平成27年7月4日 撮影
文禄4年(1595) 巨大な大仏
文禄5年(1596) 地震によって壊れる
逸話 秀吉は自分をも守れぬかと怒り大仏に矢を放った
秀吉の遺志は秀頼に引き継がれたが
工事中に大仏の腹中から出火して焼失
慶長17年(1612) やっと完成 しかし 鐘楼の銘文で
言いがかりをつけられ
大阪 冬の陣・夏の陣を経て 豊臣家滅亡
寛文2年(1662) 地震で倒壊 大仏は 木像にあらためられた
寛政10年(1798) 雷火によって焼失
天保10年(1843) 再建された木像大仏は
旧大仏の 10分の1 の大きさにすぎなかった
昭和48年(1973) 3月28日深夜 焼失
現在に至る
言いがかりをつけられた鐘楼 西から見る
東から見る
天井には 彩色画が描かれています
大仏建立に使われた 大仏を支える 鉄輪など
国家安康・・・・・ 君臣豊楽
手水舎
大黒尊天 標柱は昭和8年建立
内部の天井画
本堂
賽銭入れは 低い位置にあります
感應
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秀吉は63歳で伏見城で亡くなった 秀吉の墓所
参考 狩野光信 筆 豊臣秀吉
元は、阿弥陀ケ峯中腹にあったが、豊臣滅亡後徳川氏によって社殿は取り壊され、
明治維新後 明治11年 方広寺の大仏殿址地に再興された
石鳥居 昭和10年10月建立 社号標 大正14年10月建立
石灯籠 明治22年11月建立
石鳥居の扁額
豊の 一 の上 鳥の絵になっています 鳩と燕 かな
手水舎
唐門
唐門は明石博高が南禅寺金地院から買い取り明治11年2月寄付した
唐門の神額は後陽成天皇の宸筆 石鳥居の扁額と同じ
中央にかえる股、豪華な彫刻がなされています
唐門の両脇に六角型石灯籠がある。秀吉恩顧の諸大名が奉献した。
大野修理太夫治長の名もみえる
本殿内 秀吉お馬塚 がある この画像の右奥
徳川政権下 豊国廟に参詣することをはばかった
京都の民衆が旧方広寺内のこの地に石塔を設けここに参詣した
ひょうたんの小絵馬
ぞうりの絵馬
ひょうたんの栽培
稲荷大明神
石鳥居は明治44年1月建立
隣は方広寺の鐘楼
宝物館には豊国祭図 等 多数あり
本堂 元禄14年(1701) 5代将軍綱吉の発願の再建
扁額 「栴檀瑞像」(せんだんずいぞう)は黄檗隠元禅師の筆による
内部には桂昌院・綱吉の母に寄進の逗子がある
これは 何に使われるのだろう
阿弥陀堂
文久3年(1863年)の再建
藤原道長も当寺に参詣しています
紫式部は松風の巻の嵯峨の御堂は当寺を意識して描いています
源氏物語とゆかりがある
桂昌院・京の西陣出身 玉の輿と云われた人
5代将軍 綱吉の母
今宮神社にも再興に力を注いでいましたが
清凉寺にも寄進しています
霊宝館 休館でした
豊臣秀頼公 首塚 なぜここにあるのでしょう
大阪の陣 供養塔
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薬師寺 浄土宗 知恩院派
嵯峨天皇 勅願所
本尊の薬師如来像は818年に疫病が流行したとき
嵯峨天皇が弘法大師に作らせた霊仏
万民の守護仏となり 「寮病院」といわれる
また、逗子内に小野篁像を安置している
この近くにあった福生寺の遺仏を安置する
福生寺は生六道といい、小野篁が冥土より帰り着いたところと伝わり、
その出口という7基の井戸が近年発掘された
その井戸は埋め戻され宅地となっています
地名・・大覚寺門前井頭町
星のようです
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