ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

尉仇台の子孫が倭王になった? 4(渤海使への厚遇)

2018-08-28 15:20:38 | 日本文化・文学・歴史
夏の甲子園球場は第100回の記念大会にふさわしく大いに盛り上り大阪桐蔭高校の春夏連覇の快挙
で幕をおろしましたが、多くのファンはたった9人の部員で準優勝をした秋田県金足農業高校の戦い
ぶりに感動し、吉田輝星投手に投げ勝たせたいと思っていました。花巻出身の大谷投手に続き秋田から
新しいスター誕生の予感がします。

奈良時代の渤海使が日本海を渡って到着したのも秋田県で、当時の出羽国の野代湊(現能代市付近)です
が、夷地と接する朝廷側の最北端でした。
『続日本紀』に記載される渤海使の来朝の時期と『東日流外三郡誌』のみに伝えられている津軽住民(荒
吐族)が奈良時代に大和朝廷側と戦い和議の条件として荒吐族の姫(阿部皇女)を立君(孝謙天皇)せし
めたとする時期がほぼ重なっており、渤海と孝謙天皇と荒吐族との繋がる鍵は何か探したところ、朝鮮の
古史・古伝『桓檀古記・大震国本紀』によると「扶余王・尉仇台の子孫・依羅が慕容氏から逃れたのち、
衆数千を率いて海を渡り倭人を定めて王となる」と記載されていることが事実なのではないかと思いはじ
めました。

扶余は410年に高句麗に吸収されますが、高句麗の王族の元は扶余、また高句麗の王子が建国したとい
う百済の源も扶余にありますが、高句麗は668年に、百済は663年に滅びてしまいますが、高句麗の
遺民が698年に震国を建て後に渤海国となります。渤海国は扶余や高句麗の遺風を守る後継国と主張し
ています。

前回のブログで渤海使が漂着する夷地とはどこか?に対して『北の海道』の著者・新野博士は津軽の十三
湊を比定しています。そこはかつて荒吐族の本拠地であり『東日流外三郡誌』を村史(資料編)として編
纂した青森県北津軽郡市浦村(現・五所川原市の飛地)でもあります。

現在の十三湊は津軽半島の鄙びた漁村にしか見えないのですが(平成16年に訪ねた時の写真を載せまし
た。荒磯崎神社は荒吐・荒脛から転化したといわれています。霊気の感じられる場所もありました。)
南北朝時代の頃の『廻船式目』では日本の重要な港湾を「三津七湊」と列挙していますが、「三津」とは
伊勢の安濃津、筑前の博多津、和泉の堺津。「七湊」とは越前の三国(坂井)、加賀の本吉(美川)、能
登の輪島、越中の岩瀬(富山市)、越後の今町(直江津)、出羽の秋田、そして津軽の十三湊を指してい
ます。伊勢と堺以外はすべて日本海に面した大きな川の河口にあり、日本海交易の拠点であると同時に、内陸
部への往来の拠点でもあったと思われます。

しかし、十三湊は興国2年(1341年)に大津波に襲われます。20m前後の高波が17波にわたって
押し寄せ、埋田600町歩、埋家3217戸、牛馬浪死5000頭、流失米6万俵、人命凡そ12万人、
沈船270艘、倉邸埋失金30万貫、神社仏閣270棟という壊滅的な被害があり、さらに伝染病が広がっ
て生存者の中から8千人が死亡したという。(佐治芳彦著・『東日流外三郡誌の秘密』より)
この大津波が運んできた漂木や土砂によって十三湖は埋まり、十三湊は港湾としての機能を失ったことから
津軽は衰退していき、かっての繁栄の記憶さへ失われてしまったと思われます。

十三湊の失われた記憶は昭和52年から53年(1975~1977年)にかけて『市浦(しうら)村史・資料編』
として発刊された『東日流外三郡誌』が世にだされた事で脚光を浴びましたが、正史とはあまりにかけ離
れた内容でありこの情報提供者の信頼性を疑われ裁判にかけられ偽書という風評が広がり注目されなくな
りました。

私が『東日流外三郡誌』の内容を知ったのはずっと後の1990年代で当時所属していた短歌会の結社誌に
万葉集巻八・山上憶良詠「秋の七草」が日本の成立に関わった七種の民族又は国の名を伝える暗号歌と考え
て「古代からの暗号」の連載を始めた頃でした。(1996年)
秋の七草の「萩の花、尾花、葛花、撫子が花、女郎花、藤袴、また朝顔が花」の内、尾花=薄=茅=伽耶。
葛=国栖・国巣・国主。など同音異義語に対応する花の名と民族又は国の名が記紀に散見していることに
気がつきその謎解きに挑戦し始めたばかりでした。

「秋の七草」の「萩」に対応するのは記紀には「八掬脛」。脛の長く、大和朝廷にまつろわぬ人の存在を
記しており、これが『東日流外三郡誌』に書かれた荒吐族であろうとその存在を確信したのでした。
青森県木造町亀ヶ岡の土中から発見された荒吐神と呼ばれる土偶(国宝)の容姿から西域の敦煌の莫高窟45窟
の天王像と酷似しているので、荒吐族とは吐蕃民族(tubo,後のチベット)と考えましたが、『東日流外三郡誌』
によると荒吐族は先住者のアソベ族とツボケ族と列島の落人、支那や韓民族等の一群が上陸したとも伝えており
荒吐族は多彩な民族によって構成されていたと思われます。

しかし、何故に「はぎ」を選んだかその由来が気になっていましたが、万葉の世界では「萩の花」は「芽」「芽子」
と表記され万葉集中約140首あり、もっとも多く詠まれており、歌語の取り合せでは「萩と鹿」「萩と雁」が
詠まれています。「秋の七草」を絵画化した屛風絵には萩と雁がセットとして描かれています。動物の場合は民族
のトーテムとして「蒼き狼」と「元のチンギス・ハーン」の関係が有名ですが、「鹿」は「扶余」のトーテムと知り
とても驚きました。扶余と荒吐族との関係を示唆しているのでしょうか?

また高句麗との関連をおもわせるのが高句麗第8代王の長子の發岐(抜奇)です。2018年5月28日のブログ
に取り上げています。

『続日本紀』に掲載される渤海使の記事は第1回目は聖武天皇の神亀4年(727年)から始まりますが、
 聖武天皇時代  3回  到着地 出羽の野代
 孝謙天皇時代  1回  到着地 越後の佐渡島
 淳仁天皇時代  3回  到着地 越前国
 光仁天皇時代  5回  到着地 出羽の野代 2回、 能登 1回、越前 2回 
となっています。
このうち天平18年(聖武天皇)出羽に着いた渤海人と鉄利人1100余名は天皇の徳化を慕って来朝したといい、
「朝廷は彼らを出羽国に配して保護し、衣類や食料を給し自由に還らせた。」とありますが詳細は不明です。

光仁天皇の宝亀10年にも渤海人と鉄利人359人が聖朝の徳化を慕って出羽国に着きました。彼らに対し必要な物
を供給し、来た使いは身分が低いので賓客待遇は不要。使者を遣わし饗応し、船が損壊しているなら修造し渤海と
鉄利に帰らせるよう指示しているが、季節が冬の厳冬期に向かう時期なので帰国の時期を延ばす許可を与え、彼ら
の費用を常陸の調(絁あしぎぬ・今の紬)相模の庸(真綿・絹糸の屑を綿にしたもの)陸奥国の(麻布)当てるよ
うに指示。温情を示す一方で統率者の高洋粥らの上表文は無礼であるから進上させるなとか、本来筑紫(大宰府)
を経るべきをそうしない上に巧みな言葉で便宜を求めてくる。罪を調べて二度と無いようにと不快感をしめしてい
るが、高洋粥らは乗って来た船が損壊し、帰る計画が立たない、天皇の恩恵を持って船9隻をねだっており許可さ
れる。巧な言葉で便宜を求めてくる渤海国の交渉術の伝統は、昔も今も変わらないようですね。ご用心!ご用心!

2018年6月26日のブログには孝謙天皇が渤海からの上表文に無礼であると怒りをあらわにした返書を取り上げまし
たが、光仁天皇の宝亀2年に渤海使・壱万福ら325人が船17隻に乗って野代湊へ着きました。彼らを常陸国に
住まわせ食料など供給しました。その内40人が入京し3年の正月に天皇に拝賀して宴にも参加し土地の産物など
献上しました。が、16日になって上表文が無礼なので受け取りを拒否され、さらに信物を返却されます。
壱万福らは25日になって上表文を修正し、王に代わって謝罪しました。そこで朝廷は態度を変えて五位以上の
官人と渤海使らを饗応し三種の楽(唐・東国・隼人などの楽)でもてなしました。しかし、2月28日の渤海王
宛の書状では無礼をとがめています。

 「天皇は敬んで高麗国王(渤海は高句麗を継承していうとされていた。)に尋ねる。
  眹は国体を引き継ぎ、天下に支配者として臨み、徳化の恵を広く及ぼして人民を安んじ救う事を期している。
  それ故に領土の果てまで政治の教化は軌を一にして、全天の下恵みは隣国と相隔てることがない。

  昔高麗が全盛であった時、その王の高武は、始祖より歴代、大海の彼方に居りながらわが国と親しいことは
  兄弟のようであり、義は君臣のようであった。海には帆をかけ渡し、山には梯を架けるように、障害を越えて
  朝貢することは相続いてきたが、末年に及んで、唐、新羅の侵略を受け、高氏は滅亡した。それ以来音信は
  絶えてしまった。

  神亀4年に至って王(文王・大欽茂)の亡父である渤海郡王(武王・大武芸)が使者を遣わして来朝させ、
  初めて朝貢を修復した。
  先の朝廷(聖武帝)はその真心をよしとして厚遇優待された。王(大欽茂)は先王の遺風を受けついで、
  前代の業を修め整えて、誠をもって仕え、王家の評判を落とさなかった。」

渤海王への手紙が途中で切れて送信できませんでした。次のブログに「4の2」として更新しましたのでお読み
頂けたら幸いです。  草野俊子 

















































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