「縦横無尽」 フローレ21社長のコラム

花の仲卸フローレ21社長小池潔がつれづれに語ります 快調に更新中

映画と青春

2007-02-11 12:08:10 | Weblog
高校時代、暇があるとアルバイトに精を出し映画へ行くためのお金を稼いだ。
先日一つの新聞記事から、自分の中で忘れかけていた青春時代に毎日というほど見た映画のことを思い出させてくれた。
米国の首都ワシントンでイラク撤退を求める大規模な集会が行なわれた。
この集会で女優のジェーンフォンダがベトナム戦争以来34年ぶりに、大勢の参加者の前で反戦を訴えた。「ベトナム戦争の教訓に学ばず、まだ集会をしなければならないことは、本当に悲しい。沈黙はもう選択肢ではありません」と反戦への活動を呼びかけた。

ジェーン・フォンダの父ヘンリー・フォンダが主演した「怒りの葡萄」(ジョン・フォード監督 ジョン・.スタインベック原作)が私への映画の扉を開いてくれた。
1939年制作された映画だがさまざまな問題があり1963年まで日本で公開されなかった。
私が17歳のときロードショーで銀座みゆき座へ見に行ったこと、超満員の中で始めから終わりまで立って見たことを思い出した。
アメリカに憧れを抱いていた私はこの映画を通して、差別と収奪の現実、人間の強さ、生きていく泥臭さ、
アメリカもこんな現実が存在していたのか?ということを教えてくれた映画だった。

同じ原作者のジェームス・ディーン主演「エデンの東」(エリア・カザン監督)は後の再上映の時何度も見て
「青春とはなんなのか?」自分はどういきるのか?など考えさせられた。
ジェーム・スディーン扮するキャルと父親、キャルは父親に気に入ってもらうため、精一杯お金を稼ぎ、また父の仕事を手伝う、しかし兄にはやさしい父親も、ことキャルがなにをしても気に入らない。
母は死んでしまったと聞かされていたキャルは、母親の存在を知り会いに行く、ここでも水商売をしている母の用心棒に追い返されてしまう。水商売のふしだらな母の血を自分は継いでしまったのか、と嘆きながらも、キャルは父の愛を求めつづける。
青春のある時期、誰もが悩み苦しむ、父や母、恋人兄弟、自分自身の限界、歯がゆい現実、私自身も大いに悩み、苦しんだこととキャルが重なり合っていた。

1950年アメリカで「マッカーシ旋風」が巻き起こった、通称赤狩りといわれるもので、共産主義者を国防省、民主党、議会から追放するとこらから、それはマスコミへ、そしてハリウッドと飛び散った。
マッカシー旋風は良心的なリベラルの層まで影響を与えていった。
「エデンの東」の監督エリヤ・カザンはこの委員会に呼ばれ、自身の思想の点検、映画関係の友人、これらリベラルな友人を共産主義者かもしくは支援者であると証言してしまった。
映画界の良心的な側面を売り飛ばしてしまったのである、私はマーロンブラントの「波止場」(エリア・カザン)なども見ていて後に、この事実を知って呆然とし、世の中何を信じれば良いのかとおもった。
チャップリンはこの委員会に呼ばれる寸前スイスへと旅立ち二度とアメリカへ戻ることはなかった。

このマッカーシ旋風は1954年マッカーシの失脚と共の終息するが、後々のアメリカの世界戦略に大きな影響を与えた。
それは「キューバ危機」であったり「ベトナム戦争」へと繋がっていくのである。(これは拙い私見です)
この後、アメリカ映画界は復活をし黄金時代を迎えるのである。

私の映画感もこの頃から少しずつ変わり始めビリー・ワイルダーの笑いの中に社会の矛盾、人間のやさしさなどを描いた作品を好んでみるようになった。それはハリウッドの底抜けに明るい、陽気な側面を描いたものだった。
日本の山田洋次が「寅さんシリーズ」の中で旬の女優の魅力を毎回絶妙な切り口で出していたのと同じように、ビリー・ワイルダーも「麗しのサブリナ」「昼下がりの情事」でオードリー・ヘップバーン
「アパートの鍵貸します」「あなただけ今晩は」でシャリー・マックレーン、「七年目の浮気」「お熱いのがお好き」でマリリン・モンローなど後に名女優に成長した初期の作品で彼女たちの魅力を残すことなく引き出したのである。
ビリー・ワイルダーの作品は古いものから新しいものまでほとんど見たように思う。彼は今から5年前95歳でこの世を去ってしまった。

その後、ヨーロッパでのフランスワーズ・トリュフォーやジャン・リック・ゴダールなどの代表される「ヌーベルバーグ」などの物を好んでみるようになった。
今でも、これらのものは理解しがたいが、当時はわけもわからず友人と議論をして解ったつもりでいたような気がする。

いずれにしろ、私の40年の映画の歴史は私の思想をかたどってしまったと言って良いほどである、
最も映画を見たのは17歳の時一年間で250本の映画を見た、その一本一本に偉そうに批評を加え感想を書いた。
その時の自分がふっと懐かしく感じるこのごろである。