小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源58

2015年01月03日 12時29分37秒 | 政治
倫理の起源58




*以下の記述は、当ブログにすでに掲載済みの「『風立ちぬ』と『永遠の0』について(2)」と重複する部分が多い。

 ここで少し『永遠のゼロ』を離れて、特攻隊なるものが実像としてどうであったかについて、三つの証言を書き留めておく。どれもどちらかといえばネガティブな像の提出になっているが、私がここにそれらを記すのは、ただ単純に大東亜戦争を否定しようと思ってのことではない。私自身も含めて、あの戦争の実態を知らない世代が、特攻隊員たちを、単に「お国のために」進んで命を捧げた美しい精神の持ち主だったと勘違いしないためである。時間が経つほど過去は美化されやすい。だからこそ、そういう傾向を少しでも相対化しておきたいのである。

 梅崎春生の『桜島』は、敗戦の翌年にいち早く発表された戦後文学の傑作として名高い作品である。「死ぬならば美しく死にたい」という知的な青年(通信兵)の純な観念が、敗戦直前わずか一か月間の鹿児島県でのいくつかの体験によって徐々に相対化されてゆき、やがてこの観念をシニカルに否定する考え方をも乗り越えて、静かに死を受け入れようとする境地に落ち着く。そうした一種の弁証法的な心理の流れが、乾いたタッチで自己を見つめる文体を通して緻密に描かれている。
 いまそのことはさておき、この作品の前半、まだ「私」の気持ちが整理できないうちに、たまたま水上特攻隊のグループに出会って一種の違和感を抱く場面が出てくる。そのくだりをここに引いてみよう。

 ――先刻、夕焼けの小径を降りて来る時、静かな鹿児島湾の上空を、古ぼけた練習機が飛んでいた。風に逆らっているせいか、双翼をぶるぶるふるわせながら、極度にのろい速力で、丁度空を這っているように見えた。特攻隊にこの練習機を使用していることを、二三日前私は聞いた。それから目を閉じたいような気持で居りながら、目を外らせなかったのだ。その機に搭乗している若い飛行士のことを想像していた。
 私は眼を開いた。坊津の基地にいた時、水上特攻隊員を見たことがある。基地隊を遠く離れた国民学校の校舎を借りて、彼らは生活していた。私は一度そこを通ったことがある。国民学校の前に茶店風の家があって、その前に縁台を置き、二三人の特攻隊員が腰かけ、酒をのんでいた。二十歳前後の若者である。白い絹のマフラーが、変に野暮ったく見えた。皆、皮膚のざらざらした、そして荒んだ表情をしていた。その中の一人は、何か猥雑な調子で流行歌を甲高い声で歌っていた。何か言っては笑い合うその声に、何とも言えないいやな響きがあった。
(これが特攻隊員か)
 丁度、色気付いた田舎の青年の感じであった。わざと帽子を阿弥陀にかぶったり、白いマフラーを伊達者らしく纏えば纏うほど、泥臭く野暮に見えた。遠くから見ている私の方をむいて、
「何を見ているんだ、此の野郎」
 目を険しくして叫んだ。私を設営隊の新兵とでも思ったのだろう。
 私の胸に湧き上がって来たのは、悲しみとも憤りともつかぬ感情であった。此の気持だけは、どうにも整理がつきかねた。この感じだけは、今なお、いやな後味を引いて私の胸に残っている。欣然と死に赴くということが、必ずしも透明な心情や環境で行われることでないことは想像は出来たが、しかし眼のあたりに見たこの風景は、何か嫌悪すべき体臭に満ちていた。基地隊の方に向って、うなだれて私は帰りながら、美しく生きよう、死ぬ時は悔ない死に方をしよう、その事のみを思いつめていた。――


 このくだりを読んで、一部の人は、このようなことを書く梅崎春生自身に「知的な戦後文学者」特有の反戦平和思想(あるいは左翼思想)を見出して、逆に嫌悪感を抱くかもしれない。しかしことはそう言いくくれるほど簡単ではない。戦後文学といっても、この作品はまだそういう概括ができる以前の戦争直後に書かれている。もともと梅崎という人は、それほど知識人(文化人)的な作家ではないし、彼自身もおそらく見たまま感じたままをルポルタージュのように書いているのだと思われる。
 ところで私は、『桜島』を初めて読んだ若い時から、このシーンがずっと気にかかって仕方がなかった。
 梅崎自身の実体験とそのときの実感を表現したと思えるこのシーンには、政治思想的な整理では片づけることのできない生々しいリアリティがある。英雄視されてマフラー付きの「雄々しい」イメージの制服を着せられてはいるものの、じつはその内側から、若い身空で「どうせ間もなく死ぬ」ことを決定づけられたことによるある種のすさんだ自暴自棄の気分がどうしようもなく露出する。「伊達者らしく纏えば纏うほど、泥臭く野暮」に見え、やくざっぽく食ってかかってくる隊員の態度に、それを受ける側は「何か嫌悪すべき体臭」を感じてしまう。そういう心理表出過程が特攻隊員たちの一部に確実に存在しただろうことを私は疑わない。
 特攻隊員を志願兵と考えて、その散華していく姿を美談として語る言説は数多くあるが、こういうシーンを作品に定着させた例はあまり見当たらない。その意味で、死の直前の特攻隊員たちの一コマをスナップ・ショットのように切り取って見せた文学者・梅崎のカメラ・アイはたいへん貴重なものである。美しく悲しい「遺書」だけが特攻隊員たちの「遺品」ではないのである。「国に殉ずる」という事態の中には、こういう側面もあったのだという「証言」の重みをきちんと受け止めることは大切なことだと思う。

 特攻隊員が志願兵だったということを信じている若い人たちがいるかもしれない。これがとても志願兵などと言える代物ではなかったという事実は、『永遠のゼロ』原作にも詳しく書かれている。一応志願という形を取りつつ、状況の切迫と上層部の圧力と同志からの脱落を潔しとしない仲間意識とが、若者をして「志願」にマルをつけさせざるを得ないような力としてはたらいたのである。それは強制か自由意志かという二元論では片づかない問題である。これに関連して二つ目に、私自身の体験を書き留めておこうと思う。
 1999年に、ユング派の心理学者・林道義氏(ベスト・セラー『父性の復権』の著者)との対談集を出した(『間違えるな日本人!』(徳間書店)。このなかに、漫画家・小林よしのり氏の『戦争論』(1998年・幻冬舎)をかなり長く批評した部分がある。当然特攻隊の問題にも言及したので、その箇所における林氏の発言を一部引用しておこう。

 もう一つは、(小林氏の『戦争論』の中に――引用者注)特攻隊を美化する表現がありますが、特攻隊の人たちは、国のためを思って自発的に参加したわけではない。志願したというけれども、自発的な志願ではありません。ここの部隊では何人の特攻隊員を出せというようにノルマとして上から来ている。そして説得があって、最終的には志願という形になりますが、本当の純粋な志願などではない。
 私の親戚に特攻隊員が何人かいましたが、一九四五年の正月に妻のいとこが特攻に出撃する前に、暗黙のうちに家族に別れを告げに帰ってきた。そのときの話を聞いてみると、それはかわいそうです。自分は本当は行きたくない。けれども、国のために行かなければいけないという感じで、無口で暗い沈んだ感じだったそうです。かっこいい白いマフラーを巻いてさっそうとした姿ではあったが、何か淋しげだったそうです。
 妻の兄が軍国少年で、特攻隊に志願したいというのに対して、そんなことはやめろと言う。「親を泣かせてはいけない」「戦争に行ってはいけない」と言ったそうです。そして、妻に凧を買ってくれて、二人で丘の上へ行って凧を揚げていると、飛行機が飛んでいくのが見えた。「お兄さんもああいうふうにして飛んで行くのね」というと、何にも言わず、ただ空を見ていたそうです。そしてしばらくして戦死してしまった。本当に優秀で男らしくて立派な若者だったそうです。もっと早く戦争を終わらせていれば死ななくてすんだという家族の思いは、『戦争論』の中には出てきませんね。
 ですから美学などというものではありません。志願もしていないし、公のために死のうとか、そんなことは全然ない。なかには本当に信じ込んでいた人もないとは言いませんが、多くの人は半ば強制されていた。公共のために死ぬんだなんて、それ自体が美しいかどうかは別として、実態はそういうものではないんですね。


  林氏は、もちろん左翼ではなく、はっきりと保守派を自称している論客である。その人が特攻隊を美化するような小林氏の『戦争論』に対して、当時の体験的事実に即しつつ、小林氏は戦争を知らないのだと、静かな憤りをあらわに示しているのである。
 このくだりは、こうして対談後に整理された冷静な文章でさえ、読んでいて涙を禁じえないが、この部分を取り上げたのは、ここでの林氏の話そのものが私を感動させたからというだけではないのである。
 私はまさに対談者として林氏の眼前にいた。このくだりを語るとき、彼は、思わずこみあげてくる嗚咽をこらえるのに懸命だった。「私は、親類で特攻隊で死んだ人を知っていますが……志願なんて……そんな、そんなものじゃないんです」と喉を詰まらせながら。そのつらそうな何とも言えない表情を、私はけっして忘れることができない。