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豊国廟  豊臣秀吉の墓所

2015年10月10日 16時57分30秒 | 史跡・旧跡

拝殿から廟まで63段の石段をのぼる。

この数字意味がありそうです。

5 63

中間の門までの石段の数は 63段ずつ  つ あります。

63は 秀吉の寿命の63の数と一致しています

 

 

63段ずつ 区切られています。 63段で少し平らな所が設けてある。

 

下を見たところ  拝殿の柱が見える

石段上り口で100円を入れる

 

 

 

63段ごとに すこし ひろい 処をもうけてあります

 

平成8年   NHK 大河ドラマ  「秀吉」 のオープニングの場面に使われています

 

昼間の門があるところまで 来ました

 

門から 下を見たところ

 

門の扉に彫られている 家紋

 

門から 上を見たところ  ここからは 石段の区切りがありません 

 

途中で 下を見たところ                      途中で  上を見たところ

 

頂上に着きました  秀吉の墓所です

とても大きな五輪石塔です

豊臣秀吉の廟所(墓所)である。天下統一を果たした秀吉は、慶長3年(1598)8月18日、

伏見城で63歳の生涯を閉じ、遺骸は遺命により、ここ阿弥陀ケ峰に葬られた。

翌年4月18日、秀吉は後陽成天皇より、正一位豊国大明神の神位・神号を賜り、

山腹には境内域30万坪、秀頼は社領1万石を寄進した。壮大壮麗な豊国社が創建された。

以後、毎年4月と8月の18日には勅使や北政所、豊臣秀頼の名代を迎え、

盛大な祭礼(豊国祭)が執り行われたが、

特に慶長7年(1604)8月、秀吉の7回忌臨時祭には

京都の民衆は挙げて「豊国踊り」をおこないも風流歌舞をなして廟前に群集したという。

慶長20年(1615)豊臣家が滅びると、幕府は豊国社の廃祀を命じ、

その参道中央に新日吉神宮を移して墓参の通行を妨げた。

以後は墓参する人もなくなった。

現在の廟は明治31年(1898)、豊太閤300年祭に際し、黒田・蜂須賀等の旧配下の人々と,

豊国会により全国からの募金で整備されたもので、

そのとき墳上に高さ約10メートルの巨大な五輪石塔(伊東忠太設計)が建てられた。

なお、豊国神社は明治13年(1880)、方広寺大仏殿の地に豊国神社として再興されている。 

戦前は秀吉も大いに礼賛されたが、今は訪れる人は少ない。

 

 

樹木の間から 街が見えます  ちょうど京都御苑 方面を見ています

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