小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源61

2015年01月21日 22時07分17秒 | 哲学
倫理の起源61




 さて私は、この作品について次のように書いた。

 私はこの二作を、エンターテインメントとしての面白さもさることながら、重い倫理的・思想的課題を強く喚起する画期的な作品だと思う。その画期性のうち最も重要なものは、戦後から戦前・戦中の歴史を見る時の視線を大きく変えたことである。この場合、戦後の視線というのは、単に戦前・戦中をひたすら軍国主義が支配した悪の時代と見る左翼的な平和主義イデオロギーを意味するだけではない。その左翼イデオロギーの偏向を批判するために、日本の行った戦争のうちにことさら肯定的な部分を探し当てたり、失敗を認めまいとしたりする一部保守派の傾向をも意味している。言い換えると、この両作品は、戦後における二つの対立する戦争史観の矛盾を止揚・克服しているのだ。

 前者の史観における中心的な思想は、「いのちの大切さ」ということになるだろう。また後者の史観では「いのちを捨ててもお国のために闘うべきだ」ということになる。そうしていまやこの二つの史観が、ほぼ、女性的な倫理観と男性的な倫理観とにそれぞれ対応することも納得してもらえるだろう。さらに言えば、宮部久蔵というキャラクターが、両者を兼ね備えつつ、しかもその根本的な矛盾を、最終的には身を後者のほうへ捧げ、魂を前者のほうへ捧げることによって止揚・克服したのだということも。
 作者・百田氏は、日本にとってあの戦争のどこがまずかったのかという根本的な問題をよくよく考えたうえで、こういうスーパーヒーローを創造している。もちろんこんなスーパーマンがいるわけはないが、宮部の人となり、ふるまいを見ていると、こういうキャラが許容されるような軍であったなら、つまりそういう余裕のある雰囲気が重んじられていたなら、日本のあの戦争(和平・停戦への努力も含めて)はもっとましな結果になっていたに違いないという、戦中日本への批判が強く込められていることを感じる。
 実際、この作の中で百田氏は、ひとりの語り手をして、机上で地図とコンパスだけを用いて作戦を立て、ゴロゴロ死んでいく兵隊たちを将棋盤上の歩兵のようにしか考えていない参謀本部(軍事官僚)のハートのなさを強く批判させている。そういう側面では、この作品は、たしかに「いのちの大切さ」を第一義に立てる戦後的価値観を代弁していると言えよう。
 しかし一方、宮部久蔵は、パラシュート降下する敵兵を容赦なく殺すし、空母と油田を爆撃しなかった真珠湾攻撃作戦の不徹底さを批判してもいる。撃墜されないように過剰なほど用心するが、それは自分だけこすからく生き残ろうと状況から逃避しているのではない。現実には隊長として部下の命をあずかりつつ、いかにして眼下の敵を撃墜して勝利するかという合理的な算段に心血を注いでいるのである。彼は少しも反戦思想の持ち主ではないし、ここぞと思うときには誰よりも的確にその優れた戦闘技術を発揮する。こうした側面では、この作品は、戦争をただ感情的に忌避して空想的平和主義に安住する戦後の空気への痛烈な批判とも読めるのである。
「いのちの大切さ」といった戦後的な価値の抽象性をそのままでよしとすることはできない。この価値は、抽象的なぶんだけ、人間には命をかけて闘わなければならない時がある、というもう一つの価値を忘れさせる。じっさい、この戦後的価値が実際に作動するときには、超大国頼み、金頼み、無策を続けて状況まかせ、憤るべきときに憤らない優柔不断、何にも主張できない弱腰外交、周辺諸国になめられっぱなしといういくつもの情けない事態を招いてきた。それが、私たちがさんざん見せつけられてきた戦後政治史、外交史の現実である。「いのちの大切さ」と言っただけでは、何も言ったことにならない。
 しかし逆に、「命をかけて闘わなければならない時がある」という言い方も、それだけでは抽象的であり不十分である。問題は、どういう状況の下で、どういう具体的な対象に対してなら「命をかけるに値する」と言えるかなのだ。敗北必至であることが、少なくとも潜在的には感知されている状況の中で、いたずらに「命をかける」という価値を強調すれば、結果的に多くの無駄な死を生むことにしかならない。美学や一時の昂揚感情が軍事上最も必要とされる戦略的合理性を駆逐して、多くの前途ある若者を犠牲に供し、あとにはやるせない遺族の思いが残るだけである。これでは、国家的人倫性が果たされたとは言えないのである。
 宮部がよりどころとしているのは、抽象的な「公」でもなければ、抽象的な「いのち」でもない。彼がよりどころとしているのは、結婚して日の浅い妻と、いまだ会うことのかなわない子どもという具体的な存在である。抽象的な「公」も抽象的な「いのち」も、一種のイデオロギーであり、実体の不確かな超越的な観念にほかならない。どちらにも誘惑の力はあり、それに引き寄せられていく心情は理解できる。しかし、抽象的な「公」理念にひたすら奉仕すれば、具体的な「いのち」を犠牲にしなければならず、抽象的な「いのち」理念をただ信奉すれば、公共精神を喪失しただらしない無策や無責任が露呈するだけである。
 こうして、宮部久蔵が体現している思想は、戦後のイデオロギーでもなく戦前・戦中のイデオロギーでもない。それは生活を共有する身近な者たちがよりよい関係を築きながら強く生きるという理念を核心に置き、その理念が実現する限りにおいてのみ、国家への奉仕も承認するという考え方である。そこに私は、戦前を懐旧する保守派思想にも、国家権力をただ悪とする戦後進歩思想にも見られなかった新しい思想を見る。それは男女双方が持つ人倫性の融合態だと呼んでもよい。

 国家とは、共有できる情念を最大の幅のもとに束ね、そうしてその成員たちすべてに秩序と福利と安寧を保証することを理想とする共同性である。この共同性(共同観念)の現在における存在理由は、いくら視野や情報や経済が地球規模に広がったとしても、それぞれの地域が背負ってきた具体的な歴史や文化の重みを超え出ることは不可能だというところにある。国家は、その内部の住民の実存を深く規定しているのである。
 国家はそのメンバーの心情的な信任と期待を基盤として成り立つが、その統治機構づくりと運営とは、生活共同体としての国民一人一人の好ましい関係を守るために、あくまで機能的かつ合理的になされなくてはならない。ことに戦争のような国民の命にかかわる一大事業に取り組まなければならない時には、この機能性・合理性のいかんが一番問われる。
 大量の殺し合いが国家双方にとって良くないことは当たり前なので、戦争は最後の最後の手段であり、まずいかにしてそれを避けるかにこの合理的な努力を最大限注がなくてはならない。外交のみならず、軍事力の必要も経済力の必要も実はここにある。これらの潜在的な力の表現を背景に持たない外交は無力である。両者はパッケージとして初めて意味をもつのだ。
 しかしもしどうしても避けられずに戦争に突入してしまったら、いかにうまく勝つかということ、犠牲者をできるだけ少なくするために、いかに早く決着をつけるかということ、時には狡猾に立ち回っていかにうまく負けるかということに向けて、合理的精神を存分に発揮しなくてはならない。緻密な戦力分析、状況分析によって負けることがほぼ確実となった場合には、戦いは一刻も早くやめること、投了によるしばしの屈辱に耐える勇気を持つこと。現実を見ない精神主義や美意識で「どうにかなる」などと考えて蛮勇をふるうのは最悪である。そういう方向に国民を強制しないことが、統治者や軍事リーダーの責任なのだ。
 この合理的精神の存立を俟って、初めて国家共同体の人倫性はまっとうされる。そうしてその精神が目指す最終地点は、あくまでも幸福なエロス的関係の達成でなくてはならない。与謝野晶子も津雲半四郎も宮部久蔵も、そのことをこそ願っていたのである。だからこの願いが本当に果たされさえすれば、公共性の倫理とエロス的な倫理との二項対立的な矛盾関係は止揚・克服されるだろう。公共性の倫理は、エロス的な倫理の確乎たる存立を目指して、それにふさわしい形で「機能」するのでなければならない。
 では公共性の倫理とエロス的な倫理、言い換えると、義に殉ずる心と、身近な者たちどうしの幸福の実現とが対立しないようなあり方とは何か。この問いは、「義」とか「自分を超えた存在に殉じる」という抽象的な用語に執着している限りはけっして答えが出ない。この問いに答えるために最も有効なのは、端的に言えば、身近な者たちどうしの幸福の実現が損なわれることのないような社会あるいは国家のかたち(秩序)を、いかに工夫して練り上げるかという課題に実践的に取り組むことである。そうしてその取り組みこそが、最高の人倫精神の表れなのである。だがこの課題の具体的な追究はすでに個別学としての倫理学の範疇を越えているだろう。



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