日本語を哲学する4
言葉の本源は音声であるという命題の第三の意味は、次のようなことである。
空間と時間をへだてて言葉を伝えあうために、文字、印刷術、コンピュータなど、どんな高度な技術やスキルや視覚的な記号が発達しようと、音声によって「話す―聞く」というプロセスを前提することなしには、いかなる言語も言語として実現しない(ただし完全な手話によるコミュニケーションと先天的な聾者の書記言語理解を除く。これらについては後述)。
いまあなたがスマートフォンの画面を見て、保留してあった彼女からのメッセージを呼び出し、それを無言のうちに読むとする。彼女のメッセージは文字や絵文字であるから、あなたがそれらの記号を理解するプロセスには、一見音声などを必要としていないように思える。しかし、これもそうではない。
それらを読んで意味理解しているプロセスにおいてあなたは、じつは、自分のなかの〈他者〉の音声を、観念的に「聞いて」いるのである。この、自分のなかの〈他者〉は、自我の成立にとって不可欠な構造としてすでに組み込まれている。それは、話し手が目の前にいなくても、書かれた文字を観念的な音声として聞くことを可能にする、いわば関係存在としての人間の、基本的な構えの一つである。ゆえに、黙読とは人の話を観念的に聞くことであり、観念的に音読することであり、人の発話行為を自分に向かって再演することなのである。
以上のことは「読む」という経験によく照らして考えてみれば、たちどころに納得されよう。
絵文字、たとえば笑い顔やハートマークを見て、その意味を理解するのは、音声ではないのではないかと言われるかもしれない。しかし、笑い顔やハートマークは一般の文字による概念をいっそう凝縮させた、より高度な記号であるにすぎない。あなたはそれらを見て、一瞬のうちに「笑っている」とか「心を込めて」などの言語概念として理解し、そこから、彼女の言葉の「調子、雰囲気、こころばえ」といったものを受け取るのである。
なおまた、文字を読む行為において、人は「自分のなかの〈他者〉の音声を、観念的に『聞いて』いるのである」と述べたが、これによってあなたは、「そう、私は彼女の声を聞いているのだ。だって彼女の顔がありありと浮かんでくるし、とても会いたくなるから」という実感にもとづく納得の仕方をするかもしれない。
しかし、厳密に言えば、この「自分のなかの〈他者〉の音声」というのは、残念ながら、「彼女」という特定の〈他者〉の音声を意味しているわけではない。言語行為一般としての「読む」行為においては、そこで聞かれる〈他者〉とは、とりあえず、あくまで無人称の他者一般なのである。言い換えると言語行為の完成にとって不可欠の一過程をなす概念理解そのもの、つまり言語表現の「内部」自体には、特定の話者にかかわる像、思い出、連想、感情などを直接的に喚起する力はない。
ではこの力はどこから生まれてくるかと言えば、それは、聞かれた言語そのものと、聞き手がこれまでの経験を通じて獲得してきた生活感覚(当の言葉の「外部」)との「関係」から生まれてくるのである。彼女からのメールにある文字や記号から彼女の像や「会いたい」という欲求が喚起されるのは、あなたが「彼女」とすでに交流しており、「彼女」という人間の身体像やキャラクターをすでに知っているからこそである。
こうした区別・分節の仕方は、細部にこだわった教条主義的な見解と思われるかもしれない。しかし、この区別・分節をしておかないと、外的な現象としてはまったく同じ文字表現であっても(たとえば、「明日、7時にいつものところで会いましょう」)、受け手、時、状況などによってある具体的で大きな意味や価値を持つ場合(彼にとっての彼女からの発信の場合)と、ほとんど何の意味も価値も持たない場合(CMか何かで同じ文句を見た場合)との違いを説明できなくなる。なぜなら、形式としての文字表現自体に、像や感情などを喚起する力が備わっているなら、形式からどんな像や感情が引き出せるかは、一義的に決定づけられるはずだからである。だが事実はこれとまったく違っていて、像や感情の喚起は言葉の受けてによってまさに多様である。
もっと言えば、まったく同じ文字表現であって(たとえば、「明日、7時にいつものところで会いましょう」)、その受け手が同じであっても、受け手と相手との関係がどうであるかによって、そこから喚起される像や感情などは著しく違ってくる。この同じ文字表現が、「彼女」からのものであるか、「友人」からのものであるかによって、受け手である彼の中に喚起される思いは、まったく別のものになり得るだろう。これは何を示しているかと言うと、形式的な言語表現そのもののなかには、それと一義的に結びつくような「像」や「感情」の喚起力が内在しているわけではないということである。逆に言えば、受け手の主体的な受け取り方いかんによって、言葉はいくらでも変容し、多様になり得るのであって、その受け取り方を決定づける条件には、言語の形式性をはるかに超えた、受け手主体の経験の歴史が関与せざるを得ないのである。
また、純論理的・抽象的な言語命題、たとえば「1足す1は2である」といった命題そのもののなかに、もともと何らか具体的な像を喚起する力が直接宿っていると考える人はいないであろう。これを聴いてジャガイモの数を数える光景を思い出す人は、みずからの生活経験をそこに結びつけているのである。別の人は、おはじきを思い出すかもしれないし、自分の兄弟姉妹を思い出すかもしれない。
数学者や哲学者は、こういう命題が具体的な経験とは別に、あるいは経験に先立つもの(ア・プリオリ)として存在すると思いたがるが、順序はあくまで逆なのである。具体的な生活経験上での「分けること」や「集めること」などがまずあり、それらを言語という抽象性の網に掬い取ることによって初めて「1足す1は2である」という「真理命題」を獲得するのである。「真理命題」ははじめからあったのではなく、諸経験の共通性に気づいた人間が(人間のみが「共通性」という把握をなしうる)、その気づきを音声として表出する行為を通じて、「真理」が発生するのである。
「真理」の対義語は「誤謬」だが、この区別は、言葉のなかにしかあり得ない。言葉をもつ人間のみがこの区別を好んでしたがるので、言葉をもたない動物にとっては、こんな区別は意味がない。
さて「言葉の本源は音声である」という命題が含む意味の第四は、文字を読んでいるとき、読めない漢字などがあるといちじるしく理解が妨げられるという現象が、何を説明しているかにかかわっている。
誰もが経験しているだろうが、読めない漢字、発音しにくいスペルなどに出会うと、私たちはたちまち壁に突き当たって、わからないことにイライラする。このことは、私たちの内面に語りかけてくる「書き手」の声(とりあえず抽象的・観念的な声)が聞えなくなったことと同じであり、時間に沿った一連の言語行為が頓挫することを意味している。
読みがわかっても、その言葉を知らなければ意味がわからないのはたしかである。しかし、音声としてその言葉に出会い、意味を理解していて、自分でもその言葉を使った経験があれば、読み下しが可能になることで即座に正確な理解が得られるだろう。
たとえば「読めない漢字などがあるといちじるしく理解が妨げられる」という文で、「妨げられる」という文字を「ふせげられる」と間違って読んだりすれば、まったく文意が通らなくなる。このことは、私たちがまさに日常の音声交流によって言語理解を実現させてきた歴史を物語るものである。人類史という面でみれば原始時代からそうであったし、個体発生史という面でみれば、幼少のころからそうであった。
もし音声交流による意思疎通の歴史がなかったら、そもそもある共同体での言語の体系が成立しえない。ある共同体での言語の体系が成立していなければ、先天的な聾者も「手話」という、より高次の言語体系の助けを借りることが不可能であったろう。
なおこの手話および聾者の書記言語理解の問題は、こう断定しただけでは誤解されやすく、また先述した思想と言語との関係というたいへん重要な問題に触れてくるので、後にもう一度詳しく言及したいと思う(4節)。
最後に、「言葉の本源は音声である」という命題は、次のことを意味している。
現実の音声交流において、発話者は前言語的な趣、意、情緒、世界把握の仕方といったものを、音声というなまなましい肉体的な表出(高低、強弱、長短、声調、抑揚、用語の選択、統辞の仕方などを含む)のうちにすべて込め、受け取るほうはそれらのすべてをなるべく発話者の表出どおりに受け取って状況を共有しようとする。この生きた「共有ゲーム」の現場こそが、言葉の本来のいのちが息づく場所なのである。
言葉の本源は音声であるという命題の第三の意味は、次のようなことである。
空間と時間をへだてて言葉を伝えあうために、文字、印刷術、コンピュータなど、どんな高度な技術やスキルや視覚的な記号が発達しようと、音声によって「話す―聞く」というプロセスを前提することなしには、いかなる言語も言語として実現しない(ただし完全な手話によるコミュニケーションと先天的な聾者の書記言語理解を除く。これらについては後述)。
いまあなたがスマートフォンの画面を見て、保留してあった彼女からのメッセージを呼び出し、それを無言のうちに読むとする。彼女のメッセージは文字や絵文字であるから、あなたがそれらの記号を理解するプロセスには、一見音声などを必要としていないように思える。しかし、これもそうではない。
それらを読んで意味理解しているプロセスにおいてあなたは、じつは、自分のなかの〈他者〉の音声を、観念的に「聞いて」いるのである。この、自分のなかの〈他者〉は、自我の成立にとって不可欠な構造としてすでに組み込まれている。それは、話し手が目の前にいなくても、書かれた文字を観念的な音声として聞くことを可能にする、いわば関係存在としての人間の、基本的な構えの一つである。ゆえに、黙読とは人の話を観念的に聞くことであり、観念的に音読することであり、人の発話行為を自分に向かって再演することなのである。
以上のことは「読む」という経験によく照らして考えてみれば、たちどころに納得されよう。
絵文字、たとえば笑い顔やハートマークを見て、その意味を理解するのは、音声ではないのではないかと言われるかもしれない。しかし、笑い顔やハートマークは一般の文字による概念をいっそう凝縮させた、より高度な記号であるにすぎない。あなたはそれらを見て、一瞬のうちに「笑っている」とか「心を込めて」などの言語概念として理解し、そこから、彼女の言葉の「調子、雰囲気、こころばえ」といったものを受け取るのである。
なおまた、文字を読む行為において、人は「自分のなかの〈他者〉の音声を、観念的に『聞いて』いるのである」と述べたが、これによってあなたは、「そう、私は彼女の声を聞いているのだ。だって彼女の顔がありありと浮かんでくるし、とても会いたくなるから」という実感にもとづく納得の仕方をするかもしれない。
しかし、厳密に言えば、この「自分のなかの〈他者〉の音声」というのは、残念ながら、「彼女」という特定の〈他者〉の音声を意味しているわけではない。言語行為一般としての「読む」行為においては、そこで聞かれる〈他者〉とは、とりあえず、あくまで無人称の他者一般なのである。言い換えると言語行為の完成にとって不可欠の一過程をなす概念理解そのもの、つまり言語表現の「内部」自体には、特定の話者にかかわる像、思い出、連想、感情などを直接的に喚起する力はない。
ではこの力はどこから生まれてくるかと言えば、それは、聞かれた言語そのものと、聞き手がこれまでの経験を通じて獲得してきた生活感覚(当の言葉の「外部」)との「関係」から生まれてくるのである。彼女からのメールにある文字や記号から彼女の像や「会いたい」という欲求が喚起されるのは、あなたが「彼女」とすでに交流しており、「彼女」という人間の身体像やキャラクターをすでに知っているからこそである。
こうした区別・分節の仕方は、細部にこだわった教条主義的な見解と思われるかもしれない。しかし、この区別・分節をしておかないと、外的な現象としてはまったく同じ文字表現であっても(たとえば、「明日、7時にいつものところで会いましょう」)、受け手、時、状況などによってある具体的で大きな意味や価値を持つ場合(彼にとっての彼女からの発信の場合)と、ほとんど何の意味も価値も持たない場合(CMか何かで同じ文句を見た場合)との違いを説明できなくなる。なぜなら、形式としての文字表現自体に、像や感情などを喚起する力が備わっているなら、形式からどんな像や感情が引き出せるかは、一義的に決定づけられるはずだからである。だが事実はこれとまったく違っていて、像や感情の喚起は言葉の受けてによってまさに多様である。
もっと言えば、まったく同じ文字表現であって(たとえば、「明日、7時にいつものところで会いましょう」)、その受け手が同じであっても、受け手と相手との関係がどうであるかによって、そこから喚起される像や感情などは著しく違ってくる。この同じ文字表現が、「彼女」からのものであるか、「友人」からのものであるかによって、受け手である彼の中に喚起される思いは、まったく別のものになり得るだろう。これは何を示しているかと言うと、形式的な言語表現そのもののなかには、それと一義的に結びつくような「像」や「感情」の喚起力が内在しているわけではないということである。逆に言えば、受け手の主体的な受け取り方いかんによって、言葉はいくらでも変容し、多様になり得るのであって、その受け取り方を決定づける条件には、言語の形式性をはるかに超えた、受け手主体の経験の歴史が関与せざるを得ないのである。
また、純論理的・抽象的な言語命題、たとえば「1足す1は2である」といった命題そのもののなかに、もともと何らか具体的な像を喚起する力が直接宿っていると考える人はいないであろう。これを聴いてジャガイモの数を数える光景を思い出す人は、みずからの生活経験をそこに結びつけているのである。別の人は、おはじきを思い出すかもしれないし、自分の兄弟姉妹を思い出すかもしれない。
数学者や哲学者は、こういう命題が具体的な経験とは別に、あるいは経験に先立つもの(ア・プリオリ)として存在すると思いたがるが、順序はあくまで逆なのである。具体的な生活経験上での「分けること」や「集めること」などがまずあり、それらを言語という抽象性の網に掬い取ることによって初めて「1足す1は2である」という「真理命題」を獲得するのである。「真理命題」ははじめからあったのではなく、諸経験の共通性に気づいた人間が(人間のみが「共通性」という把握をなしうる)、その気づきを音声として表出する行為を通じて、「真理」が発生するのである。
「真理」の対義語は「誤謬」だが、この区別は、言葉のなかにしかあり得ない。言葉をもつ人間のみがこの区別を好んでしたがるので、言葉をもたない動物にとっては、こんな区別は意味がない。
さて「言葉の本源は音声である」という命題が含む意味の第四は、文字を読んでいるとき、読めない漢字などがあるといちじるしく理解が妨げられるという現象が、何を説明しているかにかかわっている。
誰もが経験しているだろうが、読めない漢字、発音しにくいスペルなどに出会うと、私たちはたちまち壁に突き当たって、わからないことにイライラする。このことは、私たちの内面に語りかけてくる「書き手」の声(とりあえず抽象的・観念的な声)が聞えなくなったことと同じであり、時間に沿った一連の言語行為が頓挫することを意味している。
読みがわかっても、その言葉を知らなければ意味がわからないのはたしかである。しかし、音声としてその言葉に出会い、意味を理解していて、自分でもその言葉を使った経験があれば、読み下しが可能になることで即座に正確な理解が得られるだろう。
たとえば「読めない漢字などがあるといちじるしく理解が妨げられる」という文で、「妨げられる」という文字を「ふせげられる」と間違って読んだりすれば、まったく文意が通らなくなる。このことは、私たちがまさに日常の音声交流によって言語理解を実現させてきた歴史を物語るものである。人類史という面でみれば原始時代からそうであったし、個体発生史という面でみれば、幼少のころからそうであった。
もし音声交流による意思疎通の歴史がなかったら、そもそもある共同体での言語の体系が成立しえない。ある共同体での言語の体系が成立していなければ、先天的な聾者も「手話」という、より高次の言語体系の助けを借りることが不可能であったろう。
なおこの手話および聾者の書記言語理解の問題は、こう断定しただけでは誤解されやすく、また先述した思想と言語との関係というたいへん重要な問題に触れてくるので、後にもう一度詳しく言及したいと思う(4節)。
最後に、「言葉の本源は音声である」という命題は、次のことを意味している。
現実の音声交流において、発話者は前言語的な趣、意、情緒、世界把握の仕方といったものを、音声というなまなましい肉体的な表出(高低、強弱、長短、声調、抑揚、用語の選択、統辞の仕方などを含む)のうちにすべて込め、受け取るほうはそれらのすべてをなるべく発話者の表出どおりに受け取って状況を共有しようとする。この生きた「共有ゲーム」の現場こそが、言葉の本来のいのちが息づく場所なのである。
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