小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源60

2015年01月12日 19時44分16秒 | 文学
倫理の起源60




 さて『永遠の0』に話を戻そう。
 すでに述べたように、この作品が提供している最も重要な思想的意味は、宮部久蔵という主人公の造型のうちに、大東亜戦争時における「お国のため」イデオロギーと、戦後における「平和主義」イデオロギーとの矛盾を止揚・克服しているところにある。
 とかく、特攻隊などをテーマとした作品・言論は、前途ある若者たちが「お国のために」死を引き受けていくその悲運に対する哀切な共感を核にしたものか、そうでなければ、ただ「間違った戦争」という戦後イデオロギーによる言いくくりで、ここにある大切な思想的問題に頬かむりを決め込んだものが大半である。両者は共にセンチメントを根拠にしているので、永遠に交わることがない。
 この稿を起こしている間に、私は原作・映画両作品に関するいくつかの感想、批評に触れたが、右翼的だ、左翼的だなどの政治的批判は問題外としても、残念ながら、この作品が戦中イデオロギーと戦後イデオロギーとの不幸な対立を克服するメッセージを発しているのだという最も重要な指摘に出会うことがなかった。
 宮部久蔵は戦争という状況の中にいるかぎりは勝たなければ意味がないという信念の持ち主である。だから不合理な作戦には上官に逆らってでも異を唱える。何のために? 「お国のために」というスローガンは、それだけでは、崇高に見えるぶんだけ超越度が高すぎる。しかし、「身近な愛する者たちのために」ならば時代を超えて、だれでもそのロジックに納得するだろう。そうしてこの場合重要なのは、何々のために「死ぬ」ではなく、何々のために「勝って生還する」という構えである。「お国のために」は、背後にこうした精神の裏付けがあってこそ意味をもつのだ。
 先に引いた与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』は、身近な愛する者に向かって、生きて還ってきてくれることを切に願う歌であり、それが「大みこゝろ」に必ずかなうはずだと訴えている「女歌」だった。宮部の言動は、男の側からそれに一心に応えようとした「男歌」だったのである。

 その心はまた、『伊勢物語』に収められている、業平が歌ったとされる次の歌ごころにまっすぐ通じている。

名にし負はば、いざ言問はん都鳥、わが思ふ人は、ありやなしやと

 この歌は、遠く都を離れた一行が心細い東路にあって、すみだ河の舟の上からカモメを見つけ、それが「都鳥」という名だと聞いて、たちまち京都に残してきた愛しい人のことを思い出し、彼女たちが息災でいるかどうかを切なく思いやった歌である。船上の男たちはこれを聴き「舟こぞりて泣きにけり」と皆大泣きした。「川を渡る」には、そもそも異界に旅立つという象徴的な意味合いが込められており、それは死を覚悟で戦場に赴くときの心情に見事に重なるだろう。
『伊勢物語』では、東下りの動機について、「その男、身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ。あづまの方にすむべき国もとめにとてゆきけり」とだけ説明されているが、『伊勢物語』の説話は、歌にさまざまな伝承を後から付け加えたものだから、この動機を歌が本来示している情調に結びつけて解釈する必要はない。歌の主が本当に「身をえうなきものと思ひなし」たのかどうかはわからないし、「すむべき」を、この一行のみが自発的に「すむ」ことを目指したと考えなくともよい。要は、はからずも流離の身となった男がはるか遠国から恋する女のことに思いを馳せるという一般的なシチュエーションが歌心の核心であることが読み取れればよい。だからこの歌は、都の官吏が上からの指令によって(たとえば土地開拓や遠征の意図をもって)そこに派遣されざるを得なかった時に歌われたと考えてもよいし、急な左遷を強いられたと解釈することも可能である。さらに政争に敗れて追放の身になったのかもしれない。いずれにしてもこの歌は、戦場に赴くときの兵士たちの切ない心ときわめてよく通じ合うのである。

 宮部が、部下に家族の写真を見せて、辛い戦いにくじけそうになった時にこれを見ると勇気が湧いてくると答えたのも、彼がエロス的な絆を最も重んじている証拠である。束の間の休暇からの隊への帰還に当たって、背後からつと寄り添う妻に「私は必ず帰ってきます。手をなくしても足をなくしても……死んでも帰ってきます。」と彼は答える。このシーンがかぎりなく涙を誘うのも、守るべき価値がなんであるかについての彼の明晰な意識が読者・観客の胸に素直に伝わればこそである。この瞬間、その精神は、超越的・抽象的な「お国」の理念を突き抜けているのだ。
 しかしひとりのうつしみは、現実には国家的共同性(公)とエロス的共同性(私)の両方を背負わざるを得ない。そればかりではない。敗色濃厚な戦局のさなかにあって、宮部は、学徒特攻要員の育成という、前途ある有能な人材を次々に死地に追いやる職業的役割を果たさなければならなかった。ここで彼の苦悩はいよいよ深まる。教官としての職業倫理と、身近なものを救わなければならぬという個体生命倫理とがまず葛藤する。
 さらに教えた者たちのなかには、自分の命を捨て身で救ってくれた生徒(大石)もいる。その間に介在するのは、単に抽象的な個体生命倫理ではなく、かけがえのない友情というもう一つの具体的な人倫性であった。この人倫性もまた、職業倫理との間に葛藤を生み出さざるを得ず、こうしてこの段階で、宮部久蔵という一つの身体は、公共性と個体生命と友情という三重の人倫性を一気に背負うのである。それらのどれか一つを「選択」して貫くということが到底かなわない状況の下で。
 やがて宮部と大石を含む特攻隊要員はいのちの離陸地点である鹿屋基地に配属される。当座、宮部は特攻機の目的を遂げさせるために、飛行中に特攻機を敵機の攻撃から守る直掩機に搭乗する。しかし特攻機は、装備を格段に向上させた敵艦の迎撃に遭って、目的を達する前に次々に海中に墜落してゆく。宮部は自分の無力を日々痛感して、その形相は別人のように変わり果てている。ぎらついた目と無精ひげとひとり部屋の片隅に頑なにうずくまる姿。この鬼気迫る形相は、映画作品ではじつによく描かれている。
 こうして、迫りくる戦況の切迫情態と、すぐ目の前で日々命を落としてゆく若き「戦友たち」に何ら援助の手を差し伸べられない激しい無力感とによって、妻子の下に必ず生還するという彼の最大の価値感情は、無残にも押しつぶされてゆくのである。死んでゆく戦友たちをさしおいて自分の日ごろの信念を貫くことはもはや不可能だ――作品に直接描かれてはいないが、おそらくこの絶望が、彼をして特攻隊員への志願をぎりぎりのところで決断させたのである。しかし彼は信念を曲げたのではない。恩人であり戦友である大石隊員の命を救う試みと、妻子を助けてほしいというメモ書きによる大石への委託。これこそは、その信念を生かす道を最後まで捨てなかった証拠である。
 こう考えてくると、絶望的な思いを抱えながら遂に特攻隊志願の道を選んだ時点における宮部の身体は、単に国家的共同性(「お国のため」)とエロス的共同性(愛しい妻子のため)とのねじれに引き裂かれていただけではないことがわかる。彼は、若き同志たちを目の前で次々に失ってゆく残酷な光景、それでも(それだからこそ)自分の磨きぬいた技量を使い尽くして敵を倒さねばならぬという職業的使命、これらにもまた引き裂かれているのだ。言い換えると、公共性、個体生命、友情、職業、エロスと、それぞれ一筋に貫くことのかなわない五つの領域における人倫の命令が互いにもつれ合いながら、宮部の身体にいっせいに襲いかかっているのだ。
 それにもかかわらず、宮部はこの四分五裂した自らの身体から、命の瀬戸際で自らの信念(魂)を救い出す方法をかろうじて見つけ出した。身は公共性と職業が要求する人倫性のほうへ、そして魂は、友情とエロスが要求する人倫性のほうへ分割して奉納したのである。だから、彼の魂は、戦友・大石と妻・松乃の下へと帰ってきた。そうしておそらくは孫たちの下へも。
身を殺して魂を殺し得ぬ者どもを懼るな。身と魂とをゲヘナにて殺し得る者を懼れよ」(マタイ伝10章28節)という厳粛な言葉を思い浮かべるのは私だけだろうか。魂は殺されなかったのであり、それは、近代国家という公共体の下にではなく、友情とエロスという実存のふるさとのほうに帰還したのだ。

 ここで、映画作品での一連の印象的な展開について触れておきたい。宮部の命を救った大石が入院しているとき、宮部が見舞いに訪れ、妻が念入りに修理してくれた外套を大石にプレゼントする。大石は戦後もずっとその外套を着ている。新しい品を買う余裕がなかったのも理由かもしれないが、これはあの宮部さんの形見であるという気持ちが強かったのだろう。彼がようやく松乃の家を探し当てて戸口に立った時、松乃は男の影が差すのを見て警戒し、思わず箒に手を伸ばす。じつはこの箒に手を伸ばす場面は、宮部が不意の休暇で帰宅した時にも出てくる。両者は意識的にダブらせてあるのだ。そうして次の瞬間、戸が開くと、松乃はそこに宮部の姿を見る。だって自分が精魂込めて修理したあの外套を着ているではないか。すぐカットが変わり、立っているのは見知らぬ男・大石である。
 外套を小道具に使ったこの展開は見事であり、まさに宮部の魂が帰ってきたことが暗示されているのである(なお同じ展開は、作品構成上の制約はあるものの、原作でも伏線として記されている)。