ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

古代からの暗号 密かに<息長王朝の系譜>を伝えていた『古事記』

2022-09-18 13:06:39 | 日本文化・文学・歴史

世界中から敬愛されていたイギリスの女王エリザベス2世が9月8日に亡くなられました。
スコットランドに滞在中に逝去された女王の訃報が伝えられた夕刻、ロンドンでは花束や国旗を手にし国歌を口ずさみながら女王の
死を悼む市民の行く手・バッキンガム宮殿の上空には、大きな虹の架け橋がかかり幻想的な光景が出現したという。
新国王には皇太子のチャールズ3世がなられたが、新聞によると次の王位継承1位は長子のウイリアム王子、2位はウイリアムの長男
ジョージ王子、3位は長女のシャーロット王女、4位は次男ルイ王子、5位が新国王の次男ヘンリー王子という。

万世一系と称される日本の皇室では、天皇家の直系男子のみが皇位を継承すると定められており、次代を継ぐべき男性皇族は秋篠宮、
悠仁親王、常陸宮のお三方のみという現状であり、政府は諮問機関を設けてはいるものの進展しているようには見えません。

前回のブログでは息長(秦氏?)帯比売(神功皇后)の父・息長宿禰王のルーツを遡ると第9代開化天皇の皇子・彦坐王と息長水依
比売にいたりました。

息長水依比売は近江の野洲に鎮座する三上神社の祝の娘と記されています。三上神社の祭神は天御影神ですが、金工鍛冶の祖神であ
り天目一箇神と同じ神ともされます。当神社の祭礼には氏子たちが<ずいき神輿>を作り、奉納する習いがあると前回に紹介しまし
たが、<ずいき>とは里芋の茎を乾燥させ食料にしたもので、古来味噌汁や煮物の具でした。また、和歌の世界では「随喜(喜んで
ありがたがること)」と懸けて詠まれています。

三上神社の<ずいき神輿>は何故里芋を使うのか、そのルーツを伝えている説話が『豊後国風土記』の総記に記されており「豊前
国仲津村に白鳥が飛んできたが、後に白鳥は餅に変容し、さらに芋草(里芋)となり、花と葉は冬にも栄えた」と。
これらは現実の描写ではなく芋が繫茂し栄えた>部分は歴史的事象を比喩したもので<いも>が<鋳物師(いもじ)>であること
を当ブログ( 2009年10月10〜12日 伏見稲荷神符29〜31 『豊後国風土記』のキーワード<いも>1など)で証明出来ている
と思います。

三上神社の祭神は金工鍛冶の祖神と伝えられること、水依比売に息長が付されている事などから<ずいき神輿>を奉納する人々の
ルーツは九州の香春岳周辺から移って来た金属加工を生業とする秦氏系の人々と思われます。そして秦氏と息長氏は同族の可能性
が高いと思います。その理由は、彦坐王の子孫の中で息長氏の血を受け継ぎ天皇の位についたのは応神天皇ですが、応神天皇は
八幡大神とも比定されているのです。

秦氏は政治には関与しない殖産氏族と称されていますが、息長系天皇が他にも存在するのではないか?好奇心が湧いてきました。
幸いに『古事記』には天皇、后妃、皇子たち、その子孫まで詳細に記されています。彦坐王の妃と子供たちの系譜の一覧表をつく
り息長系の血統を辿る事にしました。

 以下は開化天皇から応神天皇にいたるまでの后妃とその子孫から天皇位へ繋がる系譜を探し出し、さらに息長の血を受け継い
でいるかを目安にした系図です。崇神天皇の子・彦坐王の妃となった息長水依姫は丹波比古多多須美知宇斯王を生み。その娘・
比婆須比売命が垂仁天皇の皇后になって生まれた子が12代景行天皇です。彼が息長直系血族の第一番目の天皇でした。
さらに系図を作成した結果、13代成務天皇、14代仲哀天皇、15代応神天皇、16代仁徳天皇まで全ての天皇が息長系でした。

 9代開化天皇の関係系図

その1 

その2


 10代崇神天皇の関係系図


 11代垂仁天皇の関係系図

その1


その2

 12代景行天皇関係系図

その1


その2


 12代景行天皇皇子の倭建命関係系図

その1


その2


 13代仲哀天皇関係系図



 15代応神天皇関係系図

その1


その2


その3



第16代の仁徳天皇は応神天皇の皇子で系図上は親子関係ですが、婚姻関係は息長氏から葛城氏に移るという変化が
あり、その後の天皇は数代にわたり仁徳天皇の息子たちが継ぎ、后妃には葛城系の女性たちが入内します。
しかし17代允恭天皇の皇后に息長系の忍坂大中津比売がなり20代安康天皇と21代雄略天皇が成立します。
また忍坂大中津比売の父・若野毛二俣王の子・意富々杼王の後には継体天皇、さらに欽明天皇、敏達天皇、舒明天皇と続き
息長系最後の天智天皇と天武天皇によって幕が降ろされたと思われます。

  近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ   万葉集3-266

この一首は柿本人麻呂がいにしえの息長王朝を偲んで詠んだものではないでしょうか?

また、天智天皇が大津を都に定めたのも、その理由は父祖の地だったから!!でしょう。




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 古代からの暗号 <息長氏は... | トップ | 古代からの暗号 崇神天皇と... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

日本文化・文学・歴史」カテゴリの最新記事