡の謎』の実質的著者である木村氏と桃坂氏は発刊当時、香春町文化財保存委員や福岡県文化財委員など地元に
密着して歴史や民俗の研究をされている方なので、河原の住人はどのような人々だったのだろうかという疑問に多くの情報を提供して
くれました。

情報Ⅰ 古宮八幡宮のある採銅所村=杉坂村
    「宮原の須佐神社付近に最近まで<社家屋敷>といって民家造営を忌み、畑地になっている土地があると伝えられていた。
     古宮八幡が慶長七年(1603年)、現在地に移るまでは、神官は杉坂姓で、屋敷は宮原にあったと伝えられている。
     採銅所村は<杉坂村>といわれていた。」

情報Ⅱ 古宮八幡宮の神輿の<杉の葉神輿>と<おまがり様>
    「古宮八幡の神輿は一切白木作り、屋根は杉の葉葺きである。これは非常に原初的な神輿の形を残している。
     その理由として考えられることは①古くは杉坂村といわれていたので杉の葉葺きを残した。②香春神社の神幸祭に参加する
     ので<仮神輿>と表現されている記録がある。仮のため種々の飾りをつけなかったのであろうか。

     また、古宮八幡の神輿祭には必ず、長光家で作った<おまがり様>を迎えに行き、本宮で祭典が行われ、それから神輿へ神遷
     しが行われる。江戸時代、香春宮へ行幸の時も<おまがり様>という龍頭の餅を献じていた。と『古宮八幡宮御鎮座伝記』に
     記されている。
     長光家は古宮の宮柱で<御神鏡>を鋳造する家であるが、どうして<おまがり様>を神幸祭に先立って古宮に献じるのだろうか
     おまがり様は古宮の神璽または御正躰であろうか、なかなか謎の多い神社である。」
                            
情報Ⅲ 杉坂村の原初の信仰は古宮から
    「香春神社の神幸祭は古宮八幡の神輿が行幸し豊比咩命が香春神社三の御殿に遷座した後、香春神社の三神輿で神幸が始まる
     のである。この事について、古宮八幡側は<古宮社>三の御殿に入御なきときは、神幸祭務まらぬ例なりき。と少し威張った
     意見を述べている。」
情報Ⅳ 新羅神(香春神社)に占拠された?採銅所の古宮。
    「香春神社の祭神は辛国息長大姫大目命。この神は新羅から渡来した人々の神で第一殿に祀られ、第二殿には忍骨命(おしほね
     みこと・天照大神の子で邇邇芸命の父)第三殿に豊比咩命が祀られたが、しばらく経て豊比咩は古宮に帰座され第三殿は空殿
     となる。古宮には貞観元年(859年)宇佐八幡より神功皇后と応神天皇の二柱が勧請されたことによって古宮八幡と称されるよ
     うになった。
     古宮の地は元々三の岳の採銅所村であった故か宇佐八幡の御正躰ともいわれる御神鏡が鋳造され、その鏡を宇佐神宮へ届けら
     れる神幸祭が行われている。」

 香春岳の採銅所は『豊後国風土記』逸文により新羅から渡来した人々が従事し、彼らによって香春の神が祀られている点ばかり語られて
きましたが、それ以前の住民はまるで居なかったように注目されては来なかった。しかし上記の情報からは、古宮の豊比咩命が原初の住民
によって祀られた神で香春の神に合祀されたことで祟りでもあった為か元の古宮に戻り、宇佐八幡宮への行幸には杉の葉神輿を担いで、その
存在を示しています。

古宮の住民たちの居住地は<杉坂村>であり、彼らの祀る神の神幸祭の神輿が<杉の葉神輿>と知った時から私には<杉を祀る人々>に心
当たりがありました。平成19年に出版した『古代からの暗号』から<杉を祀る人々>を考察したページを転載します。
「伏見稲荷神符」中の「狐」の図は「きつね→木の根→杉」と解くヒントとして提示したものと以下のように推理しました。

 伏見稲荷神符の伝えたい言葉<木つ根>は<木の根>つまり出雲が<杉を祀る人々の根源>であるというメッセージであり、さらに杉を
偏(木)と旁(三)に分解し、『古今和歌集』巻十「物名」の中に閉じ込められた難解語<三木三鳥>の<三木>を指していると思われる。
実際に出雲系とされる桜井市の大神神社や伏見稲荷などは杉が神木である。ならば、古今伝授の三木と対応する「秋の七草」の<脛=八束
脛・荒吐><尾花(茅)=伽耶><葛=国栖・国巣>が<出雲の木つ根>であることを証する何らかの仕掛けが用意されなかっただろうか?

『続日本紀』によると霊亀二年(716年)出雲国造・出雲臣果安が神賀詞を奏上した。この神賀詞は出雲大社など186社の神主であり、意宇
郡大領という出雲の祭政を一手に司る出雲国造が代替わりごとに朝廷に出仕し、天皇の長寿を祈り、神宝を献上し、服属を誓う祝詞である。

この文中に「己命の和魂を八咫の鏡に取り託けて、倭の大物主櫛𤭖玉の命と名を称へ、大御和の神奈備に坐せ、己命の御子阿遅須伎高彦
根の命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主の命の御魂を宇奈堤に坐せ、賀夜奈流美の命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて、皇御孫の
命の近き守神と貢り置きて、八百丹杵築の宮に静まりましき」と服属する側が記されている。

大物主櫛𤭖玉の命は出雲の大国主命の和魂とされ、桜井市三輪にある大神神社の祭神である。興味深いことに大神神社の境内には、伏見稲
荷縁起に語られる「験杉(しるしのすぎ)」が現存し、寛政三年(1791年)に描かれた「大和名所図会」にもあり古の伝承が形として残さ
れている。しかし数ある木の中から<杉>をえらんだ理由は何か?それはまっすぐに伸びた樹形に矛のイメージを重ねて<矛杉(万葉集に
も用例がある。)>としたと思われる。矛は出雲王朝の象徴(富氏によれば出雲王朝は矛を交差させた紋)そのものなのである。

<杉の葉神輿>を奉じる杉坂村の人々は出雲系(=倭国)の人々であり、その証に杉の葉の神輿を後世に伝えていたと思われます。
謎の<おまがり様>を次回に。

 




























 

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