秋も深まりました。このところブログのストーリー作りに悩んでいましたが
漸く「秋の七草」の「朝顔」に結びつけられそうな「牽牛子塚古墳」の情報
に出会いました。牽牛子塚古墳は奈良県飛鳥村大字越にあり、7世紀から8世紀
中葉にかけて造営され石槨内に墓室が二つある古墳です。2010年9月に一年か
けて発掘調査された結果が公表されましたが、被葬者が斎明天皇と妹の間人皇
女(孝徳天皇皇后)の合葬墓である可能性が高いとされ大きな話題になりまし
た。墳丘は地震により崩壊しており元の形を知る由もなかったのですが、高さ
4.5メートルほどで版築による三段構成の石造りの八角墳であることが判明し
ました。
古墳といえば前方後円墳や前方後方墳、円墳が良く知られていますが、八角墳
は高句麗(現在の平壌付近)に多く残存する形式ですが、日本では舒明天皇(
押坂内陵)天智天皇(山階陵)天武、持統合葬陵(檜隈大内陵)草壁皇子(束
明神古墳)文武天皇(中尾山古墳)など7世紀代の天皇陵に多く造られており、
壬申乱以降は造営されなくなったとされる古墳の形式です。
斎明天皇墓説が浮上した理由には、日本書紀天智6年(667年)2月27日条に
斎明天皇と間人皇女を「小市崗上陵」に合葬したと記載されている事や、当時
の天皇陵に多い八角墳であり二名の合葬墓、貴人の墓に用いられた夾紵棺の破
片や女性の臼歯の遺物などから判断し、この古墳の被葬者が斎明天皇の墓であ
ることはほぼ間違いないと考えられるようになりました。
ところが宮内庁の管理する斎明天皇陵は奈良県高取町大字車木にある車木ケン
ノウ古墳に比定され「越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)」として祭祀
されているのです。八角墳の牽牛子塚古墳は真弓丘陵にあり現在の住所は奈良
県高市郡明日香村大字越。越智丘陵とは2.5㎞位離れています。
日本書紀に記されている「小市崗上陵」とは」一体どちらの古墳を指している
のでしょうか?
斎明天皇は百済救援のために向かった筑紫の朝倉宮で亡くなられ(661年)朝
倉市恵蘇八幡宮の御霊山で殯(もがり)をし、3ケ月後に飛鳥の川原宮で3日
間葬儀が行われたらしいが(斎明7年11月7日)、墓所については日本書紀天
智6年2月27日(666年)条に「斎明天皇と間人皇女とを小市崗上陵に合せ葬せ
り、この日皇孫の大田皇女を陵の前の墓に葬す。」とあるが注によると前半部
は過去の事で、この日以下が書紀の日付の日に行われたという。これに続き
「皇太子(天智天皇)、群臣に謂りて曰はく『我、皇太后天皇(斎明天皇)の
勅したまへる所を奉りしより、万民を憂へめぐむ故に、石槨(いはき)の役を
起さしめず。ねがふ所は永代(ながきよ)に似て鏡誠(あきらかないましめ)
とせよ』とのたまふ」とあり、天智天皇が母の遺言として今後は石積みの大掛
かりな墓所作り止めよと群臣に語ったとしているのでこの時点で作られた斎明
天皇の墓所は牽牛子塚古墳ではないと思われます。
次に現われる記事は斎明天皇の曾孫にあたる『続日本紀』天武3年10月13日条
(699年)です。
「(文武天皇が)次のように詔された。
天下の有罪の人々を赦免する。ただし、十悪と強盗、窃盗の者は赦免に入れ
ない。越智山陵(斎明天皇陵、大和国高市郡)と山科陵(天智天皇陵、山城
国宇治郡)とを造営しようとするからである。」続いて10月20日条には上記
の越智山陵(12名)と山科陵(12名)造営のために任命された官員の名前が
記され、それぞれ作業を分担して山稜を修造させた。とあります。彼らは指
示監督する立場の人と思われるので、かなりの大工事だったと思います。
この二人の天皇の御陵の造営(修造?)は古代史の中で最大の事件と連動して
いるように思われてなりません。斎明天皇が亡くなられた状況から推理すると
百済救援のために唐、新羅連合軍と戦い、白村江で敗退し、百済が滅亡した事
件の戦争責任者は斎明天皇と中大兄皇子(天智天皇)であった。170艘の戦船
を用意し、兵を集め、武器や兵甲を調え、軍を養う食糧を用意するためには莫
大な費用がかかったはずで、その上に滅亡した百済棄民を倭国が受け入れたと
ありますから、国の財政は逼迫していたはずです。このような状況で天皇に相
応しい立派な御陵を造れるはずもなく形ばかりの仮の墓が作られたと思われま
す。一方天智天皇の場合は近江朝と大海人皇子の皇位継承争いから壬申乱が勃
発し、近江朝は敗れ「近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ」と柿
本人麻呂が詠んだように、大津の都は十数年後にはもう荒れ果てて回想の対象
になってしまう状況でした。斎明天皇と同じように天智天皇の墓所も形ばかり
であったと思われます。
699年の記事の陵墓が完成した記載は見られませんが、両天皇の陵墓は同じ時
期に作られ、天智天皇の山科陵は八角墳ですから、斎明天皇の越智山陵も八角
墳である可能性は高いと思います。
天智天皇山科陵(御廟野古墳)の造りは上円下方墳で円の部分が八角形の二段
構成で、下方部分は上段は一辺46m、下段は一辺70mの二段構成で、上段下段
共に石列があるという。真の斎明天皇の越智山陵ではと期待されている牽牛子
塚古墳とは規模といい形といい八角墳という以外似ている部分は少ないことから
牽牛子塚古墳を斎明天皇陵と決めつけることには無理があると思います。
発掘調査された牽牛子塚古墳の復元図の姿は華麗で、皇族あるいはこれに相当す
る身分の高い女性を想像してしまいます。そして牽牛子塚古墳あるいはあさがお
塚古墳と名付けられた名称が1300年も伝えられてきた理由がきっとあると思い
ました。
「あさがお」はこのブログを始めようと思うきっかけとなった万葉集・巻八に山
上憶良が詠んだ施頭歌「秋の七草」の花のひとつですが、「秋の七草」とは日本
の成り立ちに関わった国や民族名を花の名に託し伝えようとした暗号歌ではない
かと気づき、史書や伝承からからその秘密をあきらかにしてきました。
解き方のルールは「同音異義語」または「懸詞」を駆使し、譬えば「尾花」は
「茅・萱」とも呼称されるところから古代朝鮮にあった「伽耶」を導くというもの
です。雑学、歴史、伝承、ときには頓知まで駆使する謎解きは面白く20年以上も
続いているのは我ながら驚きです。
「あさがお」は七草歌(萩、尾花、葛、撫子、女郎花、藤袴、朝顔の花)の最後に
あてられた花です。以前の「古代からの暗号」や「古今伝授・三木三鳥」でも取り
上げております。まったくの無から孤立無援で解いていったので論理性はありませ
んが発想は面白いと思っています。
牽牛子塚古墳の「牽牛子」とは漢名で「朝顔」の事。その種を食糧としていました。
また「牽牛」とは七夕の星で鷲座の主星「アルタイル」の中国名で牛郎といい、和名
は「彦星・犬飼星」といいます。
「秋の七草」の謎解きでは「犬飼星」がヒントになって県犬養橘三千代を導き出し
橘が常世の非時香菓とされることから常世とは五胡十六国の西涼と関係あるのでは
としました。なぜなら日本は「秋津嶋・蜻蛉島」ともいわれ、蜻蛉と西涼が掛詞の
関系にあったからです。
今回の「牽牛子塚古墳」の「朝顔」から被葬者を導き出せるでしょうか?
朝顔からそのヒントになるような言葉を探していると、中世に流行した謎立ての題
に「あさがお」がありました。その答えは「ひのくるま」。「火の車」でも「日の
来る間」とも解釈されてふたつとも正解とされましたが、朝顔の咲く時間が「日の
来る間」と解いた方がきれいですよね。ただこの「牽牛子塚古墳」に限っていえば
このような巨石(100トン)を二上山から運び出し二つの墓室をくりぬき外装は白
い石を張りつけたピラミッドのような墓を造ったら財政は「火の車」になったと皮
肉った可能性もありそうです。斎明天皇は土木事業が好きで『日本書紀』斎明天皇
2年9月条には「明日香に石を運ぶ運河を造るのに3万人垣造るために7万人を動員し
て庶民を苦しめたため、人々はその運河を『狂心渠(たぶれごころのみぞ)』とそ
しった」と記されています。続いて「石の山丘を作る。謗りて作るままに自ずから
に破れなむ」とも書かれており、生前墓を造ろうとしたなら「牽牛子塚古墳」も該
当しそうな気がします。
ただ、秋の七草の「朝顔」やこれに対応する古今伝授・三木三鳥の「さがり苔」では
縣犬養橘三千代や藤原氏、さらに橘や常世を暗示しているように思いましたので
謎立ての「朝顔」の解である「ひのくるま」から藤原氏を指すメッセージがないかと
頭を巡らせると「日の車」が思い付きました。日は天皇を指す場合もあり、車は藤原
不比等の生母の出自・車持氏を指すのではないかと思いました。また、朝顔の咲く間
を「朝つ間」と解くことも可能です。斎明天皇陵の付近は朝妻の腋上ともいわれ応神
朝に百廿七県の伯姓を率いて帰化した弓月王らが天皇から居住を許された秦氏の故地
でもあります。
出所の違う「朝顔の花」「下がり苔」「牽牛子塚古墳」から共通して導きだせたのが
「藤原不比等」「縣犬養橘三千代」でした。
これらを踏まえて私が「牽牛子塚古墳」の被葬者と推定したのは「犬飼星」から連想
できる「犬養母子」。母である縣犬養橘三千代と娘である光明子(聖武天皇の皇后で
孝謙天皇の母)二人の合葬墓ではないかと思われます。
母は733年、娘は760年没です。畿内では8世紀初頭から大型の古墳は作らなくなった
ようですから築造年代はプロの見たてと違っていますが、不比等の母の本願である上
毛野国ではその後も作り続けていましたから、技術者を連れてくれば可能だったと思
います。
天平文化は正倉院の御物から推しはかる事が出来ますが、世界の工芸の粋を集めたよ
うに華麗で贅沢なものばかりです。真っ白でひときわ目立つ八角墳の主は橘三千代と
光明子が相応しいのではないでしょうか?
漸く「秋の七草」の「朝顔」に結びつけられそうな「牽牛子塚古墳」の情報
に出会いました。牽牛子塚古墳は奈良県飛鳥村大字越にあり、7世紀から8世紀
中葉にかけて造営され石槨内に墓室が二つある古墳です。2010年9月に一年か
けて発掘調査された結果が公表されましたが、被葬者が斎明天皇と妹の間人皇
女(孝徳天皇皇后)の合葬墓である可能性が高いとされ大きな話題になりまし
た。墳丘は地震により崩壊しており元の形を知る由もなかったのですが、高さ
4.5メートルほどで版築による三段構成の石造りの八角墳であることが判明し
ました。
古墳といえば前方後円墳や前方後方墳、円墳が良く知られていますが、八角墳
は高句麗(現在の平壌付近)に多く残存する形式ですが、日本では舒明天皇(
押坂内陵)天智天皇(山階陵)天武、持統合葬陵(檜隈大内陵)草壁皇子(束
明神古墳)文武天皇(中尾山古墳)など7世紀代の天皇陵に多く造られており、
壬申乱以降は造営されなくなったとされる古墳の形式です。
斎明天皇墓説が浮上した理由には、日本書紀天智6年(667年)2月27日条に
斎明天皇と間人皇女を「小市崗上陵」に合葬したと記載されている事や、当時
の天皇陵に多い八角墳であり二名の合葬墓、貴人の墓に用いられた夾紵棺の破
片や女性の臼歯の遺物などから判断し、この古墳の被葬者が斎明天皇の墓であ
ることはほぼ間違いないと考えられるようになりました。
ところが宮内庁の管理する斎明天皇陵は奈良県高取町大字車木にある車木ケン
ノウ古墳に比定され「越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)」として祭祀
されているのです。八角墳の牽牛子塚古墳は真弓丘陵にあり現在の住所は奈良
県高市郡明日香村大字越。越智丘陵とは2.5㎞位離れています。
日本書紀に記されている「小市崗上陵」とは」一体どちらの古墳を指している
のでしょうか?
斎明天皇は百済救援のために向かった筑紫の朝倉宮で亡くなられ(661年)朝
倉市恵蘇八幡宮の御霊山で殯(もがり)をし、3ケ月後に飛鳥の川原宮で3日
間葬儀が行われたらしいが(斎明7年11月7日)、墓所については日本書紀天
智6年2月27日(666年)条に「斎明天皇と間人皇女とを小市崗上陵に合せ葬せ
り、この日皇孫の大田皇女を陵の前の墓に葬す。」とあるが注によると前半部
は過去の事で、この日以下が書紀の日付の日に行われたという。これに続き
「皇太子(天智天皇)、群臣に謂りて曰はく『我、皇太后天皇(斎明天皇)の
勅したまへる所を奉りしより、万民を憂へめぐむ故に、石槨(いはき)の役を
起さしめず。ねがふ所は永代(ながきよ)に似て鏡誠(あきらかないましめ)
とせよ』とのたまふ」とあり、天智天皇が母の遺言として今後は石積みの大掛
かりな墓所作り止めよと群臣に語ったとしているのでこの時点で作られた斎明
天皇の墓所は牽牛子塚古墳ではないと思われます。
次に現われる記事は斎明天皇の曾孫にあたる『続日本紀』天武3年10月13日条
(699年)です。
「(文武天皇が)次のように詔された。
天下の有罪の人々を赦免する。ただし、十悪と強盗、窃盗の者は赦免に入れ
ない。越智山陵(斎明天皇陵、大和国高市郡)と山科陵(天智天皇陵、山城
国宇治郡)とを造営しようとするからである。」続いて10月20日条には上記
の越智山陵(12名)と山科陵(12名)造営のために任命された官員の名前が
記され、それぞれ作業を分担して山稜を修造させた。とあります。彼らは指
示監督する立場の人と思われるので、かなりの大工事だったと思います。
この二人の天皇の御陵の造営(修造?)は古代史の中で最大の事件と連動して
いるように思われてなりません。斎明天皇が亡くなられた状況から推理すると
百済救援のために唐、新羅連合軍と戦い、白村江で敗退し、百済が滅亡した事
件の戦争責任者は斎明天皇と中大兄皇子(天智天皇)であった。170艘の戦船
を用意し、兵を集め、武器や兵甲を調え、軍を養う食糧を用意するためには莫
大な費用がかかったはずで、その上に滅亡した百済棄民を倭国が受け入れたと
ありますから、国の財政は逼迫していたはずです。このような状況で天皇に相
応しい立派な御陵を造れるはずもなく形ばかりの仮の墓が作られたと思われま
す。一方天智天皇の場合は近江朝と大海人皇子の皇位継承争いから壬申乱が勃
発し、近江朝は敗れ「近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ」と柿
本人麻呂が詠んだように、大津の都は十数年後にはもう荒れ果てて回想の対象
になってしまう状況でした。斎明天皇と同じように天智天皇の墓所も形ばかり
であったと思われます。
699年の記事の陵墓が完成した記載は見られませんが、両天皇の陵墓は同じ時
期に作られ、天智天皇の山科陵は八角墳ですから、斎明天皇の越智山陵も八角
墳である可能性は高いと思います。
天智天皇山科陵(御廟野古墳)の造りは上円下方墳で円の部分が八角形の二段
構成で、下方部分は上段は一辺46m、下段は一辺70mの二段構成で、上段下段
共に石列があるという。真の斎明天皇の越智山陵ではと期待されている牽牛子
塚古墳とは規模といい形といい八角墳という以外似ている部分は少ないことから
牽牛子塚古墳を斎明天皇陵と決めつけることには無理があると思います。
発掘調査された牽牛子塚古墳の復元図の姿は華麗で、皇族あるいはこれに相当す
る身分の高い女性を想像してしまいます。そして牽牛子塚古墳あるいはあさがお
塚古墳と名付けられた名称が1300年も伝えられてきた理由がきっとあると思い
ました。
「あさがお」はこのブログを始めようと思うきっかけとなった万葉集・巻八に山
上憶良が詠んだ施頭歌「秋の七草」の花のひとつですが、「秋の七草」とは日本
の成り立ちに関わった国や民族名を花の名に託し伝えようとした暗号歌ではない
かと気づき、史書や伝承からからその秘密をあきらかにしてきました。
解き方のルールは「同音異義語」または「懸詞」を駆使し、譬えば「尾花」は
「茅・萱」とも呼称されるところから古代朝鮮にあった「伽耶」を導くというもの
です。雑学、歴史、伝承、ときには頓知まで駆使する謎解きは面白く20年以上も
続いているのは我ながら驚きです。
「あさがお」は七草歌(萩、尾花、葛、撫子、女郎花、藤袴、朝顔の花)の最後に
あてられた花です。以前の「古代からの暗号」や「古今伝授・三木三鳥」でも取り
上げております。まったくの無から孤立無援で解いていったので論理性はありませ
んが発想は面白いと思っています。
牽牛子塚古墳の「牽牛子」とは漢名で「朝顔」の事。その種を食糧としていました。
また「牽牛」とは七夕の星で鷲座の主星「アルタイル」の中国名で牛郎といい、和名
は「彦星・犬飼星」といいます。
「秋の七草」の謎解きでは「犬飼星」がヒントになって県犬養橘三千代を導き出し
橘が常世の非時香菓とされることから常世とは五胡十六国の西涼と関係あるのでは
としました。なぜなら日本は「秋津嶋・蜻蛉島」ともいわれ、蜻蛉と西涼が掛詞の
関系にあったからです。
今回の「牽牛子塚古墳」の「朝顔」から被葬者を導き出せるでしょうか?
朝顔からそのヒントになるような言葉を探していると、中世に流行した謎立ての題
に「あさがお」がありました。その答えは「ひのくるま」。「火の車」でも「日の
来る間」とも解釈されてふたつとも正解とされましたが、朝顔の咲く時間が「日の
来る間」と解いた方がきれいですよね。ただこの「牽牛子塚古墳」に限っていえば
このような巨石(100トン)を二上山から運び出し二つの墓室をくりぬき外装は白
い石を張りつけたピラミッドのような墓を造ったら財政は「火の車」になったと皮
肉った可能性もありそうです。斎明天皇は土木事業が好きで『日本書紀』斎明天皇
2年9月条には「明日香に石を運ぶ運河を造るのに3万人垣造るために7万人を動員し
て庶民を苦しめたため、人々はその運河を『狂心渠(たぶれごころのみぞ)』とそ
しった」と記されています。続いて「石の山丘を作る。謗りて作るままに自ずから
に破れなむ」とも書かれており、生前墓を造ろうとしたなら「牽牛子塚古墳」も該
当しそうな気がします。
ただ、秋の七草の「朝顔」やこれに対応する古今伝授・三木三鳥の「さがり苔」では
縣犬養橘三千代や藤原氏、さらに橘や常世を暗示しているように思いましたので
謎立ての「朝顔」の解である「ひのくるま」から藤原氏を指すメッセージがないかと
頭を巡らせると「日の車」が思い付きました。日は天皇を指す場合もあり、車は藤原
不比等の生母の出自・車持氏を指すのではないかと思いました。また、朝顔の咲く間
を「朝つ間」と解くことも可能です。斎明天皇陵の付近は朝妻の腋上ともいわれ応神
朝に百廿七県の伯姓を率いて帰化した弓月王らが天皇から居住を許された秦氏の故地
でもあります。
出所の違う「朝顔の花」「下がり苔」「牽牛子塚古墳」から共通して導きだせたのが
「藤原不比等」「縣犬養橘三千代」でした。
これらを踏まえて私が「牽牛子塚古墳」の被葬者と推定したのは「犬飼星」から連想
できる「犬養母子」。母である縣犬養橘三千代と娘である光明子(聖武天皇の皇后で
孝謙天皇の母)二人の合葬墓ではないかと思われます。
母は733年、娘は760年没です。畿内では8世紀初頭から大型の古墳は作らなくなった
ようですから築造年代はプロの見たてと違っていますが、不比等の母の本願である上
毛野国ではその後も作り続けていましたから、技術者を連れてくれば可能だったと思
います。
天平文化は正倉院の御物から推しはかる事が出来ますが、世界の工芸の粋を集めたよ
うに華麗で贅沢なものばかりです。真っ白でひときわ目立つ八角墳の主は橘三千代と
光明子が相応しいのではないでしょうか?