大相撲の初場所で大関・稀勢の里が優勝し日本人の横綱が誕生した事で日本中が
大いに盛り上がりましたが、その際に稀勢の里関が茨城県牛久市出身で本名は
萩原寛(はぎわらゆたか)さんと知りました。 以前のブログ(2015.3.22)
「ホータン(牛の国)につながる大隅の牛根、備前の牛窓」を思い出し、牛久が
チベットにつながることはないのかと思いました。
牛久の地名の由来は牛久沼からか?と定かではないが牛久から10kmほどの距離の
取手市の中妻貝塚遺跡から縄文人骨が100体ほど出土し、遺伝学者の鎌田謙一博士
がその人骨の遺伝子解析をした結果、現代チベット人の8%が持つハブログループ
Ⅿ10の遺伝子をもっていることがわかりました。この遺伝子は近隣の国でみつか
ることは無いが、現代日本人の1.3パーセントという少数ながら所有者がいるそ
うです。仮に1億2千万の人口なら156万人であり、かつて渡来したチベット系
の遺伝子を持った人数がほんの少数だったか、否か興味深く思われます。
稀勢の里関の本名・萩原姓から連想したのは私が「古代からの暗号」と考えた万葉
集巻五・山上憶良詠「秋の七草」の萩でした。「秋の七草」とは日本国の成立に関
わった7種の国または民族を花の名前に託して伝えようとしたもので、萩は『常陸
国風土記』に大和朝廷からみた土着民の呼称「国栖、俗の語に土蜘蛛、八都賀は岐
、山の佐伯等」と記されたの中の八都賀は岐(八掬脛)と考えました。
風土記によると彼らは常陸国だけでなく、越や東北各地に存在しており、私の故郷
の仙台にも萩町があり和歌の世界では「宮城野の萩」を歌枕として詠まれています
が、宮城県には萩が自生していないので都から来た官人が土着民を指してハギと呼
んでいた可能性があります。
青森県木造町(旧萩野)亀ヶ岡遺跡から発掘され「遮光器土偶」と呼ばれている
縄文晩期の土偶(国宝)があり、津軽地方では荒吐神として信仰されていたのでし
た。それは一見特異な形状の土偶ですがそのスタイルは西域の敦煌にある莫高窟
45窟にある天王像と着衣がそっくりでした。この土偶のモデルは紀元前3~後2
世紀に自らはTubo.Tufanと称する「吐蕃」民族であろうと思いました。
吐蕃とは後のチベット民族のことです。この土偶のスタイルを踏襲した四天王像の
うち北方を守る多聞天が毘沙門天という独尊となり平安京の羅城門上に安置されま
すが、この像を日本では兜跋毘沙門天と呼び9世紀以降日本各地で祀られています。
今回のテーマは牛が重要なのでチベットと牛と于闐(ホータン)の関係も簡単に説
明します。
中国の求法僧・法顕が5世紀にホータンを訪れた時の見聞記『仏国記』によると
当時の国名表記の瞿薩旦那国は日本ではクスタナ国と呼んでいるが、サンスクリッ
ト語(梵語)の「ゴースタナ」の音写であり「牛の国」の意味であるという。さら
に「瞿摩帝寺」を訪れるが「瞿摩帝」は梵語の「ゴーマティ」の音写で「牛の糞」
の意味であるという。この「瞿摩帝」が日本に伝わった時に瞿摩⇒牛、に、帝⇒王に
変化し熊野の「牛王」信仰がうまれたのではと推量しました。
現代でさえ遥か西の果てのように思われる西域からはるばる日本列島にやって来た
人々の故国?ホータン(現在は和田、古称は于闐)は「禹氏の玉」と称される白く
美しい玉を産出する地域で紀元前からその玉を求める人々がやってくる交易都市と
して繁栄していました。発掘された文書からは梵語、コータン(ホータン)語、チ
ベット語、漢語、ウイグル語などがあり多様な民族が割拠していました。が、この
地を支配しようと攻めたり攻められたりの興亡があり時の支配者の歴史は記録され
ていても、基層民が何民族であったか確かには分かりません。そこで様々に呼ばれ
表記されたものを整理し国名の由来から民族を推理してみましょう。
①于闐 うてん
ホータンの古称として様々な文書に記されている。
古代チベット語で<玉の城><玉の村>の意味。特産の美しい玉にちなむ名。
「禹氏の玉」の「禹氏」とは月氏族を指す。
北狄(匈奴)が表記した于遁(ウトン)は同源と思われる。
②ゴースタナ
サンスクリット(梵語)で<牛の国>の意味
③瞿薩旦那国
くすたなこく
梵語・ゴースタナを漢字で音写したもの
意味 地乳 kusutana の kuは地 stanaは乳房
(チベット語資料の『ウテン国授記』)
④ホータン
ホーティエン khotan ウイグル語のローマ字表記
koten チュルク(トルコ)語
現代の呼称はウイグル語に由来している。中央アジアから進出してきた人々で
イスラム教を信仰しており、偶像を否定するので石窟の仏像の目をくりぬいた
り破壊したり古代の遺産にとって天敵。
諸胡人の表記するカッタン、クッタンなどの呼称も同源と思われる。
こうしてみるとウイグル人の多い西域でホータンと呼ぶ理由が納得できます。が、
古代の日本列島に来た人々はゴースタナ(牛の国)の伝承を持っていて、広隆寺や四天
王寺で「牛まつり」を行い、熊野神社の「牛王宝印」の護符を作りだしたと思われる
ので梵語を解するチベット系の人々のようです。
「牛王宝印」については当ブログ2011.11.8「牛王のルーツか瞿薩旦那国」の
ページを御覧ください。
牛王宝印護符は多くの寺社で配布していますが、牛王とは牛頭天王であり素戔鳴尊の
化身とされ、京都の八坂神社(祇園社)の祭神で疫病を鎮める神、祇園天神として信仰
されています。その素戔鳴尊は武塔天神(自ら早須佐鳴と名乗っている)とも称するが
その出典は『備後国風土記』逸文の「蘇民将来」の説話にあります。
『備後国風土記』の「蘇民将来」の説話は鎌倉時代末期の『釈日本記』に引用された
ものが最も古い伝承です。風土記自体は713年の勅命により編纂されているので奈良
時代にはすでに知られている伝承と思われます。要約ですが
昔 武塔神が求婚旅行の途中、裕福な弟・巨旦将来に一夜の宿を求めたが断られて
しまい、次は兄である蘇民将来に宿を願うと貧しい暮らしであったが宿を提供してくれ
る。後に再びそこを通った時に武塔神は豊かでも冷たい態度の弟・巨旦の一族をことご
とく殺そうとするが、武塔神には一宿一飯の恩がありそれに報いるために、巨旦の妻と
なっている蘇民の娘に「茅の輪を付けて蘇民将来子孫と告げよ」と除難のほうを教えた
ので娘は生き延びる事が出来たのでした。
これに倣い各地の寺社では年の初めに<茅の輪くぐり>と<蘇民将来子孫>の札やお
守りを疫病除けの護符として出すようになりました。
蘇民将来信仰の典型例とされる習俗を詳細に記載されたホームページがありましたので
一部関連するところを紹介します。大変貴重な資料と思いますので
「蘇民将来符ーその信仰と伝承ー八日堂蘇民将来符」を検索しぜひご覧ください。
私はこのような護符のあることを上記ホームページで始めて知りましたので、この
護符がどのような性格のもので、どのように扱われているか知りたいと思いました。
①武塔の神とは外国から渡来した武塔天神王か、武に優れた神を意味する名であるか
明確ではないが、「吾は早須佐雄の神なり」と伝承の過程で素戔鳴尊と習合されて
いる。
②ここでは牛頭天王と武塔神は習合されていない。ちなみに素戔鳴尊と祇園社の牛頭天王
が習合されるのは平安時代以降である。
③角形の図柄から一般に蓑笠姿を象徴したものとされており、高天原から追放された素戔
鳴尊が長雨の中青草を結んだ蓑笠をつけ苦しみながら降っていく姿をなぞらえたとする
見方がある。また素戔鳴尊と牛頭天王が習合されてからは「牛頭天王の身代形を蓑笠に
見立てたのであろう」とされている。
しかし私は蘇民将来符も一種の暗号のようなもので、ゴースタナ(牛の国)が生土(うぶ
すな)であるという伝承から推量すれば、牛王宝印と共通の意志で考案された護符であろう
と思いました。現在は郷土玩具のように愛されていますが、本来は宗教的なお守りであった
と思います。瞿薩旦那国の建国神話では毘沙門天の国とも称しており、これまで毘沙門天像
をたくさん見てきた私には毘沙門天像の掌にのせられている宝塔を模したものではないかと
思いました。酒泉出土の小仏塔は角と丸の違いはありますがよく似ています。その下の写真
の右側はチベット、左側は新羅の舎利容器です。
これらの宝塔から九輪(塔の頂上の柱の飾り)をはずした形が蘇民将来符ではないか?
仏教の世界では<九輪(くりん)>とは生、病、老、死など種々の苦しみが輪のように
次々にめぐって止まないことを言うので、疫病などの災厄から逃れるために九輪を外した
可能性がありそうです。
以下の枠どりの部分はホームページから引用します。
上図の「魚形様のアミ」「九字の図柄」が何を意味するのか、本来の意味は失われている
ようですが、私の推量は「魚形様のアミ」は<花びら又はつぼみ>。花は端(物事のはじ
まり)を隠喩しているように感じます。「九字の図柄」の<点を打つ>が八日堂や飯能市
の竹寺でも秘伝とされているとの伝えから考えると最も重要なメッセージと思います。
点を打つ➡打つ点➡ウッテン➡ウテン➡于闐と導く事が可能ではないでしょうか?
熊野の牛王宝印の絵柄には75羽の八咫烏が描かれていますが、鳥形に装飾した図案の
牛王宝印護符は<烏点宝珠>と称されています。こちらにも<ウテン>が隠されています。
二つの護符に隠されていた<于闐>。<于闐>が<生土>と後世に伝えようとした先人の
思いがひしひしと伝わってきます。