地図の場所に 1200年前にはこのような建物が建っていたことがわかっています
享和元年(1801)東本願寺の達如上人が宗祖親鸞上人の遺跡を慕い、
一宇を創建したのが起こり、はじめ岡崎御坊と称したが、
明治9年(1878)に今の名に改めた。もとこの地は親鸞屋敷とよばれ、
叡山より下山した親鸞がしばらくこの地に仮寓し、
承元流罪の折には、ここから越後の配所へ赴いたと伝わる。
そのとき、姿を映した姿見の池(鏡池)が、今も本堂の傍らにある。
上人手植えの「八房の梅」と称する紅梅がある。
石碑には 親鸞聖人草庵遺蹟 と書かれています
東門
祭神として、素戔嗚尊、櫛稲田媛命 及びその御子三女五男八柱を祀る。
延暦13年(794)、桓武天皇の平安京遷都の際に、王城守護のために建立された社の1つといわれ、
都の東方に鎮座することから東天王と称した。西天王社は須賀神社。
清和天皇が、貞観11年(869)に造営し、
播磨国(現在の兵庫県)広峯から祭神を迎え祀ったといわれる。
治承2年(1178)に、中宮の御産の奉幣を賜ったことから安産の神として信仰され、
また創始時の王城守護方除けの勅願により、今も方除厄除神としての信仰が絶えない。
古くから、うさぎが氏神の使いと伝えられ、祭神が子宝に恵まれ、
うさぎが多産であることから子授けの神として祈願信仰されている。
境内にはうさぎの彫刻が多く見られ、
特に手水屋形にある子授けうさぎ像は参拝者の人気を集めている。
社号標 明治25年10月 建立
手水舎 貞享元年(1684)9月
赤く塗られた 石鳥居
手前から 大正6年7月
2番目 明治41年12月
一番奥 昭和3年11月10日 昭和御大典紀念
奉納絵馬堂
見えにくいのは省きました
末社
神楽殿
きれいに並んでいます うさぎと出会いました
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大正 御大典の時と 同じ年
かわいいですね
本殿前の うさぎ
手水屋形
ウサギの絵馬で埋め尽くされています
御旅所 社号標は 大正6年10月 建立
雨神社 末社の1つ。鹿ケ谷山中にあった如意寺の鎮守として祀られていたもので
大正6年(1917)4月にこの地に移したといわれ、雨乞い祈願の信仰がある。
石鳥居は 大正5年10月建立
西鳥居
西鳥居 境内から見る
これらは同じ時期に整備されたようです
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朝堂院とは大内裏の正庁で,即位等の国家的儀礼や諸政を行う場であった。
大極殿と14棟の殿舎から構成されていた
朱雀門の正面,内裏の南西に位置する。
応天門の変(866)で創建後初めて炎上し,その後も再三の被災で修復再建が繰り返されたが,
安元3(1177)年の大火で焼失して以降,再建されなかった
西向き
北向き
平安宮朝堂院跡
朝堂院は八省院とも呼ばれ、天皇の即位や外国使節の謁見などさまざまな儀礼や国事の行われるところで、朝政の中心の場であった。宮域の正面の朱雀門を入った所に位置し、北は中和院、西は豊楽院、東は太政官や民部省などの官衙に接していた。
その規模は、東西約60丈(約180m)南北約150丈(約450m)で、全体が回廊で囲まれていた。正面には応天門があり、両翼に栖鳳・翔鸞の二楼が建ち、応天門を入ると左右に朝集堂があった。さらに会昌門を入ると、大礼の際に諸司宮人の列した十二堂が建ち並び、正面の一段高い龍尾壇の上には左右に蒼龍・白虎の二楼を従えて、朝堂院の正殿である大極殿がその威容を誇っていた。東西11間・南北4間の規模を有する大極殿は、緑彩の瓦で葺かれた大屋根の下に朱塗りの柱の並ぶ華やかな殿堂であった。
朝堂院は、平安京造都開始の翌年の延暦14年(795)にはまず大極殿が造営され、次々に整備されていった。その後数度の火災に会いながらもそのたびに再建されてきたが、安元3年(1177)の大火で全焼し、以後再び建てられることはなかった。
現在のこの地は、ほぼ大極殿の西端ないしその西側の回廊付近にあたり、昭和50年に平安博物館が発掘調査を行った。後世の攪乱が著しく、遺構を確認することはできなかったが、大極殿に関係すると思われる多量の瓦類や緑彩の鵄尾(しび)の破片などが出土した。 平安博物館
平安宮と 現代を 地図で重ねると 赤丸が 石碑のある所になります
大極殿は 平安神宮に 5/8の大きさで復元されています
この建物が 1200年前にあったということです
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