小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源59

2015年01月08日 15時56分44秒 | 文学
倫理の起源59




 さて三つ目に、島尾敏雄吉田満の対談『特攻体験と戦後』(2014年・中公文庫)から、二人の発言の一部を引いておきたい。
 島尾は、特攻隊長として南島に赴任し出撃直前に終戦を迎えて肩すかしを食った頃の内的な体験を、緻密な文体で『出孤島記』『出発は遂に訪れず』などの作品に結晶させた。また吉田は周知のように、『戦艦大和ノ最期』の著者である。この対談が行なわれたのは1977年という古い時期であり、本は1981年に中公文庫から出版されているが、2014年版は、いくつかの文献が増補されて「新編」として再出版されたものである。

 
島尾 ……特攻というのも、そのような戦争の中での一つのやり方だとは思うけれども、やはりぼくは、ちょっとルールがどこかはずれているような気がするね、人間世界では戦争は仮に致しかたないにしても、せいぜいスポーツみたいなところにとどめておくべきですね。特攻は、もうとにかく、最後のところまで、なんというかね……そうじゃなくもっと気楽に……戦争を気楽にするというのもおかしなもんだけども……。最後のものまで否定してしまわないで……。
吉田 死ぬ確率と生きる確率とのあいだには適正配分がありまして、戦争が人生の一場面としてあるとすれば、その適正配分の範囲内であるし、……特攻というのは、そういう原則を破るものですね。だから、みんなやむを得ず、無理をしてその中をくぐりぬけるわけでしょう。だから、あとにいろんな問題が残るわけでしょうけれども。
島尾 あれをくぐると歪んじゃうんですね。
吉田 歪まないとくぐれないようなところがありますね。
島尾 それはやっぱり歪んでいるという気がしますね。
(中略)
吉田 その通りだと思いますね。ただ、ぼくらの学徒出陣の時代は、たとえ歪んでいても、敗戦直前に戦場にかり出されて、なにかそういうものを自分たちに課せられたものとして受け入れて、その中からなにかを引き出すほかはないというような、そういう追い詰められた、受け身の感じがどうもあったと思うんです。そう感じた仲間が多かった。これは事実を言っているので、この事実をどう受け止めるか、われわれ自身がどう乗りこえるかは、別の問題で……。
島尾 その中からやはり水中花みたいな、非常にきれいな人間像が出てきたりなんかするんですね。冷たい美しさを持って死の断崖に剛毅にふん張った人たちなんか。しかし、それに惑わされないで……。だから、そういう一見美しく見えるものをつくるために、やはり歪みをくぐりぬけることが必要ということになると、ぼくはやはりどこか間違っているんじゃないか、という気がしますね。ほんとうはその中にいやなものが出てくるんだけれど、ああいう極限にはときには実にきれいなものも出てくるんですね。そこがちょっと怖いような気がしますね。


 整理すれば、次の四つのことが言われている。

①特攻隊作戦のようなものは、通常の戦争なら必ず暗黙の了解としてあるような、人間の生についての基本的な規範感覚を逸脱している。
②その逸脱は、普通の人間の意識を歪んだものにする。
③しかし自分たちには、その逸脱と歪みから抜け出す道は許されていず、それを運命として引き受けたうえで、それぞれに自分を納得させるほかはなかった。
④その納得の仕方のうちには、美しい人間像が出てくることもあったが、歪みを肯定しなければその美しさを引き出すことができないと考えるとすれば、それはやはり間違っている。


 この対談では、こういう作戦を立て実行に移した軍上層部への批判とか恨みのようなものは一切語られていない。事後的な客観認識にもとづいて当時を振り返る試みは、この二人のたくまざる文学的な誠実さによって、無意識のうちに避けられているのだ。しかしそうであればあるほど一層、実存体験としての特攻体験がどのようなものであったかという実相が過不足なく描き出されていると言えよう。
 ことに、訥弁の島尾の最後の発言は、「いやなもの」と「美しいもの」との両面性を指摘していて、かぎりない重みが感じられる。私は、ここで言われている「いやなもの」という生理的な表現に、梅崎春生が目撃して感じた水上特攻隊員の「いやな」感触を重ね合わせる誘惑からの逃れ難さを感じる。
 傲慢に聞こえることを承知の上でつけ加えれば、特攻隊員たちの遺書などに限りなく「美しいもの」がみられるのは、むしろ当然と言ってもよい事態なのである。若い身空で死にゆく運命を意識的に引き受けた上での瀬戸際の言葉なのだから。
 私自身もそれらに触れて涙を誘われることを告白するにやぶさかではない。しかしそれらの言葉の美しさは、すぐれた文学作品とちょうど同じように、それ自体で完結してしまう。それは、そのような運命に多くの若者たちを追いやった大きな力の正体がなんであったかという疑問、そうして疑問がある程度答えを得た時に生じてくるその正体への憤りを育まない結果に終わりがちである。だが、疑問や憤りは、それがどの方向に向けられるかは措くとして、また明確な表現を獲得するかどうかは別として、生活者の心の奥深くにずっと現存し続けるのである。
 これはまた、『きけ わだつみのこえ』(光文社)に収録されたいくつかの文章などについても同じである。この本の初版に対してその編集方針に左翼的イデオロギーの匂いをいち早くかぎつけて、「遺書にイデオロギーなどを読んではいけないのである。……彼等(編集者達――引用者注)は、それと気付かず、文化の死んだ図式により、文化の生きた感覚を殺していたのである」(「政治と文学」)と鋭く指摘したのは、小林秀雄だった。
 小林は、最後まで「政治」や「社会」にかかわるテーマに言及することを嫌い、「文化」の息の長さの維持に己れの表現の生命を賭けた。そのかぎりで、彼もまたある組織化された明瞭な「憤り」のかたちに自分の言葉を収斂させはしなかった。彼の思想を理解する上での重要なキーワードは、憤りではなく、ある運命を味わった生活者たちへの「深い共感と哀しみ」である。だが、いっぽうで彼は、子どもを失った母親の哀しみのうちにこそ、客観的な事実の羅列ではない真の「歴史」が生まれる根拠があると主張し、そうした生活者の営みや感情自体に、歴史的必然という「大きな力」への「抵抗」を見出している。「僕等の望む自由や偶然が、打ち砕かれる処に、そこの処だけに、僕等は歴史の必然を経験するのである。僕等が抵抗するから、歴史の必然は現われる、僕等は抵抗を決して止めない」(「歴史と文学」)。つまり実存者の生活の持続のなかに孕まれる具体的な哀歓が、「歴史の生産」に論理的に先立つのである。
 もとより憤りや反省を構成することは、実存思想家・小林の役割ではなかったが、その彼もまた逆説的な仕方で、生きることそのものが運命に対する「抵抗」であることを認めていた。この彼の態度を、憤りを正当に構成するための心の土壌と考えるのは我田引水であろうか。

 以上三つの例によって、特攻隊精神なる純粋で美しいもの(だけ)がすべての特攻隊員の心を貫いていたという思い込みが少しは相対化されただろうか。何度も繰り返すが、そういう思い込みに耽ることの一番まずい点は、この自暴自棄的な作戦を考え出した軍上層部の非合理性と人命軽視という最大の問題が不問に付されてしまうところである。フィリピン戦における大西中将がこれを発案したとかしないとか諸説があるが、それはどちらでも構わない。それがだれだったにせよ、特攻隊などという「十死零生」の作戦を考えて死の美学に国民の運命をゆだね、どこまでもこの作戦に固執しようとした時点で日本の敗北は明らかだったのである。後から来た私たち、英霊たちの遺族でもない私たちにとっては、あの戦争にかかわるなにかを言論思想として語ろうとすれば、そのように語るほかにすべがない。


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