「縦横無尽」 フローレ21社長のコラム

花の仲卸フローレ21社長小池潔がつれづれに語ります 快調に更新中

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「さくらの集い」

2012-10-29 14:48:00 | Weblog
10 月24日「さくら並木ネットワーク1周年さくらの集い」は大勢の方に参加していただきました。ありがとうございました。
多くの方から電話やメール、メッセージをいただき「これほど感動的な会に出会ったのは初めてです。ぜひ協力したい」「さくら並木の活動や被災地の状況が良く分かり、今後も支援したい」
「『津波そして桜』の映画がさくら並木ネットワークの活動と重なり合ってとても理解が進んだ上映が出来るのならまわりに広めたい」「普天間さんの歌と想いに涙が止まりませんでした」

さくら並木ネットワークがここまで来るには多くの人たちの支えがあった。お金のない立ち上げ時に素敵なロゴマークを無料でやっていただいたヘルべチカ社、NPO法人設立をボランテァで手続きを代行していただいた司法書士の先生。
精神的支援そして今年のシンボリック的さくら並木の植樹に基金をいただいた花業界のオールジャパン全花協。花の輸入商社クラシックジャパン西尾氏は世界中の花の生産者に呼びかけ 50 本のさくら基金を寄付していただいた。
花の資材卸最大の会社東京堂の鈴木社長は今年と来年、それぞれに分け数十本のさくら基金をいただいた。(株)ルミネ様は数ある支援組織の中から、さくら並木を選んでいただき大きな額の寄付をいただいた。
東京流通センターを取り囲む300本の八重さくらが咲き乱れるころ毎年「さくら祭」を行う。さくら並木ネットワークが続く限り、さくら祭での宣伝寄付活動をする許可をいただき、祭りでの収益金の寄付もいただいた。
海外からはサクラフロントが様々な支援で私たちの活動の輪を広げてくれた。そのつながりから在英日本商工会議所からの多額の支援や「チャリティーズ・アドバイザリー・トラスト財団」からの15000ポンドの寄付、「津波そして桜」の上映の実現はそれぞれの心がつながった結果である。
「さくらの集い」で熱唱してくれた普天間かおりは「さくら大使」としてことあるごとに「さくら並木ネットワーク」のスポークスマンとして活動してくれ、さくら並木テーマソング「千年桜」を作ってくれた。我々の組織に欠けてはいけないパートナーだ。
「さくらの集い」のオープニングで映写した「さくら並木一年の軌跡」を制作した笠井さんは、いつも名古屋から深夜バスで朝仙台につく。時にはレンタカーで時には桜野氏の車に同乗、さくら並木の活動をカメラに収め続けてくれた。お金には代えられないが何百万円にもなる作品だと思う。

紙面がどこまであっても書ききれないほどの多くの人たちに支えられた一年だった。個人の一本一本のさくら基金にも多くの想いと願いが託されている。その一つ一つが私たちに活力をくれる。それがなければとても続けることができなかった活動です。
「さくらの集い」のすべて日程が終わったのは日にちが変わってからだった。25日も早朝からの仕事、その前にメールを開けた。

4時30分、「さくら並木一年の軌跡」で何度も画面に出てきた波伝谷の三春の滝桜の子孫木、この桜を寄贈してくれたニューヨークのHさんからメールが届いていた。メールを読んでいると涙が止まらなかった。読者の方にもこのメールを読んでいただきたいと思い抜粋しました。

「5月から NY 補習授業校の5年生有志と保護者有志で続けてきましたさくらプロジェクトも、先週の土曜日にベイクセールという大きな山場を終え、あとは12月の子ども達の募金活動を残すのみとなりました。
ベイクセールでは沢山の保護者が、前日または、早朝からカレー、やきそば、ホットドッグにケーキ、あんぱん、などなど、、その数300食?それ以上??を作り、準備したテーブルでは乗り切らない出品となりました。
販売開始1時間ほどで全て完売となり予想を上回る募金が集まりました。NYではまだまだ被災地のことを忘れていませんよ∼。
今のところ両方併せて3000ドルほどになります。これは、企業様や他の個人さんからすればたいした金額ではないかと思いますが、子ども達が、真夏の登下校時に学校に早く来たり遅くまでのこって、1本1ドルの水や、アイスポップを売ったりして集めた金額です。ご理解ください」

夏休み細沼代表と、ニューヨークの子供たちと2時間を超え「さくら並木」の活動のこと、被災地のこと、桜のことを話した記憶がよみがえった。
お母様と子供たち4人と別れた後、二人で「あの子供たちが2時間を超えておとなしく話を聞けるのはなぜなのか」二人で感心していた。このことが重なりいつまでも涙が止まらなかった。
支援の大小ではなくその支援にどのような想いがこもっているのか、我々までにたどりつくまで何があったのか、それこそが我々の原動力だ。
一年の節目でまた勉強をさせていただいた。
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「津波そして桜」

2012-10-15 12:26:40 | Weblog
2012 年2 月24 日さくら並木ネットワークの役員会が開催された。狭いので大人数の会議には使わないのですが当日は訳があり、さくら並木の事務局での開催になった。
ロンドンの震災支援組織「サクラフロント」より「サクラブローチ」が送られてくる。そのブローチは在英の日本人が3.11 を忘れない、そしてイギリスの人たちにも忘れないでと言うメセージを込めたブローチです。ポール・スミスなどの著名人などにも賛同を広げ、さくら並木ネットワークとも提携を始めた組織です。

さらに明後日26 日(日本時間27 日)アメリカで行われるアカデミー賞の短編ドキメンタリー部門ノミネート作品「津波そして桜」の監督ルシー・ウォーカーとそのスタッフが
「サクラブローチ」を付け会場のレッドカーペットを闊歩する。
日本テレビはかなりの確率でこの作品が受賞するだろうと思っていた。ロンドン、ロサンゼルスそして東京の「さくら並木ネットワーク」がさくらで結ばれ、めでたくアカデミー賞受賞とのシナリオを書いた。

全員でロンドンから届いた「サクラブローチ」の入った小包を開封するところからカメラが回り、長時間の撮影になった。
27 日ニュースエブリィでの放映が決まり、少なくとも15 分の枠ももらった。当日午後「津波そして桜」は対抗馬のパキスタンの「Saving Face」に賞を持っていかれた。
15 分の番組はたったの3 分にカットされ放映され、担当者から謝罪の電話があった。
私は当初から「津波そして桜」が受賞すると思い込んでいた。アメリカの映画業界が日本への震災支援のメセージをこの映画の受賞で伝えるものだと思っていた。
受賞すれば必ず日本上映が実現することも含め、残念でたまらなかった。

「いまだ日本で観る機会が設けられていないのは残念というほかないだろう。本作の宣伝を担当するデヴィッド・マクダエル氏は、本作の日本公開について
「まだ決定していません」と回答。東日本大震災からの復興を題材にしていることに加え、オスカーにノミネートされていることで世界的な注目度もアップ
している本作だが、いまだ日本で観る機会が設けられていないのは残念というほかないだろう」(シネマトゥデイ編集部)

映画関係者だけでなく、我々も日本上映を願っていた。そんな折、細沼代表が「どこもやらないのであれば、さくら並木が上映権を取ろうよ」と言った。
それはまだ暑い盛りの7 月盆のころだった。それから多くの人の支援を受けながら、「サクラフロント」とのつながり、さくら並木ネットワークの理念と「津波そして桜」の映画が重なり合う共通の想いが上映へとたどり着いた。

10 月12 日の役員会で試写が行われた。ルシー・ウォーカーと言うイギリス人の女性監督が日本の文化に深く精通し、津波と桜と日本人を見事に捉えた。上映中はとめど
もなく涙がこぼれてきたが、その涙は決して悲しい涙ばかりでなく、全てを失った人々がそれでも前へ歩き出す感動の涙でもあった。日本での一般上映は、10 月24 日(水)「さくら並木一周年さくらの集い」が最初です。
普天間かおりの「さくら並木ネットワーク」の楽曲「千年桜」も新しいアルバムに収録されて24 日リリース、当日歌ってくれます。

生きていると言うことがどれほど素晴らしいものなのか、人間が大きな喜びを感じるときはどのような時なのか。私は「さくら並木ネットワーク」のたった一年の活動の中
で幾度もこのことを感じ、経験しました。
10 月24 日「さくらの集い」が必ずやこのような集いになると信じています。まだ席はあります、さくら並木の事務局までご連絡ください。
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「月とガスタンク」

2012-10-09 11:20:45 | Weblog
「寄り添い支える」の著者で医師の菅野武先生。この本でいくつもの感銘する話が出てくる。その一つに「月とガスタンク」の話があった。
夜空の向こうに満月が見えて、手前に大きなガスタンクがある光景。形は同じ球体ですが、手前のガスタンクは巨大で、月はすごく小さく見えます。
でも、実際は月のほうがはるかに大きい。「目前に大きく見える事象があっても、本当に大切なものはもっともっと向こうにある。自分の生きる目的を見失ってはいけない」という話です。
実際に自分で一番輝いている、一番丸い、一番大きい、一番綺麗なお月様を見てみる、そしてその美しいお月様から何を感じるのかそのことが大切なような気がした。
それは十五夜の月以外にない。まして今年の十五夜(9月30日)は満月だと聞いていた。29日はきれいな夜空に大きい月がぽっかり浮かんでいた。
さて次の日はご承知のように巨大台風が日本列島を縦断、全国的に大きい被害が出て、浸水や家屋の倒壊もあり、被災された方々にはお見舞い申し上げ、一日も早い復旧を願っています。
お月様どころではない。夜空は星も月も見えない真っ暗闇で「月とガスタンク」の話は来年までお預けだと思って、床についた。翌朝4時少し前に起床、暗い夜空にお月様を探した。「ない」北の空、東の空、南の空、「あった」西の空にひときわ光り輝いているまん丸のお月様を見つけた。
昨夜の台風が大空の掃除をしてくれたように、くっきりと美しい姿を映し出していた。

目の前には無数の難問、課題が次から次と現れる。その処理に明け暮れ自分自身の目標や夢を見失っている。
そのことを「月とガスタンク」の話にたとえた。人は物心が付いたころから夢を持ち始める。
私はプロ野球の選手だったり、やがて新幹線が開通して「こだま」が走ると、「こだま」の運転手だったり。子供のたわいのない夢だが、どの夢も実現できなくて忘れ去っていった。
恥ずかしながらこの年になり、初めて自分にとってのお月様は何なのかがはっきりしてきた。しかしガスタンクがお月さまの存在を揺るがす。いやガスタンクも大事である。
ガスタンクにもしっかり目配せしながら、お月さまを見続ける。そしてお月様へ一歩でも二歩でも近づく。

菅野先生はこう言われた。「月というのは自分自身の人生をどう生きたいか、という信念であり、それがしっかりしていれば人生を歩むに当たって自分の進むべき道を月が照らしてくれる。
3.11 津波が志津川病院を襲った。5 階建ての4 階の天井まで水がきた。先生は今までにない自分の死を身近に感じたと言った。看護婦はそれぞれの腕に自分の名前を書き合う、先生も勤務では付けない結婚指輪を指にはめた。それぞれが濁流に飲まれ、どのような姿になろうと家族が自分を確認できるように。
そして「これ以上誰も死んでほしくない」たとえ死が避けられなくとも医師として後悔しないときを過ごすと覚悟を決めたと言われた。
医師を志、医大生だったとき、恩師から決して大切なもの、月を見失うなと教えられた。死と向き合ったときにも、医師としての志を持ち続けた。
4 歳になる可愛い娘に「美月」と言う名前を付けたのもこの月を思い浮かべたのかもしれないとも言われた。

通勤時の1日の早朝に見たお月様は、今まで見た中で最も光り輝いていた。きっとわき目も振らず、真直ぐこちらへ向いなさいと言っているようであった。
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「高き住居は児孫の和楽・・・・」

2012-10-01 14:17:06 | Weblog
「高き住居は児孫の和楽 想へ惨禍の大津浪 此処より下に家を建てるな」さくら並木ネットワークの案内書パンフにも記載されている、岩手県宮古市姉吉地区明治三陸地震での大津波記念碑。
さくら並木ネットワークの活動の出発点となった石碑と言ってもいい。
この石碑の想いを桜に託し100年200年先まで東日本大震災の津波被害伝える。

明治三陸地震(明治29年)姉吉を襲った津波は全集落のたった2人を残し全てを奪った。
昭和三陸地震(昭和8年)では住民4人が生き残った。東日本大震災(平成23年)の津波では11世帯34人、隣の地区の学校に子どもを迎えに行った親子4人の安否が分からず行方不明となっている。
津波は今回、漁港から坂道を約800メートル上った場所にある石碑の約70メートル手前まで迫ったという。
海辺にいた住民らは地震後、坂を駆け上がって自宅に戻り、難を逃れた。
明治から昭和へ全滅状態を2度も繰り返した姉吉地区は、少なくとも津波時に姉吉にいた住民全ての命が救われた。
大きな犠牲を払い守った命である。ワカメ、コンブなどの養殖で生計をたてている住民が標高60メートル、距離にして900メートルの坂道を上り下りし、毎日通うのはひと仕事で、平穏な毎日が続くと、近くに仕事場や住居を作りたくなる。
石碑の教えを守り続けて78年、自治会長は「これからも津波の恐ろしさを伝えなくてはいけない」と言われた。
美しいリアス式海岸のモデルのような風光明媚な美しさであると共に、映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台として知られるトドケ埼灯台は、約4kmの距離である。

大船渡市三陸町吉浜地区は、同じように、過去の大津波を教訓に家屋を高台に移設して、津波被害を逃れた。
高台への集団移転が行われたきっかけは、明治、昭和の大津波で壊滅的な津波被害に住民は高地への集団移転を繰り返してきた。
山を切り崩して宅地を造成し、低地の集落跡地を水田として活用した。県道を海抜20mほどの高さに移し、この県道が津波から家を守る一つの目安になるようにした。
今回の震災で、吉浜湾には10メートル前後の津波が襲来。被害は県道より低い場所に集中し行方不明1人。
吉浜地区は被災した祖先の教えが石碑により今も脈々と受け継がれている。
高地に住居を構え、低地で農業や漁業を営むまちづくりは、沿岸部の将来像を描く三陸の復興のお手本にもなり得る。

残念なことに石碑の教えが生きていたのは、百数十本あるといわれている三陸にある石碑のたった2本だけだった。
東日本大震災の津波被害を、明治、昭和の被害を教訓にして難を逃れた典型的な二つの村落。いずれの住民も平成の大津波を後世へ伝える手段として、桜を選んでくれた。
二つの地区の住民は津波被害と津波の来襲を桜で伝え、住民が美しい桜の花を愛でる。
そのようなさくら並木の造成の依頼が当会に届いた。さくら並木ネットワークの役員会で全員一致でこの植樹を来春実施することを決定。
100年後、150年後必ず三陸にやってくる津波、さくら並木がその被害を防ぐ、最強の防波堤に成ることだけは間違いない。

一人でも多くの善意が三陸のさくら並木に姿を変え、100年先まで見守って欲しい。
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さくら並木ネットワーク一年の軌跡

2012-08-11 14:09:38 | Weblog
昨年8月28日仙台メディアセンターで「花と緑の復興フォーラムin東北」ではじめて「さくら並木プロジェクト構想」を細沼さくら並木ネットワーク代表理事が発表した。
当日の会場でもそれなりのインパクトがあったが姿かたちが何も見えない、ただの話だった。さくら並木ネットワークの現地コーディネーターの桜野理事も別の復興支援者として出席していた。
「NPO法人さくら並木ネットワーク」としての活動は9ヶ月、構想を発表してからやがて一年を迎える。
私たちが描いていた以上の前進が「さくら並木ネットワーク」で起こった。賛助会員は800口、桜基金は850本、私たちの目標の数字には届いていませんが、一年を迎える組織としては大きなご支援を頂いた。
今春植樹した桜は450本、全ては被災地の造園業者に植樹を依頼、3・11以降仕事がなくなった造園業者の方には喜ばれた。
桜を支援した側、桜を支援された側、双方に新しく生まれた絆は数えるほどではあるが、間違いなくその絆は増え続けるだろう。
支援者には今後、桜の全景とネームプレートの写真、植えている住所を知らせます。南三陸町波伝谷ではニューヨークの「さくら太鼓」の子供達その父母と現地の人達の交流が始まっている。
今月末にはロンドンから一時帰京される寄贈者が植えた桜に会いに行かれる。
これらの活動は昨年メディアセンターで発表した構想を忠実に実行している。私たちがお預かりした会費、桜基金は出来うる限り被災地へ落とす。植樹された桜は寄贈した人に植えた場所を知らせ、できるだけ会いに行って頂く。
観光での町興しと植えた側植えられた側の絆つくりへ発展する。

今春には「太助と八重」の物語が「さくらいろのみち」と名前を変え普天間かおりの「語り」でCDとして完成した。
3月には東京都からNPO法人としての認可を頂いた。
さくら並木の活動を報告する「さくらレター」が出来上がった。すでに賛助会員には届けられている。賛助会員からはいくつかのコメントが帰ってきていますが、賞賛と会への厚い信頼を頂いた。ボランテイアの編集委員も含め4名の女性で作り上げました。

そして10月24日下北沢都民教会でさくら並木ネットワークの一年の軌跡を振り返りつつ新しい一歩を踏み出す、イベントを計画した。
3・11は多くの人にとって過去の話となりつつある。被災地の復興は始まったばかりである、さくら並木ネットワークとしてはこれからが正念場、津波の被害を伝え続け、津波最終地点にさくら並木を作り100年先まで伝え続ける。
決して風化させてはならない、そのための取り組みアカデミー賞短編ドキメント部門でのノミネート作品「津波そして桜」(ルシー・ウォーカー)を日本で私たちが最初に上映する権利を頂いた。24日には上映の予定をしています。
普天間かおりにはさくら並木を歌った楽曲の制作を依頼しておいた。「千年の桜」の題名で24日リリースされる。
24日さくら並木理事桜野カメラマンは昨年3・11以降約半分は東北で過ごした、その記録を写真にして当日写真展も開催する予定です。

一年前の皆様とのお約束を何一つ変えることなく実行してきたことだけは褒められてもいいと思っています。
そしてこの取り組みこそ花の力を感じ、その花が100年先に必ずやってくる津波被害をなくす最も有効な手段であるとの確信を深めた。
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タイムズ誌「世界で最も影響のあった100人」2011年

2012-07-19 07:48:54 | Weblog
アメリカのタイムズ誌が毎年「世界で最も影響力のある100 人」を選び出す。2011 年選ばれた面々はオバマ大統領とミシェル夫人、ミャンマー民主化の指導者アウン・サンスーチー、スペインリーグ・バルセロナで活躍中アルゼンチンのリオネル・メッシ、ウイリアム王子とケ-ト、ブラジルルセフ女性大統領など超大物揃いです。

日本から二人が選ばれた。一人は南相馬市長桜井勝延。福島第一原発から25km以内にあり、地震、津波、放射能で政府からはまともな情報や救済が行われず。東電にいたっては原発事故を起こした当事者意識もなく、まるで天災であるかのような立ち振る舞いに怒り爆発。ユーチューブで事故の模様を発信、世界に向けてSOS を叫んだ。政府の無策ぶり、東電の無責任さを世界に暴いた。
もう一人の日本人が志津川病院の医師菅野武(33 歳)。3 月11 日いつものように病院で治療にあたっていた。経験したことのない長時間の大きな揺れ。そして大津波警報。医師、看護婦、職員は津波マニュアルにそって3 階以上への避難を開始した。しかし地震の大きな揺れから、少しでも高いところへの避難を職員で確認、患者の移動を5 階へ目指し搬送した。
勿論エレベーターは停止、車椅子や担架での移動となった。防災無線の警報から40 分、病院の電源は失われ、町全体が濁流に飲み込まれた。看護婦は「患者さん全てを5 階へ運び込むことができなかった」病院の4 階まで津波が来ていた。
菅野医師は初めて死を意識した、そして同時に「後悔したくない、これ以上誰も死んでほしない」「これから先、たとえ死が避けられないとしても、最後まで医師として後悔しないときを過ごすと覚悟を決めた」こう言われた。
そこから菅野医師の不屈の救援、治療活動が始まる。菅野医師は奥様そして3歳になる美月ちゃん、奥様のお腹の中には臨月を迎えた胎児がいた。
志津川病院のすぐ下のアパートに暮らしていた自宅は、家も車も全てが濁流に飲み込まれ跡形なく流されていた。生まれてくる子供が家族の命を救った。出産予定日3 月16 日を控え、仙台の実家へ出産準備で戻っていたことで一命を取り留めた。
彼は産まれた男の子に「怜」と名付けた。2つの意味が込められており、ひとつは光、そしてもうひとつは困難に打ち勝つことを意味する。
タイムズ誌2011 年最も影響力のある100 人に選ばれた菅野医師は「目の前の困っている人を助けるという当たり前のことを、震災という受難の中でも続けただけ」「すごいことをしたとも思わないが、日本人全体が復興に向けて頑張っている中で、その1人として選ばれたと考えることにした」「地域でも一流の治療が受けられるようにしたい。南三陸町には通い続けるつもり」と話された。
菅野医師は「さくら並木ネットワーク」の活動に共感いただき支援の輪を広げていただいている。SNN の役員数人と数時間、奥様の由紀恵さん、美月ちゃん、玲君を含め懇談し、たくさんの想いの詰まった貴重なお話を聴かせていただいた。
さくら並木ネットワークは創立一周年と普天間かおりのさくら並木を歌った楽曲「さくらいろのみち」(仮称)のリリースを10 月24 日下北沢都民協会で行う。菅野先生にも講演を依頼、スケジュールが運よく空いていれば御出で頂くことになっている。

・あきなめないこと・自分にできることを必死で果たすこと・そして一人でないことを知り、皆でつながって人の輪の力を信じること。菅野武

(参考資料「寄り添い支える」-公立志津川病院若き内科医の3・11ー著者菅野武)

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さくらとオードリー・ヘップバーン

2012-05-26 12:46:51 | Weblog
十代の後半映画に夢中になった。年間200本見た年もあった。
お金がない身なので片っ端から試写会の抽選に応募、見たい映画は何人もの名を借りて申し込んだ。
映画を見て飯が食える映画評論家か映画の雑誌社を将来の仕事として真剣に考え、見た映画は全てにわたり評論と言えるものではないが本人は評論のつもりで書いていた。
お気に入りはオードリー・ペッバーン、ほとんどの作品は一度と言わず二度三度見た。
オードリー28歳のとき、ビリーワイルダー監督でゲリー・クパーと競演した「昼下がりの情事」は余すことなくオードリーの魅力をスクリーンに映し出した。
オードリーの美しさ、チャーミングなところ、お茶目で純粋。昼下がりの情事の主人公「アリアンヌ」こそオードリー・ヘップバーンそのもののような気がした。

南三陸町志津川一体が津波で流された。推定標高
40メートル、海岸から約530メートルのこの高台にある東山公園には、毎年美しい桜が咲き、皆が楽しみにしていた。ここに植わっていた桜は今回の津波でなぎ倒されてしまいました。
この地へ再びさくら並木を作ろうと呼びかけ、答えてくれた桜提供者とロンドンのSakuraFrontのメンバーで一時帰国していた、E女史も参加し植樹しました。
E女史は多くの社会貢献活動に参加、自身でも小児病院の療養環境改善のための活動に取り組んでおられます。
一ヶ月ばかりの滞在中、我々と行動を共にし「さくら並木ネットワーク」として存分に働いてくれた。
ロンドンへ帰るとき私に一冊の本をプレゼントしてくれました。それはオードリーの息子ショーンが綴った「母、オードリーのこと」A4版で二百数十ページでオードリーの写真もいっぱい詰っていた。

オードリーは晩年ユニセフの活動に旺盛に取り組みました。
ユニセフ親善大使としてアフリカの貧しい国は勿論、インドネシア、バングラディシュ、インド、フィリッピン。それは富める国の少しの善意で一日4万人の死んでゆく子供達を救える。オードリーは献身的に全世界に向け訴え続けました。

E女史は息子ショーンとメールのやり取りをしていてショーンに一通のメールを打ちました。
オードリー・ヘップバーンは生涯「花」を愛し続け、スイスの家は花で覆われていました、そして水彩画や油絵で花を描いたものを多く残しています。さらに桜は大のお気に入りで家の庭にも桜を何本も植えていました。
ショーンはオードリーが亡くなったとき、そのお墓は「桜の木があるお墓がいい」そばに桜の木のあるお墓を見つけ埋葬しました。
E女史はショーンに桜を好きだったオードリーのこと「さくら並木ネットワーク」の活動のことをメールで知らせました。ショーンは「素晴らしい活動だ」「オードリーヘップバーン児童基金事務局にこの話しを伝えておく」とE女史と約束を交わしました。
私はいただいた本の中のオードリーの愛情に満ちたいくつもの言葉に涙しました。
「エチオピアでね、配給されたパン1個をしっかり握った大勢の子供達が私のまわりに集まってきたの。そして、私の目の前でそのパンを半分にちぎって、ハイどうぞ、ってその半分を私にくれるの。硬いそのパン1個が丸一日分の食料なのによ・・・。彼らの目は澄んでいて、キラキラと輝いていた。私は一人一人を抱きしめたわ。
私は彼らから大きな愛をもらったの・・・」

オードリー・ヘップバーンは貧しい子供達に大きな援助を続けながら、子供達から計り知れない力をもらっていた。
「さくら並木ネットワーク」の我々も、支援した何倍もの力を被災地被災者から与えられている。そしてその力が明日への活力になっていることだけは間違いない気がする。
いつの日にか東北の地へ私達の手で「オードリーヘップバーン」の名前の入った桜の木が植えられることを夢みています。
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「繋ぎ束ね届ける」

2012-04-28 11:48:52 | Weblog
さくら並木ネットワーク(SNN)が設立され半年が過ぎた。SNNに新しい便りが次々届き、未来に大きな可能性が生まれつつあります。486本の植樹した桜から新しい力が生まれ、さくら並木ネットワークに質的変化をもたらせようとしています。

数日前気仙沼前浜から1通のメールが「花のミプリ」さんへ届きました。3月10日に植樹した一年生の桜「江戸彼岸のしだれ」に花が咲いたと言う便りです。
半年前ミプリさんへ伺い、SNNへの協力を要請したところ快く賛助会員に登録頂きました。後日SNNへ多額の振込みがあり、驚いた私がお電話をしました。電話口から返ってきた言葉は「私は素人から花屋を始め今年で十年、何とか細々営業してきました。十年たった記念にお客様に何かお返ししたいと思い蓄えたお金がありました」「桜を植えることに使っていただければお客様にも納得していただけると思い申し込みました」。
我々はこのような思いをなんとしても被災地被災者に届け、一日も早い復興の力となること、100年先まで津波の被害を伝え続けなければならないとメンバー全員は確認しあいました。
この話を聞いた前浜の菊池さんは「ミプリさんに桜を自宅前の津波が到達した地点に植えていただくことができないか?」ミプリさんは忙しい中、前浜に出向き、菊池さんと二人で桜を植えました。「ミプリの桜です。かわいくて、可憐で、はかなくて、きれいで、こんなチャーミングな桜は見たことがありません。本当に素敵です。とてもうれしいです。桜並木ネットワークのみなさまのおかげです。ありがとうございました」(桜の写真は SNN ホームページ記載)1本の小さな桜が支援者と被災者を強い絆で結びつけ、新しい物語が再び始まります。

6月にSNNの新聞「さくらだより」(仮称)ができます。賛助会員全員へ送付されす。この編集委員会に賛助会員から新しいボランティアが加わり、積極的で斬新な意見を頂き、間違いなく賛助会員と被災地を結びつける「さくらだより」になると確信しました。

賛助会員から「ホームページから記事を抜粋し、SNNお知らせの資料を作り、多くの人に広めたい」このような要望が届きました。この方は観光バスの添乗員をされていて、SNNの活動に賛同され、バスでのお仕事先、乗車されているお客さんは勿論、道の駅や宿泊先あらゆるところにSNNのリーフレットを置かせていただく依頼をやってくれています。
お会いしお話をうかがったところ、あまりの積極性でSNNの問い合わせがバス会社へ頻繁にあり困っているとのお話でした。SNNの「ひろめ隊」として活動を引き続き展開していただき、SNNの名刺を作りバス会社の迷惑に成らないよう興味のあるお客様にはSNN事務局へ問い合わせが入るようしました。

ロンドンのさくらブローチを日本で制作したいとの依頼がSNN事務局へ届きました。ロンドン SakuraFront と繋げその許可と制作上の注意点のアドバイスを頂き、日本製のさくらブローチが200個、出来上がりました。雰囲気のあるブローチが素敵なボランティアグループにより完成し、多くの力がSNNに寄せられていることに感謝しています。
私達はこれからも多くの感動の物語を賛助会員の方と分け合い、新しい道を切り開きたいと思っています。それにはあなたの力が必要です!
復興、復旧への道は始まったばかりです。それぞれの力は小さくて弱い、しかしその力を繋げ束ねることで、大きくて強い力へと変わり、希望と夢になり被災地と共に歩んでいく。それが「さくら並木ネットワーク」です。
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「津波てんでんこ」

2012-04-14 13:11:39 | Weblog
南三陸町波伝谷、先々週植樹を行った上山神社の対岸に位置する地。津波で流された家屋を見下ろすとそこは谷の様でもあった。
南三陸の語り部、後藤一磨さんはこう言った「昔の人は伝え続けなければならないものは地名として残したところは数多くある」
波伝谷地区は全ての家屋が津波で流され、15人の尊い命を失った。
津波で大きな犠牲を出したこの谷は後世まで伝え続けなければならない。きっと昔の人の思いが「波伝谷」と言う地名となって伝えられていた。
家を流され、高台に移転しようとしてみれば、そこは縄文時代の遺跡や館跡であった。
現代に生きる人間は自然とどのように向き合い生きてきたのか?便利さや意味のない豊かさを求め自然を人間の力で封じ込めようとしていたとさえ思える。一磨さんはこう語った。

一磨さんは戸倉中学校で、翌日の卒業式の後に開かれる同窓会入会式の準備をしていた。経験したことのない大きな揺れ。
「必ず津波が来る」と直感した。急いで帰宅し、妻子を連れて自宅裏の高台に逃げて間もなく大津波が押し寄せた。
自宅は大丈夫だと思った。しかし、かやぶき屋根が引き波に乗って島の向こうに消えていくのをぼうぜんと眺めた。
「なぜか、幼いころにアリの巣を壊した時のことを思い出した。アリたちは卵を運び出したり巣を直したり、右往左往していた。自分たちも同じだ」
縄文時代の遺跡や古い神社が「不思議と津波の被害に遭っていない」ことに気付いた。
「先人たちは津波にやられたり、生き延びたりしながら、安全な場所を定めてきたのでしょう。それが人間の生活と自然との関係だったはず。
私たちに「自然を操れる」というおごりや慢心がなかっただろうか、植樹の前夜、三陸の語り部後藤一磨さんに皆でお話を伺った。

古くから「津波てんでんこ」と言う言葉がある。津波が来て生死を分けるもの、それは自分の事だけを考え、一目散に逃げる事。
他人のことは一切考えるな自分の命は、自分の責任で守れという意味も含みます。
さらには「他人を助けられなかったとしても、それを非難しない」という暗黙の約束事にもなっているのです。
あの時、津波によって亡くなったのは、せっかく避難をしたのに身内を心配して家に戻った、貴重品などをとりに行き引き波でさらわれる。

「てんでんこ」とは、「てんでんばらばらに」を表し「人にかまわず1人で高台へ逃げろ」という意味。
上山神社の目の前に南三陸町防災センターがさび付いた鉄骨だけを残し痛々しく建っている。町の職員が最後までこの防災センターで大津波警報と避難を呼びかけていた。
避難された人は「緊迫した呼びかけは危機が迫っている事を感じさせてくれた」「呼びかけに背中を押されるように逃げて助かった」
しかし26名の防災担当職員は命を失った。多くの消防団員や職員の大切な命、大切な職務、答えは「てんでんこ」だと思う。
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「三春の滝桜」

2012-04-07 09:00:54 | Weblog
砧公園の桜もこの土曜日曜が見ごろを迎える。半月ばかり遅い春がやってきた。大勢の人でお花見だ、皆桜を愛でて何を思うのか?
10人が10人きっとさまざまな思いを抱き今年のさくらを眺めるのだろう。

4月初旬福島三春町を訪問、「三春の滝桜」に会いに行った。現場に着いたのは日落ちる少し前だった。
勿論一輪の花もつけていない滝桜が20mもあると思われる枝を東西南北に大きく張り出し垂れ下がっているようすは、桜の王者を十分感じさせる存在であった。
この桜が満開の花を咲かしたら自分は何を思い、何を感じるのか、花の咲いた滝桜に巡り合いたいとも思った。
三春町への訪問は滝桜に会うことが目的ではなく、この滝桜をも守っている村田春治(82歳)さんに会うためである。

「さくら並木ネットワーク」が今春、植樹した90%の桜は「江戸彼岸桜」だった。樹齢が長く、東北の地へ植えるのに適した品種と言うことで推奨した桜である。
「三春の滝桜」も原木はこの江戸彼岸桜が突然変異で枝垂れたものらしい。
「三春の滝桜」の種子を育てても2割3割しか枝垂れるものは現れない、三春以外の枝垂れではその確立はさらに十分一程度になると言う。
突然変異の突然変異が三春の滝桜らしい。これを守っている村田春治さんも滝桜と変わらぬぐらい、変わってる人であった。
82歳で後継者がいなくて、一人で何町歩もの畑と庭を管理するのは酷な話である。
残念ながら手入れがいきとどいてなくて、頂ける「三春の滝桜」は一本もなかったが、多くの貴重なお話を聞かせて頂き勉強になった。
しかしどうしても今回の三春訪問で純粋の「滝桜」を5本6本、目途を付けなければならい事情があった。
時間がない中走り回り、手入れのいきとどいた立派な畑で「三春の滝桜」に出会うことができた。
その畑の滝桜は、何度も移植を繰り返し、根きりをして新しい根毛を育て移植に耐え、成長するような立ち姿を素人の私たちにも感じさせてくれた。

樹木に特別の知見を持っておられる、東京農大の濱野教授を訪問。お話を伺った折「さくらは人の手が入れば入るだけ、良い木となる」「それも小さいうちが大切である」人の子を育てるのと変わりがないのだなと思った。
その畑の「三春の桜」は子供を育てるように育てている愛情が私にも伝わり「この滝桜なら喜んで頂ける」と確信した。

大した知識もなく「さくら並木ネットワーク」を立ち上げ、問題にぶつかるたび識者に教えを乞い解決してきた。
桜の持っている力にも驚かされたが、桜を植え、育てる過程おいても深い深い知識と経験が必要だと感じさせられた。

「さくら並木ネットワーク」が遠い将来、発展的に解消する時が来たとしたら、その後の組織は「さくら並木を守る会」として再出発しなければならないが、それは次の世代に託すしかない。
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