小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

パリ銃撃事件の背景をよく考えてみよう

2015年01月16日 00時22分45秒 | 政治
パリ銃撃事件の背景をよく考えてみよう




 以下の記述は、当ブログに掲載済みの「EU崩壊の足音聞こゆ」、およびポータルサイト「ASREAD」に掲載された拙稿「なぜ中東で戦争が起こるのか」と合わせて読んでいただければ幸いです。

EU崩壊http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/3249423496d0112f3d568fc9b6fda158
なぜ中東でhttp://asread.info/archives/1205

 まずは、いきなりずっこけたことを言います。
 ここ数日、パリ銃撃事件の報道を産経新聞と朝日新聞とで読み比べてきましたが、事実報道に関する限り、なんとあの朝日のほうが、突込みが深く、公正な視野をキープしているという印象を持ちました。と言って、別にいまさら朝日を擁護する気など毛頭ありませんが、メディアを論評する側も、個々の情報発信の仕方に関して公正な判断を要求されるので、このことを指摘すべきだと思いました。
 具体的に言いましょう。
 産経新聞は、ほとんどの記事が、欧米が至上の価値観とする「自由と民主主義」理念――この場合は「表現の自由」――に乗っかって、「テロをけっして許すな」という単純な主張で盛り上がっている欧米の空気をそのまま伝えているだけです。1月9日付では、ニューヨーク、サンパウロ、香港、東京における集会で「私はシャルリー(襲撃された週刊誌本社)」というプラカードを掲げる人たちの大きな写真を掲載していますが、いっぽうで、テロ実行者たちが属するイスラム文化圏の人々の複雑な背景については詳しい記述がありません。
 これに対して、朝日新聞は、1月11日付で、フランスのニュース専門局によるテロ実行者へのインタビュー記事を載せ、彼らが「イスラム国」に所属しているという明確な証言を引き出しています。また警官と人質を殺してスーパーに立てこもったクリバリ容疑者がこのスーパーを選んだ動機はユダヤ人の店だからだという証言も引き出しています。12日付では、イエメンを拠点とする「アラビア半島のアルカイダ」、「イスラム国」、アルジェリアを拠点とする「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ」などが今回の行為を支持している事実、これらの組織をめぐる複雑な事情、アフガニスタンやパキスタンでの、政権の公式声明と一部の国民の意識の間のギャップ、印刷工場に立てこもった兄弟のサイド、シェリフ両容疑者の、従業員に対する優しい態度などについて詳しく報じています。
 まさか反日メディアの判官贔屓というわけでもないでしょうが、いずれにしても、こういう国際的なテロ事件に関しては、バイアスをなるべくかけない報道の仕方が大切で、ことに私たちが事情をあまり知らないイスラム文化圏にかかわる場合には、なぜこういうことになるのかをよくよく考えてみる必要があります。あらゆるテロをただひたすら一括りにして「絶対に許すな」と叫んで済ませているだけでは、そのへんの事情が見えてきません。それを見るための素材を少しでも提供してくれているという意味で、今回の朝日報道は評価されてしかるべきでしょう。

 以上はまあ、話の枕のようなもので、これからが本題です。

 次に思ったのは、今回のパリ警察の対応が、テロを取り締まる立場からすれば、最悪だったということです。
 4人の人質が殺され、一人の容疑者を逃がしてしまい、3人の容疑者は銃殺されました。だれも逮捕されていません。これでは、犠牲者を出しながら、相手が属する組織や実行動機について確かな情報が何も得られません。フランスの警察は、8万人もの動員をかけながら、そのへんの配慮がどうも甘く、やり方が荒っぽすぎる。こんな失態を重ねるようでは、警察への不信感はいっそう深まるでしょう。どうも武力面だけは粗暴になっていて、肝心の秩序維持のためのインテリジェンスがはたらいていない。言葉にはなりにくいそういう現場の雰囲気を見逃してはなりません。
 これは小さなことのようですが、国内の空気が想像以上に殺気立っていることを象徴しています。それもそのはず、フランス(だけでなく一般にEU諸国)は「開かれた自由な圏域」という建前を取りながら、かえってそのことのために移民との文化摩擦や治安の悪化を助長しており、みんなが異民族に対する警戒心で互いにピリピリしているのだと思われます。フランスの人口の約8%に当たる500万人はイスラム系です。その他ユダヤ系、スラヴ系、アフリカ系などの人種・民族・もたくさんいるので、パリなどは多様な人種・民族が混在する一種の「プチ・アメリカ」といってもよいでしょう。
 こういう地域では、いったん事が起きると、市民の間に緊張が走り、関連地域の住民はひっそりとドアの内側にこもり、自主的な戒厳令のような様相を呈します。今回の事件がまさにそうでした。日本人が当たり前と思っている、見知らぬ路傍の人同士の信頼関係などはまずないと考えた方がよい。フランスから初来日したある人は、電車の中で乗客が居眠りしているのにびっくりしたそうです。

 昔から、ヨーロッパはジプシーその他による観光客相手のすり・泥棒が多く、日本人旅行者はいいカモにされると言われてきましたが、ここ数年、治安や人心の荒廃がより進んでいるような気がしてなりません。もちろん、一律にそうだとは言い切れませんし、見てきたようなことを言うのは危険だと承知の上ですが。
 しかし仮に私のこの推測が当たっているとして、なぜそういうことになるのでしょうか。答えは明らかです。域内グローバリズムおよび積極的な移民受け入れ政策が自ら招いた結果としか考えられません。
 ヨーロッパは、国によってEU(欧州連合)に参加していない国(例:スイス、ノルウェー)、ユーロ圏に参加していない国(例:イギリス、スウェーデン)、国境検査の必要ないシェンゲン協定に参加していない国(例:イギリス、アイルランド)などいろいろです。しかし、二つの大戦のトラウマと、冷戦期における西側諸国のソ連に対する結束の必要とに発した、「国境の壁を低くしてヨーロッパ人同士が互いに国を開くことはいいことだ。ナショナリズムを超えなければならない」という理念だけは、いまだに共通して生きていると言ってよいでしょう。
 ところがこの理念がまさに曲者なのです。
 この理念は、二つの大きな困難を生み出しました。
 一つは、経済的な統合のために通貨の統一を図ったことにより、各国の経済的な主権が失われたことです。一国の経済政策は、金融政策と財政政策の連係プレーによって行われますが、ユーロ圏の諸国には金融政策の権利がありません。また、GDPに対する政府の負債の割合の上限が決められていて、国情に合わせた自由な財政政策がとれないのです。もちろんこの割合はまったく守られていませんが、それだけに一層、各国首脳陣は、借金が膨らんでしまった危機感を募らせているわけです。
 そのため、不況や財政危機に陥った国がそれを克服しようとして他国からお金を借りようとする場合には、厳しい緊縮政策を取ることが条件となります(健全財政ぶりを見せなければ貸してくれないので)。しかしこれは同時に国民経済の成長を阻害し、国民を一層貧困化させる要因になります。財政破綻したギリシアがそのよい例で、現在この足枷を解くためにEU離脱も辞さないという勢力が急激に成長しつつあります。フランスの国民戦線、イギリスの独立党なども同じ方向性を目指して、多くの国民の支持を得ています。
 二つ目は、大量の移民を受け入れたことによって、深刻な文化摩擦が発生し、さらに、低所得に甘んじる移民によって賃金競争が引き起こされ、一国の経済規模が全体として低成長(ゼロ成長あるいはマイナス成長)に陥り、デフレの悪循環に突っ込みつつあることです。移民問題は、現代のヨーロッパの理想と現実のギャップを象徴する最も頭の痛い問題で、彼らを露骨に排除するわけにもいかず、さりとてそこに生ずる宗教的な文化摩擦や経済問題を解決することもできません。
 以上二つを合わせて考えると、なぜ今回のような事件が発生したか、その背景が少し見えてくるでしょう。ヨーロッパの主要国はいま「自由平等と人権と民主主義」を価値として信奉する世俗的・近代的な市民と、厳しい戒律を遵守するイスラム系の移民との間に存在する妥協不可能な対立意識が沸騰していると言っても過言ではありません。そのうえに、経済の停滞による格差の拡大、貧困層の増加、失業率の高止まりという問題が重なり合います。フランスはいま、移民であると否とを問わず、低所得者層に不満が鬱積しているわけです。

 ヨーロッパの外に目を向けてみましょう。
 もともと中東地域は大英帝国の植民地でした。強い宗教的色彩を帯びたイスラム文化圏であるにもかかわらず、その国家区分と統治のスタイルは、オスマントルコ滅亡後にヨーロッパ近代が自分たちの世俗的な国民国家モデルを無理に押し付けたところに成立しています。その形態がどこでも通用する普遍的で最高の形態なのだという傲慢さと優越意識が当時のイギリスにはあったのでしょう。今回の事件の場合にもこの負の歴史的遺産が影を落としていることは明らかです。
 思えば、キリスト教文化圏とイスラム教文化圏とは、十字軍の昔から、深い交流あるがゆえに歴史的な近親憎悪を繰り返してきました。近親憎悪というのは、両宗教が母胎(ユダヤ教)を同じくしながら互いに相手を異端視する一神教であるという意味です。
 さまざまな風土的・社会的条件が幸いして豊かな産業社会の確立に成功したヨーロッパと比較して、隣接する中東地域は、古代におけるあの隆盛をよそに繁栄から取り残され、世界でも有数の貧困地域に落ち込んでしまいました。宗教的な近親憎悪にこの経済的なギャップが加わります。2001年の9・11テロもそうですが、今回のような事件には、中東側のそうした長きにわたる怨嗟の歴史が関わっています。よく、イスラム圏の内外におけるテロ事件が発生するたびに、欧米諸国の政府は「自由」を普遍的価値としてことさら強調しますが(日本政府もそれに追随していますが)、そういう言い括りは、現在のイスラム圏にそのまま通用すると考えるほうが無理でしょう。

 ところで1月11日、パリで犠牲者の追悼と表現の自由を訴える数十万人の集会とデモが行われ、フランス全土では、370万人が反テロのデモに参加したと伝えられています。この状況を私はとうてい素直に受け入れるわけにはいきません。それにはいくつもの理由があります。
 第一に、この集会とデモが政府の呼びかけによる官製デモだということ(官製デモは反日を掲げるどこかの国もやりましたっけ)。参加した50か国の首脳の多くは、もちろんイデオロギーを同じくする西側自由主義諸国(国連も含む)の人々です。この何やら大げさな運動によって、「自由」を普遍的価値として掲げる強国の威力はいやがうえにも世界に印象づけられたと言えるでしょう。もとよりこれは、グローバリズムの恰好の宣伝になります。
 ちなみにオランド大統領は、デモを呼びかける前に国民戦線のルペン党首をひそかに呼び何ごとかを言い含めたそうです。そうしてルペン党首は、集会に招かれませんでした。おそらく大統領は国民戦線がデモで排外主義的表現行動に出ることを恐れたのでしょう。ここには、「表現の自由」を掲げながら、いわゆる「極右」にはそれを許さないという政治的欺瞞の臭いが紛々です。結果的に、この事件とデモとは、ヨーロッパ・グローバリズムの政治的な意図に巧妙に利用されたのです。すべての思想や宗教的信条に寛容であるかのような建前は、それが権力を握る者の口から発せられるメッセージであることによって、実際には自分だけが正しいという主張に転化します。ですから、この数十万人のデモには、おそらく多くの穏健なイスラム教徒も、テロリストと自分たちとを区別して見せるために、慌てて参加せざるを得なかったでしょう。

 第二に、ごく一般的に言って「テロ=絶対に許せない悪」と一口に言い括れるのかどうか。たとえば大義のない戦争として名高いイラク戦争は、多くの民間人犠牲者が出ているにもかかわらず、アメリカはそのことについて公式的に反省したという話を聞きません。また原爆投下や日本本土無差別爆撃は、明らかに民間人の大量殺戮であり、テロどころではありません。これは連合軍がナチス・ドイツを裁くときに自らレトリックとして用いた「人道に対する罪」にどう見ても匹敵しますが、彼らはそのことを一度も認めたことがありません。もしテロを一方的に道徳的非難の対象にするなら、それらについてまず公式見解を出してからにすべきでしょう。単に、一国の治安維持のためにテロから国民や市民を断固として守るというだけなら理解できますが。

 第三に、今回のテロは、9・11テロと同一視できない面があります。9・11テロにおける貿易センタービル攻撃は、その目標がアメリカの繁栄の象徴を打ち砕くという多分に観念的な動機に基づいています。これは明らかに無辜の民衆をも巻き込んだ無差別テロです。これに対して、今回の事件は、イスラムの最高預言者・ムハンマドを「諷刺」し続けてきた特定の週刊誌の執筆者たちを狙ったのであり、それは実行者たちおよびその背後の勢力の直接的な屈辱感情に裏付けられている面があります。無関係な人質4人を殺した行為は、平和を享受している私たちから見れば確かに道徳的に非難されてしかるべきですが、これは警察の目をひきつけるための一種の陽動作戦とも解釈できます。けっして実行者たちを擁護するわけではありませんが、彼らにしてみれば命を捨てることを覚悟の上での決死の作戦なのですから、道徳的な非難を浴びせても何の効果もないでしょう。

 第四に、そもそも「表現の自由」という理念の抽象性にもっぱら依存することは、実質上どんな問題を引き起こすでしょうか。
 まず浮かぶのは、だれもが指摘するように、その線引きが難しいという点です(今回のシャルリー・エブドの表現についてどう判断すべきかは後述します)。
 次に、表現の自由をじゅうぶんに行使するには、いろいろな意味での「力」が必要とされるという点です。才能、意志力、心の余裕、経済力、文化環境、政治的バックボーン、等々。これはすでに誰かが指摘していたことですが、たとえば現在のフランスで、移民二世、三世としてのイスラム系の普通の人が、シャルリー・エブド誌に対抗してキリスト教やヨーロッパ市民主義を「諷刺」しようと思って、同誌に匹敵するだけの「力」を発揮することはまず無理でしょう。強者のみが表現の自由を行使できるのです。社会的弱者は強者の表現という権力行使を我慢するより外に道はありません。表現の自由を普遍的価値として声高に叫ぶことは、そうした現実を隠蔽する作用として機能します。

 第五に、肝心のシャルリー・エブド誌のイラストが、具体的にどんな性格のものだったかを検証せずに、いまここで表現の自由の大切さを唱えることには意味がありません。
 すでに事件後初めて刊行された同誌の表紙は、いくつかのメディアに公表されているので、ご覧になった方も多いでしょう。ムハンマドが「私はシャルリー」と書いた紙を胸元に掲げながら、涙を流している絵で、上に「すべては許される」と書かれています。これだけでもかなりイスラム教徒に対する挑発的なメッセージですが、事件以前のものは、もっとずっと下品で、イスラム教徒を激しく愚弄し、侮辱しているとしか思えません。二つだけ紹介しておきましょう。

①素っ裸のムハンマドが尻をこちらに向けて陰嚢をだらりとたらし、肛門部分に黄色い星があてがわれ、上に「星は生まれぬ」と書かれている。(私はコーランに詳しくないので推測ですが、この言葉はきっと神聖な語句として有名なのでしょう)。

②イスラム教のウラマー(法学者)がコーランを前に掲げているところに、たくさんの弾丸が飛んできてコーランを貫いている。「コーランは弾除けにならない」との文句があり、表題部には「コーランは糞だ」と書かれている。

*なおこれらは「シャルリー・エブド イスラム教 諷刺画 画像」と検索すれば閲覧できます。

 こういうのを風刺というのでしょうか。だれが見てもただの愚弄、侮辱、嘲笑い、差別表現に他なりません。これで怒りを感じないイスラム教徒がいたらお目にかかりたい。よく言われるように、イスラム教徒の間では、ムハンマドの肖像を描くだけでも冒涜とされます。かつてムハンマドを侮蔑したあるアメリカ映画が元で、駐リビア大使をはじめとする数人のアメリカ人が殺された事件がありましたが、私は、この映画のダイジェスト版を見る機会がありました。言葉は半分くらいしかわかりませんでしたが、映像を見ただけでも、これではイスラム教徒が怒って当然だと思いました。これらは許されるべき「表現の自由」などではなく、日本でもいま話題となっている「ヘイト・スピーチ」と何ら変わりません
 じつはここには、移民の増加に対する一種の無意識の「恐怖」が作用しているのだと思います。経済評論家の三橋貴明氏が語っていましたが、アラブ系の住民が多く住むパリのある地区(おそらく18区か19区だと思われます)で、広い範囲にわたって交通を遮断し、大勢のイスラム教徒たちがいっせいに礼拝をしていた映像を見たことがあり、戦慄を感じたとのことでした。こういうことがたびたび起きているとすると、もともとのパリジャンが不安や恐怖を抱いても不思議ではありません。
 つまりこういうことです。
 シャルリー・エブドの制作者や読者であるパリジャンは、そういうメディアを広めたり愛読したりすることのできる文化環境や政治的バックボーンを手にしてはいるが、じつは自分たちのナショナリティが移民たちによって脅かされつつあることをじわじわと察知している。そのために対抗手段としての侮蔑的な表現に手を出す。そうしてそれが暴力によって否定されると、その潜在的な不安や恐怖の解消手段として、極度に単純化された「テロを許すな。表現の自由を守れ!」というスローガンにヒステリックなまでに縋ることになる。「表現の自由」とは、じつは彼らにとってだけの「表現の自由」であり、イスラム系移民にはそんなものは許されていない!……数十万人のデモの実態はおそらくそれです。
 問題は深刻です。なぜなら、「自由、平等、人権尊重」を表面上謳ってきたはずのフランス人の多くが、グローバリズムの進展とともに生じた社会矛盾の現実の前で、じつは差別意識や排外主義を少しも解消できていないことがあらわとなったからです。
 いまやヨーロッパ諸国は移民だらけです。そうして、そういう地域で差別意識や排外主義的感情がなくなるわけがないのです。
 ヨーロッパでは、表現の自由を最大限尊重しているかのように誰もが言います。しかしフロイトではありませんが、何を言ってはいけないか(たとえば、人種差別的、女性差別的言辞、ナチス肯定的言辞、特定宗教を批判する言辞)というタブー感覚が骨身にしみているので、かなりきつい無意識の拘束と抑圧と緊張の下にあり、そのためむしろ表現の自由などさほど許されてはいないのだと思います。だからこそ、シャルリー・エブド的な刺激的ガス抜き表現が噴き出すのでしょう。
 ここには、一種の心理的な戦争状態があり、それは現実の戦争や革命を不気味に予告してもいるのです。それでも自分たちにとってだけ都合の良い「表現の自由」を守りたいと考えるなら、それが何を代償として成り立つのかについて、よくよくの覚悟が必要でしょう。
 ちなみに、フランス共和国建国の理念は、「自由、平等、同胞愛」であって、多くのメディアが間違えているように「自由、平等、博愛」ではありません。fraterniteには、普遍的な人類愛などというニュアンスはまったくないのです。フランス革命はルイ16世をギロチンにかけ、さらに恐怖政治へと突っ走りましたが、この種の「同胞愛」は、暴力革命(=テロリズム)を遂行するための結束が成り立つところでだけ生きるのだということを、私たちもわきまえておいた方がよいでしょう。現代フランス人だけでなく、先進国のパワーエリートは、いまイスラム系移民に代表される貧困階層の「同胞愛」によって脅かされつつあります。フランス議会の議員たちは、90年ぶりに「ラ・マルセイエーズ」を歌ったそうですが、それが彼ら自身の葬送行進曲にならないことを祈ります。