小学校六年生の時、滋賀県大津市琵琶湖のほとりから東京に出てきた。
一回り年の違った兄と二人での生活だった、場所は新宿新田裏と言う所で、ZUKKIさんのお店のすぐ近くに住んでいた。
4人兄弟の長男と末っ子、長男は小学生の僕を、毎月自分の趣味でもある落語を聴きに連れていってくれた。
長男との生活でなにが楽しみであったかというと、毎月の寄席通いと給料日の外食だった。
新宿末広亭は歩いて10分もかからない所にあリよく連れて行かれた、またホール落語が始まってまもなくで、安籐鶴夫などの識者が演目と噺家を選定してプロデュースする、今ではごく当たり前の会である、
東横名人会が隔月で澁谷の東横ホールで開催されていてこの会にも連れて行ってもらった。
古今亭志ん生、桂文楽、三遊亭円生、桂三木助、柳家小さん、林家正蔵などなど落語好きが聞けばよだれが出るほどの面々で、調度戦後の第一期落語黄金時代であった。
小学生だったが多分、多くを理解していたのだと思う、聴いた落語を、次ぎの日に学校で給食の時間にクラスの皆に良く聴いてもらった記憶がある。
高校から社会にでても落語好きは変わらず、よく寄席に通った。
その頃は,志ん生,文楽,三木助はもう高座には上らなくなり、変わって志ん朝、談志、円楽が若手御三家と呼ばれていた。
目黒に就職した私は休みの日に、できててまもなくの目黒権の助坂にある寄席に通ったものだった。
長く続かず10年ほどで潰れてしまったが、談志が好んで出演していた、つくり、広さ、分囲気などが噺家が噺をするのに調度よかったのかもしれない。
その後花屋を府中にだしたことでしばらく落語とも縁がなかったが、ご近所に落語家が住んでいて、いろいろな催しがあると引っ張り出し司会やら落語を噺てもらった、彼の名は「桂南冶」と言い桂小南の弟子で当時まだ二つ目であった。
府中の落語好きを集め「府中市民寄席の会」と言う会を1980年立ち上げた。
この会の一番隆盛だった頃は会員が500人を超えたことがあり、年4回の例会と機関紙を発行していた。
その頃東京には定席と呼ばれる寄席が4箇所しかなく400人ぐらいいる落語家は、落語をする場が極端に少なかった、そのほとんどが副業で生活をし、今でもその環境は基本的には変わっていない。
「府中市民寄席の会」は若手の落語家の噺をする場を与えると同時に、府中市民の中に日本の愛すべき伝統文化の一つの落語を広めようと始まった。
しかし若手中心では人が入らず、やむなく人の集まる、志ん朝、談志、小三冶、小朝など落語好きでなくとも知っている落語家に出演してもらった。
会の存続が危ぶまれると志ん朝師匠に出ていただく、500人のホールが何時も立ち見が出るはど盛況だった。
その志ん朝師匠も会をはじめたメンバー桂南冶君も数年前になくなってしまった。
名人上手と言われる人の噺を聴くと全てを忘れ噺の世界にのめり込み、情景や風景が目に浮かんでくるようで、芸の力はすざましいとよく思った。
特に志ん朝師匠のその芸は天下一品まだまだ元気だったら充分高座に上がれた人だった。
この会は10年続くのだが6年間花屋をやりながら会の事務局長を務た。
残念ながら私のフローレ設立と前後して10年間でこの「府中市民寄席の会」は幕を閉じた。
10周年のレセプションでは府中市長にも出席して頂き、市の文化事業として第三セクターに引き継いでいただいた。
現在でも年間2度ぐらい市の文化施設で寄席を行なっている。
落語は江戸時代東京を中心に当時の一般市民の娯楽として栄え、200を超える寄席が東京に誕生したと言われている。
明治時代には三遊亭円朝がいくつもの名作をつくり、これらの噺を本として出版、はじめて話し言葉「口語体」で書かれた本が世に出まわった、円朝の出現は落語界だけでなく文学の世界にも影響を与えた。
落語は何時も庶民のほうから物事を見て、時の権力者の理不尽や横暴を笑い飛ばし、ここに庶民の文化として長きにわたり栄えた理由があるように思う。
昭和に入り世の雲行きが怪しくなるにしたがって、権力者はさまざまな規制を落語に与えた,幾つもの噺を上演禁止とした、戦意高揚の邪魔になるものは全て禁止とされて「噺づか」に葬られた。
私たちが物心がついて60年、戦争を知らずにすごしてきた、だから平和の本当のありがたさや戦争の恐ろしさを実感していないが、戦争は人の命を含め全てのものを破壊に導く、落語とはいえ例外でなく、戦争の被害者であった。
今日のコラムはつまらない私の趣味に付き合って読んで頂いて申し訳ありません、そのお詫びに機会がありましたら、一席お伺いをさせていただきます。