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小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

サイコパスは生まれつきか

2017年05月19日 13時38分32秒 | 社会評論
      




*以下に掲げるのは、『Voice』2017年5月号に寄稿した記事にほんの少し訂正を施して転載したものです。


◆独り歩きして濫用される言葉

『言ってはいけない』(橘玲著・新潮新書)や『サイコパス』(中野信子著・文春新書)がよく売れているそうです。背景には、相模原障害者施設殺傷事件や小金井女子大生傷害事件の加害者がサイコパスではないかとの世間の判断があると思われます。森友学園問題の渦中の人もそういう悪口を叩かれました。一度ある言葉が流行ると、独り歩きして濫用されます。
「サイコパス」とは精神医学用語です。もともとは「精神病質」と訳されていましたが、その適用対象が時代とともに変遷し、現在では「反社会性人格障害」と訳されています。
 犯罪心理学者のロバート・D・ヘア氏はサイコパスを以下のように特徴づけています。

 ①良心が異常に欠如している 
 ②他者に冷淡で共感しない
 ③慢性的に平然と嘘をつく
 ④行動に対する責任が全く取れない
 ⑤罪悪感が皆無 
 ⑥自尊心が過大で自己中心的 
 ⑦口が達者で表面は魅力的

 こういう傾向をもった人は昔から一定割合でいましたし、また他の変人、異常性格者、精神病者と同じように程度問題で、グラデーションをなしています。サイコパスのすべてが犯罪者ではないし、逆に犯罪者のすべてがサイコパスであるわけでもありません。

◆進化心理学は疑似科学

 ところで、右に挙げた二著に共通しているのは、両者とも、多くの外国の研究を紹介しながら、このサイコパスが遺伝性によるものではないかという考えを提出している点です。つまり成育環境の影響によるよりも、生まれつき普通の人とは違った種族なのだという印象を読者に与える効果を醸し出しているのですね。
 もっとも、中野氏の著書のほうは、脳科学の専門家らしく、かなり慎重な記述を取っています。これに対して橘氏の著書のほうは、かなりその面を強調していて、その点、ある意味で刺激的であるとも言えます。
 ここでは、両著の批評を試みようというのではありません。
 ちなみに一言だけ感想を申し上げておくと、両著とも英米系で発達した進化心理学なる学問にかなり信頼を置いているようですが、私自身は、この学問の方法原理をあまり信用していません。それには二つの理由があります。
 一つは、自然界に見られる「種の形態的変異」の多様性を進化によって説明したダーウィンのオリジナルを、そのまま人類社会における「個体(個人)の心」の変異に適用することに無理を感じるからです。「人類社会」という、それ自体自然とかかわりつつ変異を重ねていく一つの「種」を、自然環境と同一視しているのです。
 もう一つは、進化心理学は、自分(この場合も「種」全体ではなく特定個体群です)の子孫の維持繁栄のための「戦略」という言葉を好んで用います。しかし戦略というからには、初めからある目的を意識して特定の手段を用いる「主体」を想定しなくてはなりません(心理学なのですから)。ところが進化心理学は、その主体があたかも遺伝子それ自体であるかのようなあいまいな擬人法を用います。それは「神のご意志」をDNAに置き換えただけのことです。DNA決定論と人間の自由意志との間の矛盾という哲学的難問を飛び越したまま、生物学的進化と人間心理とを強引につなげているのです。
 だから私はこの学問は、疑似科学だと思っています。膨大な資料を収集して得られた統計的事実は現象として尊重しますが、説明原理には納得できないのです。
 閑話休題。

◆ラベリングに潜む倫理性からの免除

 この論考で考えてみたいのは、「サイコパス」のようなラベリングによって、私たちを分節すること、いわゆる普通人と生まれつきの異常人とを区別することが、私たちの社会的関心にとって何を意味するのかという点です。
 これは言い換えれば、倫理的なテーマです。
 ここで倫理とは、やや難しい言い方になりますが、ある行為や判断に関して、人生時間の長さや人間関係の広がりを視野に入れながら、その意味を考える精神のことです。この場合で言えば、「サイコパスは遺伝的に決定されているという説がある。それはこれこれの理由で当たっている(いない)」と表明しただけでは、物事を倫理的に見たことになりません。そのような捉え方を提出することの社会的な意味を考えることが重要なのです。サイコパスは遺伝現象だという判断が、どういう既成の理解や「正しさ」の観念を背景として投げ出され、それがどういう社会心理的効果を生むのか、それを見極めること――それが倫理的な営みというものです。
 たとえば「病気」という概念があります。
 私たちは普通、この概念を、個体の心身の健全さが何らかの生物的・心理的原因によって内部で損なわれることと理解して疑いを持ちません。しかしそれだけでは不十分なのです。
 病気とは、そうした心身の損害によって日常生活上の倫理的つながりから「免除」されることです。病気とはもともと人間関係に関わる社会的な概念なのです。ある個体の内部の変容、腹痛がするとか迫害妄想に悩まされるとか、それだけを取り出して「病気」と名付けるのではありません。
 病気という概念は、周囲の人々がその人の変容に対してどういう態度(モード)で振る舞うかという関わり方までを含んでいます。つまりその人から、義務や責任や、普通に人と共に生きることまでも含めた倫理性を免除してやるという関わり方です。医師の診断書がないと会社が病気と認めてくれないなどということがよくありますね。周りに疎まれる振る舞いをやめない人のことを「あれは病気だから仕方がない」などと言ったりします。
 倫理性からの免除は同時に日常的な関係からの「追放」でもあります。ことにメンタルな面に関して「あいつは病気だ」という周囲の判断は、「あいつとはつきあわないようにしよう」とか「あいつには仕事をさせられない」という決断に容易につながります。
 要するに自分たちとその人との間に明確な一線を引くことで、仲間はずれにするわけですね。「病気」にかぎらず、一般に他者に対するすべてのカテゴライズ、ラベリングには、この「免除」と「追放」との両義性が絡んでいます。

◆過剰なPCに挑んだトランプ大統領

 ポリティカル・コレクトネス(PC)について考えてみましょう。
 PCとは、人権尊重や平等主義、反差別主義の立場から、こうしたカテゴライズやラベリングを印象づける表現を禁止することです。PCは、カテゴライズやラベリングを嫌います。これらが、共同性からの「追放」の側面を多かれ少なかれもつからです。
 しかし過剰なPCは、硬直したイデオロギーとなって、人々を息苦しくさせます。冒頭に掲げた二著、特に『言ってはいけない』は、過剰なPCに対する挑戦の意図を込めています。
 米国は、民主党政権下で過剰なPCの傾向が顕著でした。多民族国家の秩序維持という難しい課題を前にして、実態としては相互異族視、排外主義、差別などが逓減していないにもかかわらず(だからこそ?)、建前の上でヒステリックなほどにPCを看板として立てています。「メリー・クリスマス」はキリスト教のお祭りの言葉で異教徒の差別につながるから言ってはいけないとか、「天にましますわれらの父よ」は父権主義のあらわれで女性差別だからダメだとか。
 日本に比べて欧米では、PC問題はかなり深刻なようです。自由、平等、人権などの理念を強固に打ち出してきた歴史を抱えているため、それらの建前と実態との乖離がますます露出してきたからです。欧米は移民・難民問題を抱えており、この問題が生み出す異民族、異教徒間の緊張関係が深まれば深まるほど、建前の欺瞞性が明らかになってきました。EUの見せかけの寛容さの下で、シャルリー・エブド事件、難民たちによる数々の暴動、ホーム・グロウンによるテロ、本国人たちによる逆襲、難民受け入れ停止国の出現、移民排斥・移民制限を訴える政党の勢力伸長など、もはや収拾がつかないありさまです。
 トランプ大統領が登場したことによって、PCの硬直性に風穴を開けようという雰囲気が新たに生まれました。空疎な理想主義を追わずに、現実をよく見て、本音で大いに語ろうではないかという雰囲気ですね。
 しかし彼のやり方、特にアラブ七か国(のち六か国)からの移民・難民制限政策がやや急激であったため、それに対する感情的反動もものすごく、連邦地裁やいくつかの州の地裁で大統領令差し止めの仮処分がなされたほか、理念を前面に押し出す民主党陣営の反トランプ勢力も強く、トランプ氏は劣勢に立たされています。
 けれども難民受け入れ制限についてのトランプ氏の大統領令の中身をよく見ると、テロを防ぐという現実的な観点からは当然と言ってもよいもので、格別差別主義とか排外主義とか呼べるものではありません。ちなみにこの点については、拙ブログhttp://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/94b4c5947b93f47089cb026a2547125cをご参照ください。

◆刑法第39条は半ば形骸化している

 橘・中野両氏の本も、それほど強くタブーを破っているといった印象はありません。「サイコパスは遺伝が原因である可能性が濃厚だ。サイコパスが犯罪者の一定割合を占めることは明らかだ」という判断を、精しい統計資料を紹介しながら述べているだけです。現実をよく見て、あるべき社会政策を考えていこうと提言するにとどまっています。
 サイコパスという概念も、その言葉の発祥からして病気との関連性を失っているわけではありません。したがって、それとおぼしき人が凶悪犯罪の容疑者となった時には精神鑑定の対象となります。
 心神喪失や心神耗弱による減刑(刑法第39条)の要求は弁護側からよく出されますが、最近は、たとえ「サイコパス」などの鑑定がなされた場合でも、責任能力ありと判断される場合が多いようです。39条は半ば形骸化している感があります。
 これは、社会倫理の重点が、被告の人権尊重の観点から、社会秩序防衛の観点に少しずつ移ってきたということなのでしょう。被害者遺族の心情や犯罪が引き起こす一般市民の不安感情を考えれば、ある意味当然と言えます。日本の治安状態は、いまのところけっして悪化してはいないのですが、情報社会化の進展によって、国際テロの影響などもあり、国民の不安が増大しているのだと思います。
「サイコパスは、生まれつき決まっている蓋然性が高い」、さらに一歩深めて、「ある種の凶悪犯罪者はサイコパスであるから矯正困難だ」というような判断が力を得てくるのも、不安の増大の流れの中にあるでしょう。社会学的に見れば、一人世帯の急激な増加なども関係していると考えられます。
 しかしこうした判断は、何も今に始まったことではありません。19世紀後半から20世紀初頭に活躍した犯罪人類学の元祖と言われるチェーザレ・ロンブローゾは、「生来的犯罪人説」を唱えて一世を風靡しました。この時期が、第一次大戦前夜のヨーロッパで、社会不安がたいへん高まった時期であるのも、何やら暗示的です。

◆ラベリングは集団心理を落ち着かせる

 あるそれらしき一群に名前を付けてカテゴライズし、それを「自分たち普通人」と区別(差別)しようという衝動が高まることの背景には、世界秩序の大きな流動化という要因が作用しているでしょう。
 それは個人に対して帰属意識(アイデンティティ)の不安定化を呼び起こします。名前のついていない一群を前にすると、私たちはとても不安になります。ラベリングは、私たちの集団心理を落ち着かせるために行なわれるのです。
 それを巧みに利用したのがナチスです。古くからのユダヤ人差別意識を下地に、優生学的な判断を結びつけたナチスのような動きが吹き荒れたのも、世界恐慌後の混乱期を背景としていました。それで、優生学といえばいまわしいナチスを思い浮かべるのが、自由主義社会の住人の条件反射のようになっています。
 しかし実は私たちは、優生学的な判断に近いことを薄められた形で日々行なっているのです。私たちは、いのちは平等に尊いとはけっして考えていません。
 たとえば大勢の人が危難に遭った時、誰を優先的に救うべきかという判断において、老人よりも子どもを、縁の遠い人よりも身近な親しい人を、大したとりえのない人よりも重要人物を先に生かそうと考えるでしょう。英雄にあこがれるのも、能力の劣った人を軽視するのも、「気に食わない奴」をよってたかって排斥するのも、出生前診断で障害児の出産を避けるのも同じ感覚です。
 優生学的な考え方は、私たちが無意識に取っている、そういうごく当たり前な序列化の感覚を、強大な権力が民族や人種というわかりやすい集団的指標をよりどころに、世界の不安定に乗じて巧みに組織化したところに成り立ちます。優生学的発想は私たちの中にもともとあり、逃れることはできないということを深く自覚する必要があります。
 だから「サイコパスは遺伝的に決まっており、ある種の犯罪者はこれに属する」という捉え方を一概に斥けるわけにはいきません。
 こうした判断が科学的真実として正しいか間違っているかが問題ではないのです。大事なのは、そういう見方をしなくてはならない局面がある、ということなのです。たとえば小学生の首を切り落として校門の前に置いた「少年A」や、同級生を絞め殺して遺体の頭や手首を切断した佐世保の女子高校生などを「理解」しようとする時には、こういう判断に立たざるを得ないでしょう。

◆決定論に頼ろうとする態度は不安の表れ

 またある異常が先天的なものであるとか、これは「病気」であるとかラベリングされたときに、その当人がかえって安心して落ち着くという不思議な面を人間はもっています。それは、自分の努力とか責任の問題ではないという告知によって、アイデンティティ不安から逃れられるからです。諦めれば腰が据わって生きる方向が見えてくるのですね。
 だから、ある種の決めつけは、局面次第で仕方がないこともあれば、よい効果を生むこともあります。要は、決定論に陥らず、人間という生物の可塑性を担保しておくことが大切なのです。
 しかし可塑性を担保しておくといっても、一部の人が好んで取りたがるような、人間の生まれつきの差異を極小に見積もろうとする態度にも全面的に賛成するわけにはいきません。この種の態度を取る人たちは、遺伝的決定論に対抗して環境決定論を持ち出します。この子の失調(非行、学力不振、暴力的傾向その他)は幼い時にこれこれの育てられ方をしたからだ、といったように。
 遺伝決定論も環境決定論も、科学によって決着のつく議論ではなく、初めに結論ありきの一種のイデオロギーなのです。
 遺伝か環境かというのは、決着のつかない永遠の問いですが、そもそもこの二者択一的な問いの立て方がおかしい。それはちょうど、グラスに入っている水の形を決めているのは、水の粒子の集まりか、それともグラスかと問うのに似ています。
 遺伝的形質は特定の環境を通してのみ発現します。ですから両方だと答える以外ありません。もともと質の違った二つの概念を目の前に並べてどちらかを選べという論理に無理があるのです。
 人間の性格や能力や行動の傾向について、遺伝的要因が優勢か環境的要因が優勢かをいうことはできるでしょう。けれども決定論に頼ろうとする態度は、それ自体が、その人の不安をあらわしています。人間はいずれ不安から逃れるすべはないので、大事なことは、決定論に陥らないように両極端の均衡点に立つ不安に耐え続けることです。それがよい倫理的態度なのです。





プレミアム・フライデー狂想曲 働かなくてほんとにいいの?

2017年05月14日 19時50分57秒 | 社会評論
      





*以下に掲げるのは、『正論』2017年5月号に寄稿した記事にほんの少し訂正を施して転載したものです。


◆「早く帰った」は3・7%


 去る2月24日、私はある用事があって都心に赴きました。終わったのが四時半くらい。ラッシュアワーにはまだ早いのに、郊外に向かう帰りの電車が勤め人風の人でけっこう混んでいました。みなさん、何の日だったか憶えていますか。
 そう、初めてのプレミアム・フライデー(プレ金)だったんですね。なるほどと思ったものの、ぎゅうぎゅう詰めというほどではない。まあ、こんなものだろうという程度です。
「働き方改革」と消費の伸び悩み改善の一石二鳥という触れ込みのこのアイデア、いったい誰が言い出したのか、セコイというか、白けるというか、見当外れというか、まあ政府の考えることは、何ともバカバカしいとしか形容のしようがありません。
 後日の記事によると、首都圏在住の働く男女を対象にした民間調査では、実際に早く帰った人は、たったの3.7%だったそうです(産経ニュース・2017年3月3日付)。当たり前でしょう。
 このアイデアのどこがバカらしいか。いくつもありますが、一つ一つ行きましょう。
 まず前から言われていたことですが、早帰りできるのは、経営状態が良好で余裕のある大企業の正規社員だけだということ。
 日本の中小企業は99.7%を占めますが、このデフレ不況下で四苦八苦しているところがほとんどですから、そんなことが許されるはずがありません。ただでさえ残業、残業、休日出勤と、過酷な労働条件を強いられているのです。事前の聞き取りでも「プレ金? ウチは関係ねえよ」とほとんどの人が答えていたようです。
 後に紹介する「働き方改革」についての資料の中に、「厚労省が、所定外労働時間の削減や年次有給休暇の取得促進を諮る中小企業事業主に対して、その実施に要した費用の一部を助成する助成金制度を導入した」とありますが、そもそも現在のデフレ状況下で、そういうことが中小事業主に可能なのか、きちんと調査・検討した事実を寡聞にして知りません。
 いくら助成してくれるのか知らないけれど、おそらくは雀の涙。これは事業主の道徳心に期待したもので、そういう政治手法は効果薄弱なことが初めから見えています。
 プレ金についての前期記事によれば、余裕のある大企業でも以下のような有様です。

《実施・推奨している職場でも「早く帰るつもりだったが帰れなかった」という人が16.3%。理由には「仕事が終わらなかった」「後日仕事のしわ寄せが来る気がした」「職場の周囲の目が気になった」などがあがった。》

 初めの二つの理由は当然といえば当然ですね。でも最後の理由が、「働き方改革」全体の趣旨にとって意外にも大きな壁となっています。しかしそもそもこの趣旨自体がおかしいのですから、「壁」はじつは壁ではなく、配慮しなくてはならない重要なポイントなのです。これについては後述します。
 また、この種のアイデアが百害あって一利なしなのは、政府がデフレ脱却のために適切な対策を打っていないことから人々の目をそらす作用を持つからです。適切な対策とは、言うまでもなく、プライマリーバランス(基礎的財政収支)黒字化目標を破棄し、大胆な積極財政に打って出ることです(ちなみに積極財政の障害となっている「国の借金1000兆円。このままだと財政破綻する」という財務省発のウソは、いい加減に引っ込めてほしいし、国民もこのウソから目覚めてほしいものです)。

◆日本の休日はかなり多い

 こういう弊害もあります。日本の休日数(年次有給休暇日数)はいま世界の中でもかなり多い方に属するので、これ以上増やす必要はありません。しかし実際には休める人と休めない人との間には大きなギャップがあります。すると、賃金が低くきつい労働に耐えている人々の間にルサンチマンが貯めこまれます。公務員を削減しろなどというのがその典型ですね。
 また「早く帰宅させると消費が伸びる」などという論理は「風が吹けば桶屋が儲かる」と同じで、まったく論理が成り立ちません。というのは、時間当たりの労働生産性が変わらないと仮定すれば、長く労働した方がマクロレベルでは生産高が増え、それに応ずる需要がありさえすれば、その方が消費が増えるはずだからです。バブル期の時はみんな猛烈に働いていましたよ。仕事があったのです。つまり需要があったのです。
おまけに金曜日ですから、一週間精一杯仕事をした気分で夜の街に繰り出せば、それだけお店も繁盛するでしょう。その方が需要創出につながると思うんだけどな。先の記事では、退社した人で最も多かったのが「家で過ごした」(41.8%)だったそうです。あ~あ。

◆休日に働いている人は多い

 ここまでは、いわゆる「サラリーマン」をイメージして論じてきましたが、ここからは、人々があまり気づいていない事実を指摘して「プレ金」の無意味さを述べましょう。この視点は、言われてみれば当たり前なのですが、私たちの先入観を取り払うという意味で、意外に重要だと思います。
 その事実とは、休日というと、オフィスに勤務するホワイトカラーにとっての休日をつい思い浮かべがちですが、じつは休日やオフの時間帯こそ稼ぎ時だという人や、平日が休日になっていたり不定期に休みを取っていたりする人がたくさんいるということです。
「NAVERまとめ」の「職業別・男女別就業者人口の割合」という統計資料(https://matome.naver.jp/odai/2146752095773010701)によって、一般事務、会計事務、営業職業その他、平日オフィスに勤務しているだろうと思われる人の割合を推定してみると(厳密に仕分けすることは困難ですが)、わずか二七%から多くても三二%程度にとどまるのです。
 政府の「働き方改革」なるものも、こうした職業の人が「働く人」のすべてであるかのような錯覚にもとづいて構想されており、仕事に従事する人の正しい実態をとらえていません。レストラン、ホテルなどのサービス業関係者、医療福祉関係者、教育関係者、交通機関関係者、各種小売商、不動産業者、土木建設作業員、出版、テレビなどメディア関係者、農業従事者、漁業従事者、各種自由業者等々、政府はこういう人たちのことを考慮に入れているでしょうか。

◆働く人は減っているが…

 さて問題の「働き方改革」ですが、ニッセイ基礎研究所の金明中氏によると、政府がこの政策を進めている理由は次の三つです。
(1)日本の人口、特に労働力人口が継続して減少していること
(2)日本の長時間労働がなかなか改善されていないこと
(3)政府が奨励しているダイバーシティー(多様性)マネジメントや生産性向上が働き方改革と直接的に繋がっていること
http://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=53852&pno=3?site=nli
(1)は、正しくは、少子高齢化によって、人口減少カーブと労働力人口減少カーブとの間にはなはだしいギャップがあると捉えるべきです。この現象は、各分野での人手不足を生んでいます。人手不足は、長い目で見れば供給が需要に追い付かない事態を意味しますから、賃金上昇をもたらすはずです。超低金利と相まって、デフレ脱却の絶好のチャンスと言ってもよいのです。
 ただし経済評論家の三橋貴明氏が常々指摘しているように、人手不足解消の応急措置のために外国人移民を受け入れるのではなく、政府が技術開発投資やインフラ投資を率先して行うことで生産性を高めるのでなくてはなりません。しかるに安倍政権は、移民政策を推し進めようとしています。移民政策がどんな結果をもたらしつつあるかは、ヨーロッパの現状を見れば明らかでしょう。

◆単に目的は人手不足解消と低賃金なら…

 そもそも常識的に考えて労働力人口の減少がなぜ、働き「方」の改革に、それも長時間労働の削減を良しとする発想に結びつくのか理解できません。これはおそらく、電通若手女性社員の過労自殺やブラック企業問題などが世間を騒がせたので、あわてて木で鼻を括るように問題項目だけをそろえてみせたのでしょう。
 もっとも、長時間労働を減らしてワーク・ライフ・バランスを回復させると、かえって生産性が上がるという一応の理屈が付いてはいます。先のニッセイ基礎研究所の資料によれば、OECD諸国の統計で、一人当たりの平均年間労働時間と、労働生産性との間には逆相関が認められるというのです。つまり労働時間が長い国ほど労働生産性が低いというのですね。たしかにこの資料にはそれを示すグラフが付されていて、それらしき傾向が読み取れます。
 しかし相関関係は、因果関係ではありません。各国には各国の労働事情があり、安易に比較することはできないのです。労働生産性は、国によって産業構造がどう違うか、どんな社会環境下に置かれているか、設備や技術の普及度はどうか、労働の組織形態はどうか、働くことについての国民の意識はどうかなど、さまざまな条件に左右されますから、逆相関がみられるからといって、労働時間を減らせばいいなどという単純な結論は得られません。
 次です。先に挙げた「働き方改革」を進める理由の(3)に出てくる聞きなれない言葉「ダイバーシティー・マネジメント」ですが、これはいったい何でしょう。政府は、本音を見透かされないようにごまかすときは、たいていこういう聞きなれないカタカナ語を使います。最近聞かなくなったけどホワイトカラーエグゼンプションとかね。
ダイバーシティ・マネージメントとは、多様性を許す経営ということらしいですが、ちょっと聞くと、働き方の多様化、たとえば在宅勤務を条件付きで容認するとか、勤務時間の自由化(フレックスタイム)とか、ワークシェアリングを充実させるとかいったことをイメージさせます。ところが、読んでみるとそうではなく、女性、高齢者、外国人といった「多様な」人材を対象にするというだけのことなんですね。何のことはない、単なる人手不足解消策と、低賃金での人材確保策という財界の要望を反映させたものにすぎません。これでは企業のブラック化は少しも変わらないでしょう。

◆デフレで働かなければ貧しくなる

 現在のブラック企業問題や過労死問題の解決策を模索するには、労働行政の枠内にだけ視線を集中していたのではダメなのです。まず何よりも、なぜそういうことが発生する風潮が当たり前になっているのか、その根本原因はどこにあるのかを考えるのでなくてはなりません。
 根本原因は、誰でもわかることで、デフレ不況がもたらした経営困難や生活困難であり、それを作り出している政府の誤った経済政策(無策)です。電通の女性社員は生活困難ではなかったでしょうし、自殺の直接原因が過労であったとは必ずしも特定できませんが、長く続くデフレ下で醸成された企業のヒステリックな空気を毎日呼吸していたとは言えるでしょう。
 日銀の金融緩和だけではまったくデフレから脱却できないことが判明した現在、取るべき政策は国債(赤字国債と建設国債)の発行による大胆な財政出動以外にないのです。これは先ごろ来日したノーベル経済学賞受賞者のスティグリッツ教授も言っています。ここでは、なぜかを詳しく論じませんが、この方向性が財政危機・財政破綻を招くなどということは百パーセントあり得ません。
 要するに、まずデフレを解消して一般国民が豊かさとゆとりを回復するにはどうしたらよいかに言及せずに、働き「方」の問題だけ抽象して「長時間労働を減らしてワーク・ライフ・バランスを」などとのんきなことを言っているのは大いなる欺瞞なのです。中小企業主やその従業員の人たちがこれをまともに聞いたら怒りだすのではないでしょうか。「そんなお節介しなくていいから、そういうことが自分たちでできるように、まず働いた分に見合うだけの報酬が払える(得られる)ような景気対策を早く打ち出してくれよ」と。
 政府がデフレ対策を打ち、積極的にインフラ投資や技術開発投資をし、企業が設備投資をしたくなるような空気を作り出さなければ、単なる働き「方」の改革を抽象的に論じても、労働者にゆとりなど生まれるはずがないのです。
縦割り行政の弊害でしょうが、この改革理念の中に、物理的に労働者にゆとりを与えるためのAI技術(ロボットなど)の導入の話などがまったく入ってこないのも不思議です。デフレ期にただ長時間労働を減らせなどというのは、貧しい生活に甘んじろと言うのと同じではないですか。
 いま進められている「働き方改革」なる政策は、非現実的な観念の遊びの枠組みの中に、人件費を削れという経済界のいつもながらの陳腐な要求を忍びこませた「まがいもの」にほかなりません。

◆周りを気にして帰らない…は日本人の長所では?

 先に、プレ金を推奨している職場でも帰れなかった人がかなりおり、その理由の一つに「職場の周囲の目が気になった」というのがあったことを紹介しました。ニッセイ基礎研究所の資料にも、年次有給休暇の取得にためらいを感じると答えた人が68.3%に上るというデータが載っており、その内訳の上位一位と三位を見ると、複数回答で「みんなに迷惑がかかると感じる」74.2%、「職場の雰囲気で取得しづらい」30.7%となっています。
 この資料ではこういう結果を「働き方改革」を阻む障壁と見ていますが(この種の政策関係資料はだいたいそうですが)、私は無視してはならない尊重すべき点だと思います。ここに多くの人は日本的組織の特徴を見出すでしょう。私も日本人らしいとは思いますが、それを組織にとって必ずしも悪いこととは思いません。
 この周りを気にする意識は、「仕事」というものに対する日本人のとらえ方をよく表しています。つまり日本人にとって仕事とは一人でやるものではなく、仲間と一緒にやるものなのです。近代個人主義の立場からは、これは克服すべきだということになるでしょう。しかしよく考えてみると、初めから終わりまでたった一人で完成させる仕事というものは存在しません。周囲の人とのかかわりを大切にする日本人は、そのことを本能的にわきまえていて、いつも配慮を忘れないのです。
 このいわゆる「集団主義」的な精神、優れたチームワークが、かつて高度成長を生み、世界から驚嘆され、称賛を浴びたのではなかったでしょうか。
 もちろん長所は同時に欠点でもあり、過度な集団主義は個性をつぶします。それが独創的なアイデアの産出を阻んだり、間違った既定路線をいつまでもずるずると続けさせたりします(財務官僚の緊縮財政路線のように)。またお節介な上司との粘着的な関係が私生活の自由を阻害することもあるでしょう。
 しかし、どんな時にも「はい、五時になりました。帰らせていただきます」とさっさと席を立つようなドライな人は、関係を大切にせず、その結果、仕事を自分たちのものとして大切にしない人でしょう。責任を負わない人だと評価され、本当に結束しなければならない時に仲間から信用されないでしょう。
「働き方改革」を口にして、その中に「長時間労働一般の弊害の克服」や「年次有給休暇の取得促進」を絶対条件として繰り入れる人は、現実の「仕事」というものが初めから孕んでいる共同性感覚、情緒の共有の大切さを軽視しているのだと私は思います。
 しかし共同性感覚とか情緒の共有といった人間論的なテーマは、もともと抽象的な網によって問題を整理しようとする政策課題になじまないところがあるのは確かです。またもちろん、劣悪な処遇に対する法的な措置や緻密な管理・監督は大切です。しかしことが悪化するのも現場、悪化を正確にチェックできるのも現場ですから、「働き方改革」を真剣に考えるなら、個々の現場レベルでの数値化できない問題を、あえて問題として可視化する姿勢が問われるでしょう。ほんとにやる気があるなら、膨大な現場事例を集めて問題点を多角的に検討するところから始めてはどうでしょうか。
 プレ金はそれ自身のうちに、労働に関して一般化できないことを一般化しようとする無理解を含んでいます。早いうちに消えるでしょう。

「教育、教育」と騒ぐなら金を使え

2017年05月09日 01時41分47秒 | 社会評論
      




5月1日付の産経新聞「産経抄」によりますと、日本の小、中学校の先生の労働時間は世界でも突出して長く、小学校教諭の33%、中学校教諭の57%が残業時間80時間を超えており、「過労死ライン」を上回っているそうです。
先生の多忙というと、平教員の忙しさをイメージしがちですが(それももちろんあるのですが)、なかでも多忙を極めるのは、副校長、教頭で、調査報告書の作成、休んだ教諭のフォロー、会計業務などあまりの激務に疲れ果て、教諭への降格を願い出るケースが跡を絶たないのだとか。

小中学校教師の忙しさは今に始まったことではなく、昔から部活の顧問として土日・夏休み返上で駆り出されるとか、テストの採点は家に持って帰って深夜までとか、年間いくつもある学校行事の指導とか、たいして意味のない研修会への参加強制とか、問題生徒の管理監督やいじめ防止への配慮とか、モンスターペアレンツへの対応などなど、とにかく息つく暇もないとの訴えはよく聞かされてきたものです。
ところが、世間の視線は意外とこうした実態に対して冷ややかで無関心です。それはなぜでしょうか。

第一に、教師は公務員で、給与もそこそこ高く安定しているという点が挙げられます。
世の中にはもっと貧しい人やきつい仕事に耐えている人がいる、贅沢な悩みだといったルサンチマンに根差すまなざしを受けやすいのですね。ことにデフレ不況下の今日では、こうした声が高まっていると思われます。
しかしある職業が所得面や雇用面で安定しているという事実と、その職に固有のきつさがあるという問題とは別です。教師のきつさとは、授業をしっかりこなすという本業のほかに、やたらと生活指導や文書作成などの一般事務や部活動顧問など、本来の職務ではない仕事で埋め尽くされることからくるストレスなのです。いわば多種の肉体労働と神経労働がどっと重なってきて、それを毎日捌かなくてはならないところに、このストレスの原因があります。

第二に、土曜も隔週で休みだし、夏休みもあるので優雅なものじゃないかといった先入観があります。
しかしこれは、上に述べたように、実態とは著しく異なる偏見です。学校という特殊な現場の日常をよく知らない人は、こうした先入観でものを判断すべきではありません。

第三に、教師という職業に対する世間の期待過剰があります。
「教師は聖職者」という観念がいまだに残っているようです。
どの親にとってもかけがえのない子どもの教育と生活をあずかるのですから、大切な仕事には違いありません。しかし教師も能力や包容力に限界のあるただの人間です。
何もかも教師に背負わせて、ちょっと学校で問題が起きると、担任の責任、校長の責任と大げさに騒ぎ立てる風潮を改めなくてはなりません。
大事なことは、今の学校に何ができて何ができないか、一人の教師の職分と管轄範囲はどれくらいかということをはっきりさせて、その認識をみんなができるだけ共有することです。

ちなみに、教員志望者は年々減少の一途をたどっています。また教員志望者の中でも、こんなに忙しい日本の教員にはなりたくないと思う人が6割を超えているというデータもあります。
http://benesse.jp/kyouiku/201603/20160317-1.html
http://diamond.jp/articles/-/57792

ではどうして日本の小中学校教師はこんなに忙しいのでしょうか。
上に記したように、本来の職務でないことを背負わせられているという困った「文化伝統」の問題もありますが、これらのうちの無駄な部分を削ることができたとしても、ある重大な理由から、教師の多忙さはさほど減らないだろうと思われます。
その重大な理由とは、国が教育にお金をかけていないという事実です。
日本の公教育支出は、GDPの3.5%で、OECD諸国の中で、何と6年連続で最低なのです。
http://editor.fem.jp/blog/?p=1347

日本人の多くは、教育が大事だ、教育が大事だと口癖のように言います。歴史認識、理科離れ、平和憲法、公共心、グローバリズムにエネルギー、何でもいいですが政治問題や社会問題を話していて、現実がなかなか変わらない嘆きに達して行き詰まると、たいていの人が言うのです――「最終的には教育の問題だよね」。
これは要するにただの陳腐な「オチ」であって、教育をどうするのか、何かヴィジョンがあるわけではなく、あきらめや逃げの言葉をつぶやいているにすぎません。教育のことなど誰も本気で考えてはいないのです。

もし本当に教育が大事だと考えているなら、まずはこの恐ろしく貧困な教育投資の実態を何とかしなければなりません。
そして投資をどこに差し向けるか。もちろん、まずは人材投資です。
教師の数を増やすだけではなく、前述のような教師本来の仕事ではない部分を担える人材を雇用して、先生が余裕をもって本業に専念できるような環境を整備すること。

環境と言いましたが、物理的な意味での環境整備も非常に大切です。
これは一例にすぎませんが、いま日本の公立小中学校で、エアコンがどれくらい整備されているかみなさんはご存知ですか。
何とわずか三割です。
それも地域間格差が激しく、首都東京は八割ですが、暑いはずの九州は二割に満たないところもあります。
http://xn--88j6ev73kngghpb.com/%E5%B0%8F%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%AE%E3%82%A8%E3%82%A2%E3%82%B3%E3%83%B3%E8%A8%AD%E7%BD%AE3%E5%89%B2.html
かわいそうな九州の子どもたち。これで、子どもを大切にしている国と言えるのでしょうか。

文科省は二流官庁ですから、予算が十分に取れない苦しさもあるでしょう。
財務官僚はきっと日本の将来を担う世代のことなどに関心がなく、文科省の管轄事項を、それが喫緊の課題ではないという理由で、無意識に蔑んでいるのだと思います。
いま公立の小中学校教育に投資するとしたらどこにお金を使うべきか。小3から英語教育を、とか、道徳教育を正課に、など、百害あって一利なしの施策にではありません。基礎学力を徹底させるために、ゆとりのある人的物的環境を整えることに投資すべきなのです。これは教育界におけるソフト面、ハード面のインフラ拡充と言えましょう。
文科省は、グローバリズム迎合やヘンな精神主義を捨てて、具体的な窮状を訴え、改良策を引っ提げて財務省に予算要求を迫るとよいでしょう。「子どもや先生がかわいそうなんです」――これなら血も涙もある(と思いたいですが)財務官僚も、少しは耳を傾けてくれるかもしれません。


老人運転は危険か――高齢者ドライバーの事故激増のウソを暴く(その2)

2016年12月13日 00時38分09秒 | 社会評論
      






:まずこういう資料が出てくる。内閣府のデータ(*注3)だが、交通事故の「死者数」はここ13年間減少の一途で、平成25年では4373人、うち65歳以上の死者は2303人で、やはり減少気味だが、他の世代のほうの減少カーブのほうが圧倒的に急なので、交通事故死者全体の中で占める割合としては増加していることになる。でもこれは被害者のほうだからね。歩いている老人がはねられるというケースが多いんだろう。このことは別の資料(*注4)に当たってみると確かめられる。歩行中が1050人くらいで、約半数。自動車乗車中は600人から700人の間を推移していて横ばいだ。「乗車中」ということだから「運転中」はもっと少ないことになるよね。いずれにしても、「高齢者は交通事故に遭いやすい」ことは当然で、それは高齢者ドライバーが他人を殺める割合が高いかどうかとは直接の関係がない。でも世間では「高齢者は危ない」というイメージを抱いていて、そのことと、「高齢者ドライバーは事故を起こしやすい」という先入観とを混同しているんじゃないかな。だから報道の関心がそちらのほうに集中して、そういう事件を好んで取り上げるようになる。どうもそう思えるんだけどね。
:先入観か事実かどうか、まさにそこを調べるわけだろ。
:その通り。その前に、君が初めに挙げた五つの事故の死亡者は、全部合わせると6人になる。約一か月間の間に6人という数字は年間に換算すると72人。亡くなった方には不謹慎な言い方になって申し訳ないが、この数字は、現在の年間交通事故死者総数約4300人という数字に比べて多いと言えるだろうか。割合にするとわずか1.7%にしかならないよ。
:だけど、報道されてないのもあるかもしれないぞ。
:それはまずないだろう。いま言ったように、マスメディアはニュースヴァリューのある事件が一つでもあれば、一定期間、連鎖反応的にそれっとばかりそういう事件ばかり集中的に探し当てる。これまでいつもそうだったじゃないか。
:ふむ。まあそれは認めるとしよう。だけど、老人の免許保有者が実際にどれくらい運転しているかはわからない。身分証明書代わりに更新している割合が多いんじゃないか。
:それは確かにそうだな。しかしより若い世代だってペーパードライバーはけっこういるからな。その世代差がどれくらいかは、よほど精密な意識調査でもやらない限り割り出せないだろう。だから一応、免許保有者は実際に運転をしているという仮定のもとに考えていくしかない。で、いまのところ、我々が得ている資料から、もう少し厳密に計算してみよう。同じ年の警察庁の資料によると(*注5)、運転免許保有者の総数は約8200万人。高齢ドライバーは年々増えていて、80歳以上は平成25年時点でなんと165万人を超えている。そこで、全体と80歳以上とで、死亡事故を起こしたドライバーの割合を比較してみるよ。さっき言った通り、80歳以上で死亡事故を起こしたドライバーを年間72人と仮定する。交通事故死亡者総数は4300万人台。そうすると、次の計算式が成り立つだろう。

 交通事故死亡者の、免許保有者総数に対する割合
  4300÷8200万×100≒0.0052(%)
 80歳以上の人が起こした事故での死亡者の、免許保有者数に対する割合
  72÷165万×100≒0.0044(%)。

どうかね。80歳以上のドライバーが他の世代に比べて死亡事故を起こす割合が高いわけではないことがわかるだろう。
:うーむ。仮定が入っているからそんなに厳密とは言えないな。それに死亡事故だけでは、不十分じゃないか。負傷者がたくさんいるかもしれないからな。もう少しびしっと結論づけられる資料はないのかね。
:君もなかなかしぶといな。まあいい。じゃあ、もう少し探してみよう。……あった、あった。これも同じ平成25年のものだけど、ちょっと決定的だぞ(*注6)。ていねいに読んでみてくれ。(一部語句、改行など変更)

 平成24年の65歳以上のドライバーの交通事故件数は、10万2997件。10年前の平成14年は8万3058件だから、比較すれば約1.2倍に増えている。これだけを見れば確かに「高齢者の事故は増えている」と思ってしまうだろう。しかし、65歳以上の免許保有者は平成14年に826万人だったのが、平成24年には1421万人と約1.7倍となっている。高齢者ドライバーの増加率ほど事故の件数は増えていないのだ。
 また、免許保有者のうち65歳以上の高齢者が占める割合は17%。しかし、全体の事故件数に占める高齢者ドライバーの割合は16%で、20代の21%(保有者割合は14%)、30代の19%(同20%)に比べても低いことがわかる。
 年齢層ごとの事故発生率でも比較してみよう。平成24年の統計によれば、16~24歳の事故率は1.54%であるのに対し、65歳以上は0.72%。若者より高齢者のほうが事故を起こす割合ははるかに低い。この数値は30代、40代、50代と比較して突出して高いわけでもない。
 また、事故の“種類”も重要だ。年齢別免許保有者10万人当たりの死亡事故件数を見ると、16~24歳が最も高く(8.52人)、65歳以上はそれより低い件数(6.31人)となっている。


:うーむ……。
:つまり、これから推定できることは、認知症の人は別として、高齢者は概して自分の心身の衰えをよく自覚していて、また経験も豊富なので、慎重な運転を心がけているということになる。だから、マスメディアの流すイメージを鵜呑みにして、「高齢者の免許証を取り上げろ!」などと乱暴なことを言う人が多いけど、それはナンセンスだな。俺のドライバー歴は約30年だけど、俺も若い頃のほうが事故を起こしていたよ。ここのところけっこう車を使っているが、10年ばかり無事故だ。でもたしかに自信過剰は禁物だね。また一口に高齢者といっても、65歳と75歳と85歳とでは衰え具合が全然違うだろう。そのへんのきめ細かな分析視点も大事だと思うよ。
:うーむ。マスメディアの流す情報に踊らされてはダメだということだな。俺も免許証返上や規制強化論については、少し考え直すことにしようか。

 *注1:小浜逸郎『デタラメが世界を動かしている』(PHP研究所)
 *注2:http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo
 *注3:http://www8.cao.go.jp/koutu/taisaku/h26kou_haku/gaiyo/genkyo/h1b1s1.html
 *注4:http://www.garbagenews.net/archives/2047698.html
 *注5:https://www.npa.go.jp/toukei/menkyo/pdf/h25_main.pdf
 *注6:">http://www.news-postseven.com/archives/20131010_215628.html


老人運転は危険か――高齢者ドライバーの事故激増のウソを暴く(その1)

2016年12月10日 23時28分35秒 | 社会評論
      





:久しぶり。この前会った時よりだいぶ老けたな。
:何しろもうすぐ古希だからな。そういうおぬしも人のことは言えんぞ。
:そりゃそうだ。ところで君はまだ運転やってるのか。
:何だやぶからぼうに。やってるよ。仕事で必要だしドライブは好きだからな。
:いや、最近、ほら高齢者ドライバーが起こす事故が連続して起きているだろう。ここに新聞を持って来たんだが、11月12日、立川市で乗用車が歩道に乗り上げ2人死亡。10日には栃木県で乗用車がバス停に突っ込み3人死傷。10月28日には横浜市で軽トラックが小学生の列に突っ込み7人死傷。13日にも小金井市と千葉県で交通死亡事故。運転していたのはいずれも80歳以上の高齢者とある。こう続くと俺も運転するのが怖くなってくる。
:たしかに年を取ると、自分ではちゃんとしているつもりでも判断能力や運動神経がどんどん鈍ってくるからな。俺も気をつけるようにしてはいるけどね。
:しかしこの横浜の事件では、認知症の疑いがあったそうだ。認知症だったら「気をつける」なんて次元の問題じゃないだろう。
:その人はいくつだったの。
:87歳。
:87歳かあ。そんなに高齢じゃ、認知症を疑われるのも無理はないな。家族がちゃんと監視して運転をやめさせるべきだな。
:いや、一人住まいだったのかもしれない。孤独な老人が増えてるからな。それに、認知症でなければいいのかというとそうも言いきれないだろう。あと数年で俺たち団塊も75歳だぞ。こういう事件がどんどん増えるんじゃないか。
:でも地方の過疎地域なんかでは車がないと買い物にも医者にも行けない人が多いんだろう。簡単に免許返納というわけにもいかんじゃないか。
:自動運転車の早期実用化や地域の協力体制が求められるな。でもそれを待っている間にも事故は起きるだろうしな。だからどうしても規制強化が必要だと思う。
:今の道交法では、高齢者の免許に対する規制はどうなっているんだっけ。
:75歳以上の免許更新時に認知機能検査をやって、「認知症の恐れがある」とされても、交通違反がなければ免許の取り消しとはならないんだそうだ。これははなはだ不十分だな。で、一応2017年3月の改正道交法では、「恐れがある」場合には医師の診断が義務づけられて、認知症と診断されると免停か取り消しになることになってる。俺はこれでも甘いと思うよ。さっき言ったように、認知症でなくたって危ないからな。
:そうすると、君の考えでは、免許返納を制度面で強化することと……。
:うん。高齢者の自覚を促すキャンペーンをさかんにして、家族もこれに協力して自主的な免許返納のインセンティブを高める必要があると思う。俺ももうそろそろ免許証を返上しようかと思ってるよ。君も考えたほうがよさそうだぞ。自信過剰は最大の敵だ。
:なるほど。我々は都会に住んでるから、車がなくてもなんとかやって行けるしな。でも俺の場合は今のところどうしても必要だから、できるだけ慎重な運転を心がけて、もうちょっと続けることにするよ。ところでこれはけっして自信過剰で言っているんじゃなくて、免許返納制度の強化というのにはちょっと異論があるな。
:どうして? 免許を更新するときにもっと厳しいテストを課せばいいじゃないか。
:それは口で言うのは簡単だけど、膨大な免許保有者に対していちいち時間のかかる厳しいテストを課すことが今の警察の限られた交通安全対策施設や人員で可能だろうか。
:それは、ITをフルに活かした最新鋭の診断システムを導入するとか、早急に増員を考えるとかすればいいだろう。
:それだって相当時間がかかるぞ。君がさっき言っていたとおり、そういうシステムが整うのを待っている間にも事故は起こるだろう。しかも一律規制を厳しくして、テストに引っかかった過疎地の人はどうするのかね。
:……。
:じつは俺の異論というのは、今話したような問題点だけじゃなくて、もっと根本的な疑問にかかわっているんだ。昔と違って今の時代は、ふつう想像している以上に元気な高齢者がわんさかいる。また最近は車の性能がすごく進化しているから、歩いたり走ったりするのが困難な人でも精神さえしっかりしていればむしろ運転のほうが容易な場合が多い。そういう人たちの意志や行動の自由を拘束するのはあまりよくないと思う。身体障害者に対しては、条件さえ整えば健常者と同等に免許が取れるように制度が整備されてきたよね。精神はたしかだけど体にガタが来ている高齢者って、一種の身体障害者だと思うんだ。そうすると単に高齢者だからという理由で規制を厳しくするのは矛盾してないか。
:そうはいっても、その意志や行動の自由が、生命を奪うことになりかねないんだぜ。これは「個人の自由」を尊重するか、「生命の大切さ」を尊重するかという問題で、俺は無条件に「生命の大切さ」を選ぶね。だって、当の高齢者ドライバー自身の命もかかってるんだし、たとえドライバーが命も失わず怪我を負わないにしても、人を殺めてしまったら、加害者やその家族のほうも計り知れない有形無形の苦痛を背負うだろう。
:まてまて。いま君の議論を聞いていて気づいたんだが、「個人の自由」か「生命の大切さ」かというような抽象的な二項選択問題に持っていく前に、もっと冷静に考えておくべきことがある。いままで俺たちは、高齢者ドライバーの引き起こす事故が増えていることを前提に議論してきたよな。でもそれって本当なのかね。
:だって、現にこんな短期間に80歳以上のドライバーが次々に事故を起こしている事実が報道されているじゃないか。まさか君はそれを認めないわけじゃないだろう。
:個々の事故報道を疑っているわけじゃないよ。だけど、「超高齢社会・日本」というイメージが我々ほとんどの日本人の中に刷り込まれていて、それに絡んだ問題点を無意識のうちに拡大してとらえてしまう傾向が、もしかしたらありゃしないだろうか。昔からよく言うよな、「ニュースは作られる」って。これはニュースの発信者と受信者が同じ空気を醸成していて、いわばその意味では、両者は共犯者なわけだ。発信者は「87歳の高齢者ドライバーによる死亡事故がありました」と報道する。聞く方も、「えっ、それはたいへんだ。そんな高齢者に運転させるのは間違いだ」と即座に感情的に反応してしまう。そこから「規制をもっと強化しろ」という結論までは簡単な一歩だ。
:しかしごく自然に考えて、年を取れば取るほど生理的に衰えてくるから、運転の危険度も増すことは否定できないだろう。君だってそれは認めていたじゃないか。
:もちろん認めたよ。でもそれを認めることと、高齢者への運転規制を強化しろという結論を認める事との間には、まだ考える余地があると言っているんだ。俺が何でこんなことにこだわるかというと、俺たちはマスメディアの流すウソ情報にさんざん騙されてきたからだ。たとえば旧帝国軍隊は韓国女性を「従軍慰安婦」として強制連行しただとか、三十万人に上る「南京大虐殺」があっただとか、アメリカは自由・平等・民主主義という「普遍的価値」のために戦ってきただとか、ヨーロッパを一つにするEUの理想は素晴らしいだとか、自由貿易を促進するTPPは参加国の経済を飛躍的に発展させるだとか、「国の借金」が国民一人当たり八百万円だから、財政を健全化させるために消費増税はやむを得ないだとか、トランプ候補はとんでもない差別主義者で暴言王だとか……。だけどこれらはよく調べてみると全部デタラメだということがいまでははっきりしている。
:わかった、わかった。そう興奮するな。それが君の持論だということは俺も君の本(*注1)やブログ(*注2)を読んだから認めるよ。だけど高齢者ドライバーがもたらす危険性については、事実が証明しているんじゃないか。少し疑り深くなりすぎてやしないか。
:そうかもしれない。じゃ、ちょうどパソコンの前に座っているから、果たして高齢者ドライバーが起こす事故が、他の世代に比べて多いかどうか調べてみようじゃないか。
:もとより異存はないよ。(以下次号)


日弁連「死刑廃止宣言」の横暴――死刑存廃論議を根底から考える(その2)

2016年12月04日 17時53分43秒 | 社会評論
      





 では死刑の意義とは何か。
 普通言われるのは、国家が被害者に代わって加害者を罰して罪を償わせることという考え方です。しかしこれは完全な間違いとまでは言いませんが、不適切な捉え方です。死刑は国家による復讐の代行ではありません
 そもそも国家は共同体全体の秩序と国民の安寧を維持することをその使命とします。犯罪はこの秩序と安寧の毀損です。たとえ個別の小さな事件でも全体が毀損されたという象徴的な意味を持ちます。だからこそその回復のために国家が登場するのです。
 この秩序と安寧を維持する意志を仮に「正義」と呼ぶとすれば、死刑は、国家が、極刑という「正義」の執行によらなければかくかくのひどい毀損に対しては秩序と安寧が修復できないと判断したところに成り立ちます
 その場合、被害者およびその遺族という私的な人格の被害感情、悲しみ、憤りなどの問題は、この国家正義を執行するための最も重要な「素材」の一つにほかなりません。だからこそこれらの私的な感情的負荷が、ときには国家の判断に対して満たされないという事態(たとえば一人殺しただけでは死刑にならないなど)も起こりうるのです。
 もちろんその場合には私人は、法が許す限りで国家の判断を不当として変更を迫ることができます。そのことによって、国家正義のあり方自体が少しずつ動くことはあり得ますが、近代法治国家の大原則が揺らぐことはありません。
 つまり死刑とは、国家が自らの存続のために行なう公共精神の表現の一形態なのです。繰り返しますが、国家は被害者の感情を慰撫するため、復讐心を満足させるために死刑を行うのではない。むしろ逆に復讐の連鎖を抑止するためにこそ行うのです。極刑によってこのどうにもならない私的な絡まりの物語を一気に終わらせようとするわけです。そこにまさに近代精神(理性)の要があります。

 ところで筆者は、この公共精神の表現の一形態たる「死刑」という刑罰が存置されることを肯定します。なぜなら、人間はどんな冷酷なこと、残虐なことも、大きな規模でなしうる動物だからです。これだけのひどい秩序と安寧の毀損は、死をもって贖うしかないという理性的な判断の余地を葬ってはなりません。
 抽象的な「人権」、絶対的な「生命尊重」の感覚のみに寄りかかった現代ヨーロッパ社会(および国連)の法意識はけっして「進んでいる」のではなく、むしろ近代精神を衰弱させているというべきです。日弁連幹部の廃止論はこの衰弱した近代精神にもっぱら依存しています。
 さて日弁連の先の「宣言」では、明確な死刑廃止宣言をしていながら、それに代わる刑として「仮釈放のない終身刑を検討する」としており、その場合でも、社会復帰の可能性をなくさないために仮釈放の余地も残すべきだとしています。
 そうすると廃止をした後に「検討する」わけですから、死刑に代えるに終身刑をもってするのではなく、終身刑の規定すら採用されない可能性が大いにあります。もし終身刑の規定が採用されなければ、最高刑は「仮釈放のある無期懲役」ということになります。また終身刑でも「仮釈放の余地も残す」のでは、極刑の概念を完全に抹消することになります。
 筆者は到底これを受け入れるわけにはいきません。なぜなら、人間は神と悪魔の間の膨大な幅を生きるのであってみれば、極刑の概念を残しておくべきであるし、また懲罰の選択肢は多ければ多いほど良いからです。
 たとえばこれは筆者の個人的なアイデアにすぎませんが、死刑、仮釈放のない終身刑、仮釈放の余地を残した終身刑、無期懲役、有期最高刑懲役五十年(現行三十年)等々――刑法を、複雑多様化した現代、寿命の延びた現代に合わせて改革するなら、こういう方向で模索すべきでしょう。
 もちろん、極刑を課さなくても済むような社会づくりに向かってみんなが努力すべきであることは言うを俟ちませんが。


日弁連「死刑廃止宣言」の横暴――死刑存廃論議を根底から考える(その1)

2016年12月01日 16時20分14秒 | 社会評論
      




以下の記事は、月刊誌『正論』2017年1月号に掲載された拙稿に若干の訂正を施したものです。

 去る二〇一六年十月七日、日弁連が福井市で人権擁護大会を開き、「二〇二〇年までに死刑制度の廃止を目指す」とする宣言案を賛成多数で採択しました。採決は大会に出席した弁護士で行われ、賛成五四六、反対九六、棄権一四四という結果でした。当日は犯罪被害者を支援する弁護士たちの反対論が渦巻き、採決が一時間も延長されたそうです。
 また同月九日、朝日新聞がこの日弁連の宣言を「大きな一歩を踏み出した」と全面評価する社説を載せ、これに対して同月十九日、「犯罪被害者支援弁護士フォーラム」が「誤った知識と偏った正義感にもとづく一方的な主張」として、公開質問状を送付しました。同フォーラムは二週間以内の回答を求めており、回答も公開するとしています(以上、産経新聞記事より)。
 まず日弁連について。
 この団体は強制加入であり、全国に加盟弁護士は三七〇〇〇人超いますが、今大会に集まったのは七八六人(わずか2%。賛成者だけだとわずか1.4%)です。しかも委任状による議決権の代理行使は認められていません。こういうシステムで死刑廃止のような重要な宣言を採択してよいのでしょうか。団体の常識を疑います。
 次に朝日新聞の社説について。
 これはフォーラムの公開質問状が批判しているとおり、「死刑廃止ありきとの前提で書かれている」ひどいものです。論理がまったく通っていない箇所を引用します。

《宣言は個々の弁護士の思想や行動をしばるものではない。存続を訴える活動は当然あっていい。
 そのうえで望みたいのは、宣言をただ批判するのではなく、被害者に寄り添い歩んできた経験をふまえ、いまの支援策に何が欠けているのか、死刑廃止をめざすのであれば、どんな手当てが必要なのかを提起し、議論を深める力になることだ。》

 日弁連の総意として宣言が出された以上、弁護士の思想や行動は当然しばられます。これを著しく非民主的な手続きでごく一部の執行部が打ち出したということは、明らかな独裁です。
 また、あたかも被害者支援弁護士たちが「ただ批判」しているかのように書き、実態も調べずに「支援策が欠けている」と決めつけています。
 極めつけは「死刑廃止をめざすのであれば」というくだりです。被害者やその遺族に寄り添って死刑存続を望んでいる人たちが、いつの間に「死刑廃止をめざし」ている人に化けさせられたのでしょう。毎度おなじみ朝日論説委員の頭の悪さよ。作文の練習からやり直してください。
 さて朝日新聞は十一月二日付でフォーラムの質問状に回答しましたが、これについて記者会見を行った高橋正人弁護士は「聞きたかったのは、なぜ朝日は死刑存続を望むわれわれも死刑廃止に向けた議論に協力しなければならないと主張したのか、という点だったが、答えていない。残念だ」と話し、今後、再質問も検討するそうです。さもありなむ。
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/nation/sankei-afr1611080041.html

 ところで問題の日弁連の「宣言」の中身について検討してみましょう。正式名称は、「死刑制度の廃止を含む刑罰制度全体の改革を求める宣言」。
http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/civil_liberties/year/2016/2016_3.html
 結論から言うと、これまた「罪を犯した人の人権」にだけ配慮した一方的なもので、被害者および遺族の支援については申し訳程度にしか言及されていません。以下、この宣言における死刑廃止論の根拠を箇条書きでまとめます。

 ①平安時代には死刑がなかった。死刑は日本の不易の伝統ではない。
 ②国連の自由権規約委員会、拷問禁止委員会等から、再三勧告を受けている。
 ③誤判、冤罪であった場合、取り返しがつかない。
 ④法律上、事実上で死刑を廃止している国は一四〇か国あり世界の三分の二を占める。
 ⑤OECD加盟国のうち死刑を存続させているのはアメリカ、韓国、日本の三つであるが、アメリカは州によっては廃止しており、韓国は十八年以上死刑を執行していないので。OECD三四か国のうち、国家として統一的に存続させているのは日本だけである。
 ⑥死刑には犯罪抑止効果があるという説は、実証されていない。
 ⑦内閣府の最近の意識調査では「死刑もやむを得ない」という回答が八割を超えるが、死刑についての十分な情報が与えられれば、世論も変化する。
 ⑧そもそも死刑廃止は世論だけで決めるべき問題ではない。
 ⑨日本の殺人認知件数は年々減少しているのだから、死刑の必要性には疑問がもたれる。
 ⑩死刑は国家による最大かつ深刻な人権侵害であり、生命というすべての利益の帰属主体そのものの滅却であるから、他の刑罰とは本質的に異なる。


 だいたい以上ですが、ひとつひとつ検討します。
 ①ですが、たしかに不易の伝統ではないでしょう。しかし平安時代の法と近代法を単純に比較するわけにはいきません。なぜなら古代や中世においては、支配階層と一般民衆とは截然と分かれており、高い身分の者が低い身分の者に対して今なら考えられないほど理不尽で残酷なことをしても平気で許されていたに違いないからです。いくら法的に死刑がなくても、私的な刑としての殺害はいくらでも行われていたでしょう。
 ②ですが、ここには国連を、国家を超越した権威を持つ機関として疑わない戦後日本人の弊害がもろに出ています。国連の勧告は七つありますが、そこには日本の法律や受刑者への対処に対する無知と、その裏返しとしての「人権真理教」が躍如としています。ここでは主なものだけ取り上げます。
 第一に「死刑執行の手続き、方法についての情報が公開されていない」と指摘していますがそんなことはありません。手続きは確定後、法務大臣の署名捺印によって執行され、その氏名も公開されます。また方法は誰でも知っているとおり絞首刑です。
 第二に「死刑に直面している者に対し、被疑者、被告人段階、再審請求段階、執行段階のいずれにおいても十分な弁護権、防御権が保障されていない」とありますが、これもウソです。日本の司法手続きは重大犯罪においてきわめて慎重であり、前三者については確実に保障されています。
 もっとも裁判員裁判のもとでは、しばしば求刑越えの判決が出されることがありますが、これはむしろ裁判員制度自体の問題点です。裁判員制度は、英米系の陪審員制度をより進んだ制度と勘違いした弁護士たちが日本にもそれに類する制度の導入を強引に進めた結果できた制度です。いまその問題点については論じませんが、ご本家の陪審員制度こそ被告人段階での十分な弁護権、防御権が保障されていない欠陥を表わしているのです。この点については拙著『「死刑」が「無期」かをあなたが決める 裁判員制度を拒否せよ!』参照。
 また最後の執行段階については、死刑制度が存在する以上、確定者に執行段階で弁護権や防御権を保障することは論理矛盾であり、法そのものの権威を失墜させます。さらに日本の実態として、死刑が確定しても執行までの期間に高齢に達していたり心身の健康を損なっていたりすれば延引されるのが普通です。
 第三に「心身喪失の者の死刑執行が行われないことを確実にする制度がなく」とありますが、これもデタラメです。刑法39条には「心身喪失者の行為は、罰しない。心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」とあって、入念な精神鑑定が行われることが保障されています。国連は日本の刑法を読みもしないでこういう断定を下しているのです。
 第四に国連勧告では「死刑執行の告知が当日の朝になされること」がけしからんという趣旨になっていますが、もっと前に告知すべきだとでもいうのでしょうか。心の準備期間が長い方が人道的だと言いたいのでしょうが、さてここにはキリスト教文化圏と日本との価値観の違いが出ています。
 日本では死刑囚の多くが「いつ告知されてもおかしくない」という覚悟を早くから決めて「お迎えの日」を静かに待っています。考え方によりますが、あらかじめ執行日を知らされていれば、むしろ多くの日本人はかえって動揺と不安の日々を過ごさなくてはならないでしょう。この国連の勧告には、キリスト教文化圏の価値観を普遍的なものとして押しつけている傲慢さがあらわです。
 何よりも問題なのは、日弁連幹部が、法律の専門家でありながら、この勧告の明らかな誤りを認めず、そのまま自分たちの主張に利用している事実です。
 ③の誤判、冤罪の可能性は廃止論者が必ず持ち出す論拠です。しかし誤判や冤罪を防げるかどうかは、法理上、死刑制度の存在とは直接のかかわりをもちません。日弁連は判断形式を誤っています。それはちょうど交通事故の可能性がゼロではないから車を廃止しろという議論が間違っているのと同じです。
 冤罪をいかに防ぐかは、捜査から判決までの全刑事過程における手続きをいかに厳正・慎重に行うかというテクニカルな問題であって、国家が死刑制度を持つことが是か非かという本質的な問題とは別です。冤罪をゼロにするためにどういう司法手続きがさらに必要かと問うのが正しい判断形式なのです。再審制度があるのもそのためで、これが不十分だというならそれを改めていけばいいのです。
 ④⑤の世界情勢は死刑廃止に向かっているという議論もよく聞かされます。しかしこれまた欧米が全部正しいという価値観を押しつけるもので、単なる情勢論におもねています。
 日弁連のこの宣言では、⑧で「そもそも死刑制度は世論だけで決める問題ではない」と正しい指摘をしています。ところが世界の多くの国が廃止しているから日本もそれに倣えというのは広い意味の世論に従えといっているのと同じで、論理が破綻しています。日本では「死刑もやむを得ない」という世論は直近で八割を超えていますが、この数字が必ずしも存置論者の論拠にならないのと同断です。両陣営は水掛け論をやっているのです。
 また廃止論者は国の数や「先進性」というあいまいな基準を傘に着ていますが、これは多様な文化を尊重するリベラルなインテリのスタンスと矛盾しています。
 しかもそれを言うなら、廃止または凍結した国が数では多数派でも、中国、インド、インドネシア、パキスタン、バングラデシュなど、人口の多い国では存置しており、超大国かつ先進国であるアメリカの三十三州でも存置されていることを考慮に入れるべきでしょう。そこでいま、少なく見積もってアメリカの全人口の半数が存置側の州に住んでいるとすると、その人口は一・五億人になります。
 以上を勘案した上で、四捨五入して人口一千万人以上になる国で、存置国:廃止国(事実上の停止も含む)の人口を集計してみると、約五十二億人:約十七億人となり、人口比では圧倒的に存置国のほうが多いことがわかります。
http://www.geocities.jp/aphros67/090100.htm
http://ecodb.net/ranking/imf_lp.html
 もう一つ重要なことは、たとえ法的には廃止されていても、欧米諸国では、凶悪犯やテロリストを逮捕前の犯行現場で警察が殺害してしまうことが非常に多いという点です。またフィリピンや南米諸国のように法的には廃止の建前を取っていても、麻薬所持や取引だけで超法規的に殺してしまうような国もあります。
 警察による殺害は審理抜きの死刑と同じです。このほうがよっぽどひどい「人権侵害」に当たるはずですから、国連および日弁連幹部はこれらをきちんとカウントして、それに対して強く非難の目を向けるべきでしょう。「人権真理教」の弁護士たちは、著しく公正を欠くと言わなければなりますまい。
 ⑥の「死刑に犯罪抑止効果があるかどうかは実証されていない」というのは、正しい指摘です。本当に実証するためには、少なくとも人口、政治形態、経済規模、文化的特性、治安状態、国民性などが非常に似通った複数の国を選び出し(そんな国はまずありませんが)、一方は廃止、他方は存置して、数十年にわたって実験結果を比較してみなければならないでしょう。しかしそんなことは不可能です。ですから、ここでも廃止論者と存置論者は決着のつかない水掛け論をやっているのです。
 ⑦「十分な情報によって世論が変化する」は、日弁連も大いに世論を気にしている証拠で、先述の通り⑧と矛盾します。「十分な情報」という言葉で何を言おうとしているのかよくわかりませんが、もしこれが正しいなら、むごたらしい犯行現場や被害者遺族の心情について「十分な情報」が与えられれば、世論はさらに存置側に傾く可能性もあるでしょう。日弁連幹部の論理はそういう事情を公平に見ずに、もっぱら「初めに廃止論ありき」で、そのための政治的な闘争をやっているのだということを自己暴露したものと言えます。
 ⑨「殺人数が減っているから死刑は必要ない」というのはまったくの没論理です。いくら減っていても冷酷な動機と残虐な手段で何人も殺す殺人犯は現にいますし、これからの情勢次第で凶悪殺人は増えるかもしれません。
 以上、「死刑廃止宣言」の論拠を検討してきましたが、総じてこれらは、表層の情勢論に終始していて、そもそも死刑とは何か、それが行なわれるとすればその意義はどこにあるのかという本質的な問いに対する考察が欠落しています。
 唯一⑩がその本質論に触れていますが、それもただ「国家が生命を奪う最大の人権侵害」という犯罪者個人の被害の面が押し出されているだけで、被害者の側の悲しみや憤りについてはまったく思料されていません。これでは被害者の立場に立つ人たちが怒るのも当然と言えるでしょう。(以下次号)

ポケモンGOが早く廃れますように

2016年07月26日 19時06分18秒 | 社会評論
      




 ポケモンGOが日本でダウンロード可能になってから数日が経ちました。
 初めメディアは軽いノリでニヤニヤしながらその爆発的な人気について報道していたようですが、予想通りいくつものトラブルを引き起こしつつあります。さすがにメディアの論調も、わずか数日で様変わりしてきたようです。しかし本当は、日本解禁の前にアメリカですでにトラブルが報告されていたのですから、このゲームの問題点についてもっと真剣に報道すべきでした。日本の「カワイイ」文化がまた一つ国際化したというので、メディアは調子に乗っていたのでしょう。
 固いことを言うようですが、この遊び、私は非常によくないと思っています。で、次のような趣旨のことをあるところに投稿しました。

 このゲームは、やってる当人の危険もさることながら、厳粛な場所を汚したり、静謐な領域を荒らしたり、プライバシーを侵害したり、交通事故を起こしたりと、問題だらけである。想定外の犯罪に利用される可能性も大きい。特に子どもに持たせると、誘拐が容易になったりする。
 治安維持や注意喚起や立ち入り禁止区域を設けなくてはならない立場の人たちの苦労もたいへんである。
 まただいたい、ゲームそのものがすこぶる幼稚で、大人が夢中になるような代物ではない。主体的に行きたい場所を選択するのではなく、受動的に移動させられるわけだから、広場や路上に愚民化した群衆が溢れる結果をもたらす。

 すると、実際にやってみた人の立場から次のような反論がありました。

 これはじゅうぶん面白いゲームで、みんなが飛びつくのも無理はない、もちろんTPOを心得る必要はあるが、それは電話をしたり音楽を聴いたりするときと同じこと。また、このゲームでは、接近しないとポケモンは出現しない。ポケモンを求めてさまようわけではなく、目的地に向かって移動している最中に寄り道感覚で捕まえに行くのである。言わばナビに毛の生えたようなもの。おかげさまでわが街の、知らなかったスポットにも気付かされた。また13才以下には配信されない。

 これに対して私は再反論しました。以下に、少し変奏し加筆してそれを掲げます。

 実際にやっている人の立場からは、肯定したくなるお気持ちは十分わかります。私もやりだせばハマってしまうかもしれません。しかし私が上記で主張しているのは、実際に起こりうる危険、迷惑についてです。これらはもう現にあちこちで起こっています。社寺などの静かに情趣を味わうべき場所、店舗その他、多少とも公共性のある空間にポケストップが置かれた場合、そこに群衆が集まれば、それらの場所の本来あるべきたたずまいが乱されるのみならず、付近の住民のプライバシーも侵害されます。マスゴミが芸能人宅に押し寄せるのと似ています。
 たとえばAさんは、皇居や靖国神社にポケストップが置かれることをお望みになりますか?
 以下の記事などもご参考になさってください。ナイアンティックと契約したあの猥雑なマクドナルドでさえ、食事空間を攪乱され、逆効果になりかねないことを指摘した記事です。
http://www.mag2.com/p/news/213217/3
 世の中の人は、Aさんのようにきちんとマナーを守る良識のある方ばかりではありません。本人の仕事に支障をきたす場合も出てくるでしょう。
 また、マナーを守るべきなのは電話をしたり音楽を聞いたりするときと同じであるとおっしゃっていますが、シチュエーションがまったく異なります。電話や音楽の場合は、広場や路上や公共の場所に不特定多数が密集するわけではなく、特定の個人がたかだか周囲の数人に対して迷惑を及ぼすだけであり、しかも事故を起こす気づかいなどありません。
 このゲームが他のゲームと違う点は(だからこそ爆発的人気を博したわけですが)、単なる歩きスマホではなく、目的地への行動とゲーム上での展開が一体化しているという点です。「ナビに生えた毛」は、他人のことなどお構いなしの興奮を呼び起こすのです。
 なおAさんは、「ポケモンを求めてさまようわけではなく、目的地に向かって移動している最中に寄り道感覚で捕まえに行く」とおっしゃっていますが、それは節度ある人の話で、すべての人がそうではない証拠に、これまで人が集まらなかったスポットに異常なほど人が集まっていますね。
 また13歳以下に配信されなくとも、親や年長者のスマホを使うことはいくらでもできるでしょう。親がダウンロードして楽しんでいるゲーム(しかもマージャンや競馬ではなく、本来子ども向けのゲーム)を子どもに禁じるのは不可能に等しいのではありませんか。

 以上ですが、いささか大げさに言えば、私はこのポケモンGO現象を、現代社会の愚民化の象徴であるとみなします。あのオルテガが嫌悪した、自分を懐疑することを知らず、数を恃んで自分たちこそが世界の主人であると厚かましくも思い込む大衆――その光景を目の当たりにする思いです。一人一人になれば賢い人はたくさんいるのに、群集心理によって蝟集した人たちは、その限りにおいてやはり愚民です。その間はずっと真正の「他者」と出会うことを避け、冷静で客観的な配慮を欠いた思考停止期間となるからです。
 ところで、開発元のナイアンティックにも文句を言っておきたい。世界地図の精密化の技術をよいことに、地域主体や建造物所有者に無断でポケストップを措定して、何が起きようと知らんぷり。しかも、以下の記事によると、トラブルや訴訟が起きた時は、合意事項規約で巧妙に責任逃れをしているそうです。
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%EF%BD%A2%E3%83%9D%E3%82%B1%E3%83%A2%E3%83%B3go%EF%BD%A3%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%A6%8F%E7%B4%84%E3%81%AB%E4%BB%95%E7%B5%84%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%83%AF%E3%83%8A-%E7%94%A8%E6%84%8F%E5%91%A8%E5%88%B0%E3%81%AB%EF%BD%A2%E8%B2%AC%E4%BB%BB%E5%9B%9E%E9%81%BF%EF%BD%A3%E3%81%8C%E6%BA%96%E5%82%99%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%EF%BC%81/ar-BBuNVO5?ocid=MIE8HMPG#page=2
 まことに自分勝手というほかありません。先にこのブログでマイクロソフトの強引さを指弾した文章を書きましたが、それと同じです。アメリカ式「自由」が無秩序化して歪んだ姿をさらした典型と言えるでしょう。任天堂発の「カワイイ」文化にいい気になってばかりではいけないのです。
 この流行が一刻も早く廃れることを祈ります。

マイクロソフト君、アップグレードの押しつけは犯罪行為ですよ(追記)

2016年06月04日 20時58分02秒 | 社会評論
      





先に表題の記事を書きましたが、私の知人で、いきなりシャットダウン時と同じ画面になり、「アップグレードしています。何%終了」と告知され、手の施しようがなく、あわてて電源を切った人がいました。その後怖くて再起動することができず、当方に相談してきましたので、こちらのPCを立ち上げて、「ウィンドウズ10 勝手にアップグレード開始 対策」と打ち込んで検索したところ、以下のURLを見つけ、防止策を知ることができました。
http://www.lowlowlow.link/entry/2016/03/17/123508

お困りの方、このサイトに行ってみてください。とてもわかりやすく防止方法が書かれています。

しかし、ここには、防止策だけではなく、次のような恐るべきことが書かれていました。

Win10にはバックドアが仕掛けられていて・・・全ての情報はマイクロソフトとアメリカ政府に筒抜けになることも明らかになっています。(テロ対策という意味もある)
中国やソ連ではWindows10は使うなという命令が出ているほどなのですね。日本でも官公庁や大手企業では情報が流出する可能性が高いことからWindows10へのアップグレードは禁止するお達しが出ています。


サイバー攻撃戦争が熾烈を極めていることはニュースで知っていましたが、公的なやりとりに限定されているのだろうと思っていました。ところが上に書かれていることがもし本当だとすると、一般の民間人の情報交換もアメリカ政府に筒抜けであることになります。これは単にマイクロソフトという私企業の悪徳商法であるだけではなく、明らかにアメリカ政府による言論統制です。そういう目論見があるからこそ、あんなにしつこく、強引に10に更新させてしまうのかと思うと、得心がいきます。
「言論の自由」を謳い続けてきたあのアメリカがこんなことをしているとしたら、聞いてあきれます。テロ対策のためにやっているという建前があるからと言って、これを黙って受け入れることはけっしてできません。なぜなら、この強制的なアップグレードの背景には、情報戦争のために、なりふりかまわずプライバシーの侵害を行っている国家対国家の焦りの姿が彷彿と見えてくるからです。その点ではアメリカも中共と変わりません。いえ、反政府的な情報を露骨に遮断する中共よりも、アメリカのほうがより巧妙なのだと言えます。これは「テロ対策」という名のサイバー・テロなのだ考えたほうがよい。
もちろん、筒抜けになっても大して困らないという人が圧倒的多数なのかもしれません。しかし問題はそういうことではなく、「より進化したシステムに無料でアップしてあげます」という民間企業の誘い文句(しかもじつは大して進化していず、トラブルを起こすことの方が多い)を通して、じつはアメリカ政府が民間人のプライバシーを平気で侵害するという、その形式一般なのです。それを自由や人権を最も尊重すると標榜しているはずの国家がやっているということ、その驚くべき欺瞞性こそが問題なのです。
グローバリゼーションの嵐に見舞われている国家が国家としての体裁を保つためには、どんな血迷ったことでもする。ことほどさようにグローバリズムは人倫を蝕んでいるということなのでしょう。私たちは、10へのアップグレードを拒絶して、この流れにどこまでも抵抗しなくてはなりません。その抵抗を、マイクロソフトを通じて行うというのも皮肉な話ですが。
それにつけても、日本のマスコミの情けなさがここでも際立ちます。先の引用が事実とすれば、堂々と報道すべきではないでしょうか。NHKはユーザーの不満の声についてしか報じていませんでしたね。ノーテンキで気づいていないのか、それとも知っていながらいつもの属国根性でわざと隠しているのか。



マイクロソフト君、アップグレードの押しつけは犯罪行為ですよ

2016年05月24日 00時17分51秒 | 社会評論
      





 世界中でもうたくさんの人が経験しているでしょうが、ここのところ数か月、ずっと、マイクロソフト社のOS「ウィンドウズ」のユーザーに対して、「ウィンドウズ10へのアップグレードが無料でできます」というメッセージが画面を占領し、何度×をつけてもしつこく繰り返されてきました。それが次第にエスカレートし、今では日を指定して勝手にアップグレードしてしまうようになっています。その日付も画面上では気づきにくく、しかもPCを開いていなければ気づきようがありません。朝起きてみたらいつの間にか10に変わっていたといった声も多く聞かれます。今日(5月23日)のNHKニュースウェブでも取り上げられていましたね。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160519/k10010527561000.html

 私の場合、8.1を使っているのですが、つい先日、いきなり画面を占領され、一方的に「アップグレードします」と宣告されました。その画面が出ている間、他の画面への移行がまったくできません。しかし「拒否しますか?」というボタンがあるので、もちろんそれを押しました。するともう一度「ほんとうに拒否しますか?」と出たので、やはりそれを押しました。そうしたら起動時の画面に変わり、「数回の再起動が必要です」と出ました。そしてインターネットとの接続が断たれたのです。ちょうど数あるメールを読み込んでいる最中でした。(このあたり、あまりPCに強くないので、このとおりの経過ではなかったかもしれません。)
 これまでもアップグレードのメッセージが出るたびにけっこうイライラしていたのですが、ネットにつながらないとあってはそのイライラもいっそう募ります。いくら再起動を繰り返してもつながらないので、電話で知人に尋ねたところ、画面右下のタスクバーに、PCそのものがネットとの連結を断たれていることを示す「インターネットアクセス」というアイコンが出ているからそこをクリックしてつなぎ直す必要があると教えてくれました。で、その通りにすると、右側から「ネットワーク」の画面が出ます。接続環境を示すいくつかの記号が並んでいます。これは自分が直接使用しているものだけでなく、近所で使われているものまで拾ってしまうそうですね。私はWifiを使っているので、それに適合する記号を記憶の中から何とか呼び出し、それをクリックしました。すると今度は、「セキュリティキー」を打ち込まなくてはならなくなりました。セキュリティキー、セキュリティキー、ええっとどこに記録してあったんだっけ。Wifiをいじくりまわしてもなかなか出ません。説明書にノートしておかなかったっけ? 引っ越しの際にどこかに紛れていくら探しても出てこない(イライラ絶頂)。
 あれこれやっているうちに、ようやくWifiの中に記録されている場所を見つけました。これでようやくネットにつなげることができたのです。見つけてみると「なあんだ」という話なのですが、しかし日ごろこの種の操作をやりつけていないと、すぐにはわからないですよね。おまけに私はPCを始めたのも遅く、しかも高齢者です。私のような人も世の中にはわんさかいるはず。とにかくマイクロ君の押し売りまがい、ストーカーまがいの行為のせいで悪戦苦闘すること2時間、これだけの労働時間をマイクロ君に収奪されたわけです。
 慣れている人なら、こんな悪戦苦闘はお笑いに属するのかもしれません。しかしユーザーの誰もがそんなに慣れているわけはない。困っている人、怒っている人もたくさんいるでしょう。
 ともかく私は、このあこぎなやり方が頭にきたので、多くの被害者がいるに違いないと思い、ネットで調べ、人にも聞いてみました。そうしたら案の定、出てくるわ、出てくるわ。ネットからは一つだけ不満が満載されているサイトを紹介しておきます。
http://togetter.com/li/976577

 人から聞いた話をまとめます。

①古いパソコンを使っていたが、10に変えたらまったく操作不能になり、近所の電気屋さんで調べてもらったら、修復不能と言われ、新しいのに買い替えなくてはならなかった。
②あまり勧誘がしつこいのでつい10に変えたら、使い勝手が違い、慣れることができず変えたことを後悔している。
③7や8.1との互換性が低く、これまで使っていた周辺機器との接続ができなくなった。
④同じく、これまで使えたソフトが使えなくなった。


 私などはまだまだ軽傷で済みました。いずれにしても、これは悪徳商法であり犯罪行為です。いくら無料といっても現に取り返しのつかない被害をこんなに広汎に及ぼしているのですから。
 コンピュータをめぐるトラブルはこれまで数限りなくありましたね。「ヘルプ」などは全然役に立たず、用語からして素人にはわからない。ITに詳しい若い知人・友人がいればいいけれど、いない人はどうすればいいのか。また仮にいたとしても、相手も忙しかったり、時間帯が遅かったりしたら、そうそう気安く人に相談するわけにもいかないでしょう。SEに頼んだら大金を取られるでしょうし、頼んでもなかなか来てくれない。締め切りのある仕事を抱えている人がごまんといるのに、いったいこの体制の不備は何なんだと。
 それでもユーザーは、涙ぐましい苦労を重ねた上で何とか乗り切ってきたのです。複数のベテラン・ユーザーから、「コンピュータは欠陥商品です」というのを聞いたことがあります。安くないお金をかけて買ったのにどう使いこなしてよいかなかなかわからず、ごく普通の消費者に大きな努力を強いたり、いたずらに神経を消耗させるような商品は、明らかに欠陥商品ですね。にもかかわらず、必要上やむを得ないということで、私たちは我慢に我慢を重ね、やっとそこそこ使いこなせるようになったのです。
 それにしても、マイクロ君のこのたびのやり口は度を越しています。こういうことをやって平然としているマイクロ君は、商いというものの基本精神がまったくわかっていません。先述のNHKニュースウェブには、当のマイクロソフト社の担当者の弁が出てきます。

今回の騒動について、日本マイクロソフトの担当者は、無償期間の終了が迫っていることから、通知画面を変更したことが理由ではないかと話しています。
通知画面は5月13日に変更されました。この変更によって画面には「Windows10はこのPCで推奨される更新プログラムです。このPCは次の予定でアップグレードされます」などと表示され、併せてアップグレードが実行される日時が示されるようになりました。
最近この画面を見た人も多いのではないでしょうか。中には、あとでアップグレードしようと思い、右上の「×」印をクリックして表示を消した人もいるかもしれません。
しかし、マイクロソフトによりますと、この操作だけでは、通知画面が消えただけで、予定をキャンセルしたことにはならないということです。そのため、利用者の思わぬ形でアップグレードされるという事態が起きているというのです。


 本当にこのとおりだとしたら、開いた口が塞がりません。これではまるで、いいものを勧めてやっているんだから、きちんと認知して理解しないお前らのほうが悪いと言っているようではありませんか。こういうことを平然と言い放つ担当者は、傲慢そのものです。商品を売る人が顧客に対してわきまえるべき反省点が何も備わっていないのです。反省点とは、
①10が果たして普通のユーザーにとって本当にいい商品なのかをまったく疑っていない。
②自分で勝手に通知画面を変更しておきながら、「理由ではないか」とは何事か。まず不手際を詫びるべきではないか。
③「この操作だけでは、予定をキャンセルしたことにはならない」などと澄まして説明する前に、「宣伝に行き過ぎた点がありました」と頭を下げるべきではないか。
④アップグレードへの誘導をどんどんエスカレートさせて強制的なところにまでたどり着いた結果として混乱した事態が起きているのに、その点について何も触れていず、まるで他人事のように、×をつけたユーザーの理解不十分が混乱の原因だと言っているかのようである。

 車や家電製品に少しでも欠陥が見つかれば直ちにリコールになり、しかもその企業は一気に評判を落とすのに、電子情報産業には、こうした顧客第一を考える商習慣がまったく身についていないようです。誰か訴訟を起こしてもよさそうな事態なのに、受ける側も、とにかく新しい世界なので「自分がマスターできていないのが悪い」と殊勝にも考えてしまうのでしょうか。しかし我慢せずに憤りを率直に表現すべきだと思います。
 ところで、マイクロ君はなぜこんな強引な商法に打って出たのか。以下の資料によると、これまでのいくつものヴァージョンで成功と失敗を繰り返してきたマイクロ君は、7が成功したのに8で失敗したために、7の次世代版を狙って10で起死回生を試みようとしているということのようです。ところが7の人気は根強く今でも約半分のシェアを占めるのに、10はせいぜい15%、そこで期限付き(2016年7月まで)無料アップグレードを続けることで一気にシェアを拡大させようという魂胆らしい。しかし無料期間が終わったら果たして多くのユーザーが更新するかどうかは未知数だと、この資料の著者も言っています。
http://potato.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1456187443/

 何よりも、こういう調子でユーザーの意向を無視したくるくる変える強引な商法を続けていく限り、遠からぬうちに7や8の対応商品はもう打ち切りですということにするに決まっています。「技術革新」という信仰に取りつかれて、多様な顧客の気持ちに配慮することを忘れてしまったマイクロ君。君には職業倫理というものがないのか。「三方よし」の近江商人をちっとは見習うといい。
 とにかくこんなことを続けていると、そのうち愛想を尽かされて、じゃあいっそアップルに変えようという人が大量に出てくる可能性がありますよ。特に日本では私のような高齢者のユーザーがこれからますます増えるでしょうから、若い人だけをターゲットにしたこんな変化のスピードにはもうとてもついていけないと感じるようになるでしょう。悪徳商法から早く足を洗った方が身のためだと思いますけれどね。少なくとも私は、使い慣れた今のOSを変える気はまったくありません。


「同姓制度は合憲」判決について(その2)

2015年12月19日 16時29分13秒 | 社会評論

      





Ⅱ.別姓問題の世論調査は人々の心をつかんでいるか

 さて、この判決が出た12月16日の夕刻、NHKラジオがこの問題を取り上げていました。早稲田大学法科大学院教授の何とか言う人が、この判決に対する不満を述べ立てていましたが、NHKは、公正中立を装いながら、なぜ判決支持者のゲストも呼ばないのか。例によって、得意の偏向企画です。
 それはともかく、もっと大事なのは、NHKが夫婦別姓に賛成か反対かについて行った最近の世論調査の結果によると、反対51%、賛成49%で拮抗していると報じていた点です。世代別では、年長者に反対が多く、若い人には賛成が多かったとも。
 この報道のどこが問題かと言うと、これは少しも「拮抗」を示しているのではないということです。というのは、「賛成」と答えた人の中には、「選択制なら一般的には容認してもいい」と考えて票を投じた人が少なからずいたに違いないからです。私は何年も前に、朝日新聞が「別姓賛成が反対を上回る」という見出しのもとに、狡猾な世論操作を行っているのを批判したことがありますので、そのことがよくわかるのです。
 今回の場合は、賛成者の内情がよくわかりませんから、NHKも朝日と同じような世論操作を行っていたとは思いませんが、賛成者の中に、「制度としての選択制なら容認してもいい」と考えた人が多くいたことは確実に思われます。何を言いたいかと言うと、この人たち(特に未婚の若い人たち)が、「ではあなたは別姓を選びますか」と問われたら、おそらく「私は同姓にするでしょうね」とか、「うーん、ちょっと考えちゃいますね」とか答える人が大多数を占めるだろうということです。確信的に「私は別姓にします」という人などほとんどいないのではないでしょうか。また、そう答えた人でも、仮に結婚時に選択的別姓制度が許されていたとして、実際に結婚する段になれば、相手と相談しながら親の意向、周囲の目、子どもの問題など、いろいろなことを顧慮しなくてはなりませんから、本当に踏み切るかどうか怪しいものだと私は思っています。
 つまり、一般的にある法制度を容認できるかどうかという問題と、自分がそれを選ぶかどうかという問題とはまったく別だということです。だから調査として公正を期すなら、法制度として否認するか容認するかを問うと同時に、「別姓が容認されていたらあなたの生き方としてどうするか」という問いを付け加えなければ意味がないのです。婚姻は当の両性の合意に基づいて成立するのですから。
 ある問題提起に賛成か反対かを表明する時に、その問題がさしあたり自分の人生や生活に切実な影響を与えないなら、多くの人々は、冷静さや公正さを気取りたがって、深く考えもせずに無責任な一票を投ずるものです。
 ところで、次のような話はよく聞くところです。好きになった相手の姓を名乗ることで、その人との一体感を実感できるし、また実家からの自立を確認できる。ああ、自分は人生の重要な一歩を踏み出したんだなあ、という感慨が得られる、と。つまりこの場合は、アイデンティティの変容が、かえって女性としての成熟へ向かっての歩みを意味するわけです。
 こうしたところに、日本近代が定着させた独特な国民性があらわれているので、その国民性とは、エロスの結びつき、またそこから生まれてくる家族関係というものの重要性に対する深い感知力ではないかと思います。同姓制度は、日本近代が定着させた独特な国民性にもとづくと書きましたが、もしかすると、法的制度的表現としては現れなかったものの、この感知力の深さは、情緒を重んじるわが国の、ずっと古くからの伝統だったのかもしれません。そういえば、古代神話もイザナキ、イザナミの二柱の神による出産を国造りの重要なメタファーとしていますね。
 こういう情緒的な感知力の部分に探りを入れずに、ただ一般的に「賛成か、反対か」と問うようなデジタル式世論調査の方法は、人々の心に迫りえていないというべきでしょう。
 もともと別姓問題は、ごく少数の政治的意図を持った人たち(主としてフェミニスト)が主張して社会問題として提起されるに至ったもので、それまでは普通の人々(女性)はこんな問題にそれほど関心を持っていませんでした。いまでも大して持っていないでしょう。別姓論者たちは、日本の社会常識に簡単には受け入れられないと見るや、すぐに西洋の例などを持ち出して、マスコミや司法を動かし、問題を大げさに仕立て上げます。世論調査の結果は、そうして提起された「問題」に、ただ受動的に反応しただけだと言えます。別に西洋など見習う必要はなく(別の問題では見習う点ももちろんありますが)、特に問題がないなら、日本は日本なりの慣習を続ければよいのです。

Ⅲ.判決に反対した最高裁判事は、論理的におかしい

 最後になりましたが、じつは今回、一番指摘したかったのは、この点です。
 このたびの判決では、裁判官15人のうち、女性3人を含む5人が同姓制度合憲の判決に反対の立場を示し、3人の女性裁判官が反対意見を述べました。産経新聞12月17日付によりますと、その意見は次のようになっています。

 一方、反対意見を述べた3人の女性裁判官は、婚姻した夫婦の96%が夫の姓を名乗る現状を問題視。「女性の社会的経済的立場の弱さなどがあり、意思決定の過程に現実的な不平等がある」と言及した。

 これは司法判断として、論理的に間違っています。先にも述べたように、96%が夫の姓を名乗ることそのものは、憲法第24条の「婚姻は両性の合意のみに基づく」という規定に叶うものであって、それ自体、何ら「現実的な不平等」を表すものではありません。夫が妻に「俺の姓を名乗れ」と強要したものではないからです。両性の合意の結果、自然と(これまでの慣習によって)そうなっているのです。ですから、これは合憲以外の何ものでもありません。ちなみに私自身は、この24条は、憲法としては国民の私生活に踏み込んでいるという意味で、近代法の精神に適合せず、よって不要であると考えていますが。
 違憲立法審査は、特定事案が違憲か合憲かをめぐって行われます。この裁判は、夫婦同姓制度(のみ)がその事案に当たるのであって、現実に何%が夫の姓を名乗っているか妻の姓を名乗っているかは司法判断として問題にならないはずです。当判決に反対したということは、とりもなおさずこの3人の裁判官は、同姓制度そのものを違憲と考えているということになります。
 ところでその理由として、96%の現状を問題視してそこに女性の社会的経済的立場の弱さの存在を持ち出しているということは、違憲判断とは関係のない現状批判を行ったわけです。これは違憲立法審査権を著しく逸脱しています。
「女性の社会的経済的立場の弱さ」が、96%の現状に反映していることを証明するためには、現に「これこれの立場の弱さのために私たちは不本意にも夫の姓を名乗ることになった」という一定の声が存在するのでなくてはなりません。しかしそんな声が上がったことがあるでしょうか。現実社会に存在する「女性の社会的経済的立場の弱さ」(とは抽象的であいまいな表現ですが)と、大部分の女性が夫方の姓を名乗ることとの間には、論理的な因果関係は認められません。稼ぎや地位が夫より高くても、夫方の姓を名乗る女性はいくらでもいるからです。
 ところで、ここから先は私の想像が混じりますが、こうした反対意見を述べる人たちは、たとえば先に国会を通過した安保法制に対しても反対意見を抱いているとみてまず間違いないでしょう。しかし、あの時、ほとんどの憲法学者は、安保法制(集団的自衛権の容認を含む)に対して違憲であるとの判断を下しました。私もあれは違憲であると思っていますが(だから憲法の方を変えるべきなのですが)、憲法学者・小林節氏がいみじくも述べたように、憲法学者は、現行憲法の条文と立法事案との間に齟齬がないかどうかを純学問的に判断するのみであって、現在の国政に関わる政治判断を含むものではないはずです(もっとも小林氏はかつて護憲派ではなかったと記憶しておりますが、いつの間に「節」を曲げたのか、その風見鶏的な姿勢には疑問を感じざるを得ません)。
 しかし現実にはその判断は、背後に左翼思想を背負っているので、政治判断に大きな影響力を及ぼします。けれどもこれは司法の独立性の観点からは、あってはならないことなのです。
 このたびの女性裁判官の反対意見は、司法の立場にありながら、そのあってはならないことをやっているのです。なぜならば、夫婦同姓制度が合憲か違憲かどうかを争う裁判に、論理的な脈絡のないあいまいな現状認識を持ち込んでいるからです。ここには、この裁判官たちが、当然の法理に従わず、特定のイデオロギー(フェミニズム・イデオロギー)に左右されている実態があらわです。彼女たちは、司法の独立性を貫いていないのです。今後、国民審査の機会が訪れた際に、この裁判官たちに×をつけることにしましょう。


「同姓制度は合憲」判決について(その1)

2015年12月18日 00時13分27秒 | 社会評論

      




 2015年12月16日、最高裁は、選択的夫婦別姓制度の設立を目指す人々が起こした、現行民法の夫婦同姓制度は違憲であるとの訴えに対して、その訴えを退け、夫婦同姓は合憲であるとの判断を下しました。
 この問題は、二十年以上も前からフェミニストを含む一部の人たちによって提起されてきた問題ですが、今回の判決によって一応の決着を見たことになります。これについて、思うところを述べます。
 じつは私は、比較的早い時期からこの問題に関する私見を発表してきました。いろいろな理由から、民法の夫婦同姓制度は維持すべきであるというのがその結論なので、この判決自体には同意するわけですが、このたびこれについて新たに書こうと思った本来の動機は、ちょっと別のところにあります。
 しかしそれを書く前に、私がなぜ選択的別姓制度を採用すべきでないと考えるか、また、最近行われたNHKの世論調査の結果などを見てどう感じたかについて、ざっとまとめておきます。

Ⅰ.なぜ選択的夫婦別姓制度を採用すべきでないか

 ふつう夫婦別姓論者に反対する人たちの多くは、これを採用すると家族が崩壊する危険があると反論します。しかし、こう反論しただけでは、いささか感情的で、性急の感が否めません。というのは、別姓論者は、表向きはあくまで多様な選択肢を求めているので、同姓をやめろと言っているわけではないからです。ためしに別姓の主張を法的に容認してみたら、じっさいには、これまでとほとんど変わらない可能性が大きいと私自身は思っています。なぜそう思うのか、これから述べます。
 現行民法の規定では、男女どちらかの姓を選ぶことができるようになっています。つまり山田君と中村さんが結婚した場合、山田君が中村姓に変わってもかまわないわけです。それにもかかわらず、96%の女性が旧姓を捨てて夫側の姓を名乗るというのが現状です。
 明治31年(1898年)に施行された戦前の旧民法では、婚姻が成立した場合には夫方の姓を名乗ると決められていました。家父長制度が確立した時代であり、女子に参政権も認められていなかった時代のことですから、まあ当然と言えば当然ですね。しかし戦後これが改められ(昭和22年、1947年)、どちらを名乗ってもいい、ただし一つに統一せよ、ということになったわけです。
 現在は、旧民法成立から数えて約120年、新民法から数えて約70年経つわけですが、初めの50年間に妻が夫方の姓を名乗る慣習が定着し、その後、新憲法下で法的な男女平等が謳われました。すると、どちらの姓を選んでもよいことになってからすでに70年経過したのに、この慣習はほとんど少しも揺らがなかったことになります。そこには、法的なルールのような形式では表現されない日本独特の伝統的国民性のようなものが作用していたと考えるのが自然でしょう。形式的な男女平等を振りかざしても、歯が立たない所以です。
 一般庶民が姓を名乗ることが定められたのが明治3年(1870年)ですが、じつは驚くべきことに、その6年後の明治9年の太政官指令では、夫婦別姓が確定されたのです。これは儒教的な「家」観念を適用しようとしたもので、事実、その伝統が生きている中国や韓国ではいまだに夫婦別姓です。しかしわが国ではこれは定着せず、たいていの妻は結婚すると夫方の姓を名乗るという慣習がすでに根づいていました。やむなく政府は20年後にこの慣習を法的にも認めることにしたわけです。
 そうすると、夫婦同姓の歴史は、実質上、150年近く続いてきたことになります。別姓論者はよく、現在の同姓制度は押し付けられた古い家制度の名残だと言ってこれを排斥し、別姓がそれを打ち破る新しい考え方だと主張しますが、それは勘違いです。足利義政(生母は日野重子)と日野富子の例などを見ればわかるように、本当は別姓制度のほうが、儒教的「家」観念(出自を重んじる観念)を体現した古い考え方にもとづいているのです。
 こうして、夫婦同姓の慣習は日本近代の黎明期に普通の庶民が選び、やがて生活のなかで定着させていったもので、すでに相当長く根強い歴史を閲してきたわけです。言い換えると、夫婦同姓は、すぐれて近代的な慣習なのであり、戦前の家父長制度下においては、それが過渡的な形であらわれていたと言えるでしょう。
 ここで近代的な慣習とは、それが、新しく生じた夫婦を一体的なものとみなす思想を表現しているということです。そしてこの一体性の表現は、西洋とはまた違った、日本近代独特の良俗でもあるのです。
 この慣習の根強さがある限り、選択的別姓制度などを導入しても、習慣の強さの方が勝つと私は睨んでいます。したがって、別姓を「新しい」進歩的な制度と考える別姓論者の主張も間違いなら、反対に、別姓制度が家族の絆を壊すと心配する保守派の危惧も、それだけではあまり確実な論拠とならないのです。

 しかしそうすると、それならお前は選択的別姓制度に反対する理由はないじゃないかと反論されそうですね。たしかに夫婦関係だけに着目している限りは大して反対する理由はありません。しかし、夫婦の一体性を法的に象徴する同姓制度は、他のいろいろなこととの関係で考えると、やはり人倫を守るべき優れた防壁の一つであると考えられます。
 一つは、子どもの問題です。別姓論者の多くに見られる傾向ですが、彼らは、大人である自分たち「個人」の権利ばかりを重んじて、子供の立場を軽視する傾向があります。すでに言われていることですが、母親または父親と自分とで姓が違うというのは、小さな子どもの心理を不安定にするでしょう。さらに複数の子どもがいる場合、兄弟姉妹で姓が違うというケースも考えられます。
 これらは、彼らの周囲、保育園、幼稚園、学校などで、要らぬ混乱、心理的トラブルを生み出しかねません。幼い子どもは、もともと自分の家族を一体のものとしてとらえています。彼らにとって、帰るべき「おうち」の観念はとても大切であり、その「おうち」が一つの名前で統一されているということはごく当たり前のこととして受け入れられるでしょうが、もし「おうち」の名前が複数あってはっきりしなければ、彼らのアイデンティティを混乱させるでしょう。名前というものは、個人のアイデンティティにとって大切な意味を持ちます。
 別姓論者は、旧姓が変わるとアイデンティティが崩れるなどと主張しますが、そういう彼らが、子どものアイデンティティの問題をしっかり考えてあげないのは不思議と言わざるを得ません。成人はすでに一定程度アイデンティティを確立しているので、むしろデリケートな配慮が必要とされるのは、子どものアイデンティティです。その意味で、今回の判決で、寺田逸郎最高裁長官が、補足意見のなかで子供視点での議論の深まりを求めているのは、わが国の慣習によく配慮を行き届かせた、きわめてニュアンスに富むものとして評価できます。
 わが国の一般庶民が子どものアイデンティティを非常に大切にしている一つの証拠に、婚外子の出生を嫌う傾向が顕著であるというのがあります。次の二つのグラフをご覧ください。同じ先進国でも、日本は西洋と違って、子どもを正式に両親の子として認知してもらいたい(認知させたい)という要望がたいへん強いことがわかります。これは、世界に冠たる良俗であるとは言えないでしょうか。



 もう一つは、先にも触れたように、別姓はむしろ儒教的「家」観念に基づく古い制度なので、一人娘または一人息子が結婚した場合、実家の親や親族のほうが婚家または夫婦に対して、別姓であることを理由に、その娘または息子の自家への帰属を主張しかねません。夫婦別姓は、そういう古い考え方の人を喜ばせる制度なのです。これは新たな親族間紛争の種になる可能性があります。
 さらに、別姓を認めると、現在の戸籍制度の大改革が必要になります。役所の事務もきわめて面倒になるでしょう。そこまで煩雑なことをして、別姓などにする意味がいったいどこにあるのでしょうか。

 別姓論者の言い分は、仕事の面で旧姓を使えないことの不利益の解消、形式的な男女平等論、それに先ほど挙げた、姓が個人のアイデンティティとして大切だという主張です。後の二つは論拠として薄弱であることはすでに述べました。最も重要な論拠ははじめのものですが、これは、今回の判決理由でも明記されている通り、企業や役所が通称使用を認めれば問題ありません。
 現にこの20年の間に旧姓使用を認める上場企業は、18%から65%へと急上昇しています。また、公務員は本人の申し出があれば旧姓を使用することができますし、弁護士など多くの国家資格も、仕事上の通称使用を認めています(産経新聞12月17日付)。
 結局、別姓論者の論拠は、ほぼ崩れ去ったと言ってもよいでしょう。  
                                   (つづく)

元朝日新聞記者・植村氏の処遇について

2014年12月18日 18時07分48秒 | 社会評論
元朝日新聞記者・植村隆氏の処遇について




 2014年12月18日付の朝日新聞によりますと、北星学園大学は、いわゆる従軍慰安婦問題に大きな「功績」があった同大学非常勤講師の植村隆氏との雇用契約を来年度も更新することを発表しました。その記事の重要部分を以下に抜粋します。

 北星学園大には3月以降、植村氏が朝日新聞記者時代に書いた慰安婦問題をめぐる記事は捏造(ねつぞう)などとする電話やメールが相次いだ。5月と7月には植村氏の退職を要求し、応じなければ学生を傷つけるとする脅迫文も届いた。10月には、大学に脅迫電話をかけたとして60代の男が威力業務妨害容疑で逮捕された。

 田村学長は10月末、学生の安全確保のための警備強化で財政負担が増えることや、抗議電話などの対応で教職員が疲弊していることなどを理由に、個人的な考えとして、植村氏との契約を更新しない意向を示していた。しかし、その後の学内での議論では学長の方針に反対する意見が相次いだ。中島岳志・北海道大准教授や、作家の池澤夏樹さんら千人以上が呼びかけ人や賛同者に名を連ねた「負けるな北星!の会」が発足するなど、学外でも大学や植村氏を支援する輪が広がりをみせた。

 大山理事長は「脅しに屈すれば良心に反するし、社会の信託を裏切ることになると思った」と述べ、植村氏との契約更新に賛成の立場だったことを明かした。

 契約が継続されることになった植村氏は「これからも学生たちと授業ができることを何よりもうれしく感じています。大学も被害者で学長はじめ関係の方々は心身ともに疲弊しました。つらい状況を乗り越えて脅迫に屈せず、今回の決断をされたことに心から敬意と感謝を表します」とのコメントを出した。(関根和弘)


 ■支援者スクラム、よい先例に

 「負けるな北星!の会」の呼びかけ人で精神科医の香山リカさんの話 「学問の自由」は憲法にもうたわれ、長い歴史を持つ重要な問題です。この間、事件そのものより元記者や朝日新聞社の責任を問い、間接的に脅迫を肯定するかのような議論が、ネットを中心に一部で見られたのは大変残念だった。万一、また学問の自由や大学の自治を侵害する卑劣な行為が起きた場合、大学内部で対処せず、今回のように情報公開し、外部の支援者がスクラムを組んで大学を守る方法が有効ではないか。その意味でよい先例になったと思う。


 一読してなんてひでえ話だと思いました。あきれてものが言えないとはこのことです。でもあえてものを言います。
 ひでえ話というのは、北星学園大学が植村氏との雇用契約を継続することに決めた事実そのものにあるのではありません。そんなことは勝手にやればよい。ここには、それとは別に何重にもからまった「ひどさ」が見られます。それを解きほぐしてみましょう。

 まず第一に、この記事が当の捏造を行った朝日新聞によって書かれているという事実。
 この記事では、形ばかりの謝罪と社長辞任でお茶を濁した朝日が、捏造の張本人である植村氏に対してどういう見解を持っているのかが一行も書かれていません。その代わりに「負けるな北星!の会」とやらから有名知識人三人を担ぎ出して、自分たちおよび植村氏があたかも世の不正に対して雄々しく闘っているかのごとき論調を、恥ずかしげもなく示しています。不正を犯し、国益を著しく毀損したのはいったい誰なのか。そういう反省の意識が、朝日にはまったく見られないことがこれでよくわかります。
 もちろん、植村氏を辞めさせないと学生を傷つけるとの脅迫文を大学に送りつけるなどの行為は、卑劣そのものです。植村氏の慰安婦問題にかかわる言動自体は、大学当局には直接関係がありませんから、社会的制裁は植村氏自身に向けられるべきです。そしてその方法も、本人の記者会見による釈明を求めるとか、捏造記事を書いた人間が大学で教える資格があるかどうかを言論機関を用いて問題化するといった形を取るべきでしょう。
 しかし朝日のこのたびの不祥事に対する世の大方の心情が、きわめてネガティヴなものに傾いていることも事実であって(じっさい朝日はそれに値することをし続けてきたのですから)、脅迫などの感情的行動もその過激な一面としてとらえることができます。朝日はそういう非難攻撃の刃を、まず自分自身の問題として真摯に受け止めるべきなのに、その形跡が微塵も見られません。こんな新聞に何を期待しても無駄でしょう。

 第二に、当事者である植村氏が、救ってもらってうれしいというだけの、何とも情けないコメントを出していること。
 一応、一流紙を気取ってきた新聞のジャーナリストなら、それなりの誇りというものがあるでしょう。記者会見にも応じずこそこそ陰に隠れて、脅迫に対して自ら立ち向かう姿勢も見せず、ひたすら大学当局や行政府やバカ知識人の援助とガードに依存して、「心から敬意と感謝を表します」とは何事か。言論人として闇の権力を握ってきたのだから、自分の不始末は自分でつけたらどうでしょう。あるいは、自分のしたことを悪いと思っていないなら、その信念を堂々と開陳したらよろしい。まったく言論人の風上にも置けない人とはこれを言います。
 たかだか非常勤講師職程度のものをさっさと捨てることもできずに汲々としているこんな臆病者に教わりたいと思う人がいますかね。学生諸君、北星学園大学に入学しても、植村氏の講義だけはボイコットしましょうね。ちょっと万引きしても盗撮しても、見つかれば犯罪者扱いです。植村氏は「情報犯罪人」なのだから、最低限それくらいの社会的制裁は受けるべきでしょう。

 第三に、大学の態度ですが、これまた事なかれ主義でうろうろ彷徨うへっぴり腰も甚だしい。仮に植村氏の所業が当大学の教員としてふさわしくないと考えたのなら、さっさと辞めさせればよい。というのも、彼は別にお料理を教えているのではなく、まさに新聞を使って世界情勢を解説する講義を行っているのだから、前歴からしてその講義内容に疑問符が付くのは当然です。泥棒の前科がある人が講師として迎えられて、学生に盗みの手口を教えるようなものでしょう。
 またもし植村氏のこれまでの言動を正しいか、または、これくらいなら大学で教鞭をとるのに差し支えない許容範囲だと思うなら、大学当局の名でその根拠をきちんと説明した上で、よって雇用を継続すると言明すればよい。とにかく、「学問の自由」を標榜するなら、植村氏の雇用継続の是非にかかわって、大学として朝日新聞のこのたびの不祥事についてどう考えるのか、具体的な内容に踏み込んだ声明くらいは出すべきではないでしょうか。それくらいの主体的な判断ができないとは、学問の府としての名が泣きます

 第四に、中島岳志氏、池澤夏樹氏、香山リカ氏の三人の知識人ですが(ほかにもたくさんいるのでしょう)、この人たちは、知識人としての役割をなんら果たさないままに、「負けるな北星!の会」とやらに参画して、自分の名前の力と群れの力を利用して、ひたすら知識人村の防衛に走っているようです。一人で闘わずに、こういう「集団的自衛権」を平然と行使するインテリたちは、大江健三郎氏、柄谷行人氏、坂本龍一氏、内田樹氏など、これまで腐るほど見てきましたが、不思議なことに、この人たちの口から、なぜそういう運動集団を作るのか、個々の問題に即した説得力ある言論を聞いたためしがありません。つまり彼らは、知識人としての役割をなんら果たしていないのです。
 今度の場合も同じで、いやしくも言論を物する人士なら、少なくとも朝日新聞が自ら「誤報」(じっさいは意図的な捏造)と認めている従軍慰安婦問題について、自分はどう考えるのかをはっきり言明してから、集団参加を決めるべきではないでしょうか。精神科医を自称する香山氏の口から「学問の自由は憲法にもうたわれ」などと陳腐なセリフを聞きたくありません。朝日新聞が歴史の捏造に一役も二役も買っていたことが明るみに出たのは、秦郁彦氏をはじめとした学者に「学問の自由」が保障されていたからこそではありませんか。
「この間、事件そのものより元記者や朝日新聞社の責任を問い、間接的に脅迫を肯定するかのような議論が、ネットを中心に一部で見られたのは大変残念だった」とは恐れ入り谷の鬼子母神。元記者や朝日新聞社の責任を問う議論がどうして「大変残念だった」のか。自ら言論の自由を否定している、そのあっと驚く言い分を前にしては、香山氏自身の精神状態を疑わざるを得ません。医者の不養生とやら。お気を付けあそばせ。
「外部の支援者がスクラムを組んで大学を守る方法が有効ではないか」というのも、神経を疑います。守られたのは大学ではなく、植村氏自身ですよ。大学はむしろこのたびの決定によって、さらなる脅迫にさらされないとも限らない。しかしその場合でも、知識人村防衛軍のスクラムなどは必要なく、大学が独自の判断で警察に届けたり、植村氏の処遇について改めて考えれば済む話です。それくらいの自立性と責任を担わずに、何が大学の自治でしょうか。
 香山氏はじめここに登場した知識人の方々は、世に理不尽な目に遭っている人がごまんといるのに、その人たちを個別に「守る」スクラム行動に出たことがあるのですか。私もないので、口幅ったいことは言えませんが、少なくとも、学問、言論の自由を悪用した「情報犯罪人」を守るような振る舞いだけはやめた方が身のためですよ。

 朝日新聞という捏造メディアから甘い蜜をもらって群がる知識人村の人々よ。自分たちがどれほどこういうインチキなマスコミの薄汚いプロパガンダに利用されているのか、まずはその自覚を骨身に叩き込み、そこから自分の言説を立て直すことをお勧めいたします。

道徳教育よりも自立促進教育を(SSKシリーズ16)

2014年12月11日 14時24分25秒 | 社会評論
道徳教育よりも自立促進教育を(SSKシリーズ16)



 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。

                                  
【2013年12月発表】
                 
 またまた私の勤務する大学での話。このたぐいのことは随所で書いているので、この欄で以前書いたこととも重複するかもしれません。
 ゼミで乙武洋匡氏の『五体不満足』を使って発表させています。
 この中の一節。「目の前にいる相手が困っていれば、なんの迷いもなく手を貸す。常に他人よりも優れていることを求められる現代の競争社会のなかで、ボクらはこういったあたりまえの感覚を失いつつある。助け合いができる社会が崩壊したと言われて久しい。そんな『血の通った』社会を再び構築しうる救世主となるのが、もしかすると障害者なのかもしれない。」
「障害者が救世主」とは乙武クン、ずいぶん大見得を切ったものですが、今それは問いません。
 一学生がこの部分を引いて「今の若者は優先席の前にお年寄りがいても知らん顔をしている」と報告しました。私はこの種の道徳オヤジ伝来の言葉に接するとすぐ反応する癖がついています。「そうかな。私は六十何年生きてきたが、昔に比べて若い世代のほうがマナーはずっと良くなっているよ。君たち自信をもちなさい。震災の時にもボランティアが一斉に立ち上がったでしょう」。学生は「そうですか」と安心したふうでした。
 日本人のマナーの好転については実感だけでなくいろいろと客観的なデータがありますが、それに一番貢献しているのは、この半世紀の間に富が平均的な階層に行き渡ったことです。豊かさが失われれば公徳心も失われます。道徳というものはそれだけ取り出して頭から教え込んでも生きた現実にはならないし、局部的な頽廃現象を見つけたからといってそれをただ嘆いてみせてもどうにもなりません。
 書名を忘れましたが、明治時代から車内での「化粧」や「迷惑な騒ぎ」や「床に座り込む」光景が見られた事実を克明に調べた本が最近出ました。そうに決まっています。
「全くいまの若者は……」云々は、ピラミッドの壁にそう書かれてあったというジョークがあるくらい陳腐きわまるセリフです。この視野の狭さが気になります。まあそう叫び続けていないと不安でたまらない人が多数派なのでしょうな。
 でもこの種の叫びは、目下に苛酷なことを強いてどこまでも我慢させる悪弊を助長してもきました。だからこそ身分制社会の「しきたり=規範」が壊れて近代の自由が成立したのです。もしそこから生じる個人主義の弊害というコストの支払いを止めたいなら、時計の針を元に戻すしかありません。
 教育界では道徳を正課として取り入れることになり、一部の保守派団体から道徳教科書が出版されて評判を呼んでいます。私はサヨクではないので「戦前の修身の復活だ!」などと非難するつもりはないけれど、こんな試みの有効性を疑います。もはや公教育そのものが無限に多様化した文化環境の一部を占めるに過ぎないからです。
 それでも「心の教育」とやらを公教育現場で果たしたいなら、この複雑な社会でなるべく自立的に生きていけるようにするために、社会ルールのあり方、正当なお金の稼ぎ方、適性に合った職業の選び方、不当な処置を受けた時の闘い方など、具体的な指針を示す教育に力を入れるべきでしょう。

ワールドカップやぶにらみ

2014年06月19日 20時51分11秒 | 社会評論
ワールドカップやぶにらみ




 ワールドカップたけなわです。日本は初戦敗北、第二戦引き分けと苦戦していますが、これ以降、悔いのない闘いをしてほしいと思います。
 ところで、今回のブラジル大会では、会期までに会場や選手村の準備が整わなかったとか、治安が不安定なので行かないほうがいいとか、反FIFAのデモが盛り上がって警察が鎮圧に躍起になっているとか、試合そのものの外側の事情がしきりに問題にされていますね。各国の選手団もこういう事情を知らないはずはなく、表には出さないものの、見えないストレスを相当ためこんでいると推測されます。また開催に反対するデモ参加者たちは、社会的インフラや医療や教育を充実させることを優先させるべきなのに、国が大量の税金を大会のためにつぎ込んでいることに対して、一様に不満を訴えています。
 試合の中身も気がかりですが、それとは別に、これはいったい何を意味しているのかということをきちんと考えておく必要があるでしょう。大会の見かけの華やかさに幻惑されてその問題が不問に付されるようなことがあってはなりません。
 ざっくり言ってこの事情は、スポーツの世界大会を開催するほどの余裕と実力のない国が、一種の「見え」を張って巨費を投じているところから起きてきたものとみなして間違いではないでしょう。
 じつはこのことは、四年前の南アフリカ大会でも当てはまることでした。次の新聞記事(一部)をお読みください。この記事は、産経新聞の「環球異見」という欄に掲載されたものです。この欄は、時の話題に応じて世界各国の有力紙の社説を要約して報告する欄で、偏りのないきわめて公平な姿勢を貫いています。ふだんは、ニューヨークタイムズやワシントンポスト、フィナンシャルタイムズや人民日報などが多いのですが、今回はワールドカップにちなんで、「プレトリア・ニュース」という南アフリカの新聞記事が採りあげられています。文中、「主張」とあるのは、プレトリア・ニュース社の主張という意味です。

 主張では、南アでのW杯開催が国民の福祉改善に役立っていない実態を指摘し、「社会的な改革が必要で、かつ、予算も限られた国家は、見えのためにW杯や五輪などの大プロジェクトに巨費を投じるべきではない」と訴えた。
 世界の注目を浴びた前回大会では、W杯開催が経済を底上げし、南アの将来にプラスの影響をもたらすとの見方が大勢を占めていた。
 しかし、主張は「チケットの天文学的値段は、大多数の国民を競技場から排除した。国民の団結につながったのかは大いに疑問がある」と強調し、「受益者は建設会社とセメントメーカーなどの関連産業、そして清涼飲料とハンバーガー製造会社くらい。約束されていた外国投資や雇用の増大にはつながらなかった。代わりに、物価だけが上昇した」と切り捨て、大会開催は失敗だったと結論づけた
。(6月11日付)

 このプレトリア・ニュースの指摘が事実とすれば、南アの実態をごまかさずに直視した、国内におけるなかなか辛辣な批評だと言えるでしょう。各国のスポーツジャーナリズムがサッカーの世界大会で浮き立っているまさにこの時期に、あえて冷水を浴びせるようなこういう主張を堂々と載せるその論調に、ある種痛快なものを感じるのは私だけでしょうか。
 思えば南アのW杯だけではなく、2008年の北京五輪は環境や開会式口パクなどいろいろな問題が指摘されていたし、2012年のロンドン五輪も経済効果はなかったと言われています。また今年のソチ冬季五輪は、反政府勢力のテロや暴動に対する厳戒態勢のうちに行われて、かなりの無理を感じさせました。さらに2018年に開催予定の平昌(ピョンチャン)冬季五輪も、韓国経済の現状を考えると、本当にできるのかね、という危惧をぬぐえません。
 これらを考えると、昨今やたら頻繁に行われるようになった世界スポーツ大会というのは、「スポーツは国境を超える」の美名と派手な演出のもと、国内外の深刻な政治問題、経済問題を隠蔽する機能を果たしているだけではないかという意地悪な見方をせざるを得ません。
 さて、上に挙げた各国のうち、イギリスを除くすべての国が、いわゆる「新興国」に属するという事実を見逃すわけにはいきません。ブラジル、ロシア、中国の三つは、リーマンショックまではいずれもBRICs諸国などと呼ばれて大いにもてはやされたものです。最後のsの字を南ア(South Africa)とする見方もあります。
 なお中国はGDP世界第2位を誇っていますが、中国の統計がまったくあてにならないことは周知の事実ですし、不動産バブルもはじけて成長率は一気に鈍化しつつあります。また韓国は一応先進国ということになっていますが、深刻なアジア通貨危機に見舞われ、国内的な底力がないため、いまや経済的な主権を完全にグローバル資本に握られていますから、見かけだけの先進国と呼んでもいいでしょう。
 したがって、ここ近年、世界的なスポーツ大会の開催国は、ほとんどがその余裕と実力を持たないのに、国威発揚と自国宣伝のためにあせって名乗り出て、結果としてかなりの無理を強いられることになったと言っても過言ではありません。泣きを見るのは、当の開催国の国民です。

 ところで重要なのは、単にそうした現象を確認するだけに終わらせるのではなく、なぜ近年の大会開催国が、揃いも揃ってこういう危なっかしい国ばかりになってしまうのかという理由を考えることです。
 私はこの問題について、次の三つの点を重視します。

 ①アメリカの覇権後退によって国際政治の力学が多極化したこと
 ②国連の理念に象徴されるような空想的な平等主義がまかり通っていること
 ③資本の過度な流動性によってあたかもある国が富んでいるかのような幻想が生みだされること


 ①について。
 現在の国際情勢をざっと見渡すと、日々の報道が明らかにしている通り、北アフリカ諸国、シリア、ウクライナ、イラクなどは内戦状態が続いており、エジプトやトルコも紛争が収束される気配が見えません。しかもこれらに対してかつての覇権国家アメリカは、口先だけでいろいろ言うものの、やる気のなさ見え見えです。中国は内陸では新疆ウイグル自治区などへの圧迫を押し進め、外に向かっては露骨な侵略的行為を繰り返しており、この強引なやり方に対して関係諸国は一様に反感を募らせています。メキシコは慢性的な財政危機状態、アルゼンチンは再び財政破綻の危機を迎えています。
 いま世界は、国家間紛争だけではなく、国内的にも政治経済の矛盾がふき出して、統一がままならないところだらけと言えますね。オバマ大統領は、「アメリカは世界の警察官ではない」と明言しましたし、お家の事情で手いっぱいです。モンロー主義に引きこもりつつあると言えるでしょう。だれも国際秩序の再確立に関して、アメリカに何かを期待することはできません。

 ②について。
 国際政治が、いまそういう「自然状態」に回帰しつつある状態であるにもかかわらず、この事実を隠蔽するかのように、また、安易に戦争や革命に訴えるわけにいかない日ごろのうっぷんのガス抜きの機能を果たすかのように、国際スポーツ大会の体裁は、参加国数が増え続け、そうして見かけの華やかさばかりが目立つようになりました。いわば「世界のカーニバル化」であり、リオ(ブラジル!)のカーニバルがそうであるように、「祭りのあと」のツケを支払わなければならないのは、普通の国民ということになるでしょう。ことにそのツケは見えっ張りの「新興国」の国民に一番多く回ってくることが予想されます。
 ここには、超大国から極小国まで、190以上を数える一国一国をまったく対等に遇するという国際連合(UNITED NATIONS)の理念が影響しています。もちろん国連には第二次大戦の戦勝国が意思決定の主力を握っているという組織構造がありますが、しかしその建前は、みんな平等に世界平和を実現する試みに参加しましょうということです。でも極小国や途上国には、はっきり言って、そんなこと考えてる余裕なんてないはずです。自国をどう防衛し維持発展させていくかだけが目下の関心ですから。
 オリンピックの開会式では、選手団の数こそ異なれ、各国の国旗がへんぽんと翻りますね。私はへそ曲がりですから、あれを見ていると、いつも欺瞞的だなあと感じてしまいます。日ごろの利害関係、政治的文化的摩擦、宗教紛争、大国の少数民族への圧迫などをしばらくは忘れ、地球市民が一堂に会して世界平和の夢に酔おうよということなのでしょうが、忘れろったって忘れるわけにいかないですね。今日もウクライナやイラクでは、死闘が繰り広げられているし、タイは深刻な対立を抱えているし、中国はヴェトナムやフィリピンや我が国に対して侵犯を繰り返しているのですから。
 超大国と極小国とを同じ一国とみなそうという「平等主義」は、一種の言葉のマジックですね。言語記号の上で同資格の「くに」として扱われていれば、なんだかすべての国が同一の実力や権能を持っているかのような幻想に誘われます。このマジックによって、紛争当事国の現実が隠蔽されるだけではなく、新興国、途上国、小国に、自分たちの一人前さを何が何でも世界に向かってプレゼンしなくてはならないという背伸びした強迫観念が植え付けられます。「身の程を知る、分をわきまえる、自分の足元を見る」という謙虚な精神が消滅するのです。みんなが夜郎自大ぶりを競うことになります。これを「見え張りナショナリズム」と呼びましょう。
 次はどの国に回そうかと考えるIOCやFIFAのような国際スポーツ機関もこの平等主義の制約から抜けられなくなっていますね。もちろん多方面にわたる審査はしていますが、ビジネス絡みの裏工作から無縁ではありませんし、人間のやることですから、順繰りのたらい回しという不文律から自由になることも難しいでしょう。想像するに、「アフリカで初めてやったから、今度はサッカーの本場ブラジルね、中小国でもバカにしないで大切にしましょうね。次は初めてだからロシア行きましょう」てな感じですね。

 最後に③について。
 そもそもBRICsという用語の由来は何でしょうか。次の解説をご覧ください。

 2003年秋にアメリカの証券会社ゴールドマン・サックス社が、投資家向けリポートの中で用いて以来、マスコミなどで取り上げられるようになった。このリポートでは、今のまま経済が発展した場合、2039年にはBRICs4カ国のGDP(国内総生産)の合計が、米日独仏英伊6カ国のGDP合計を抜き、2050年にはGDPの国別順位が、中国、アメリカ、インド、日本、ブラジル、ロシアの順になると予想している。 (ナビゲート ビジネス基本用語集 http://kotobank.jp/word/BRICsより)

 ずいぶんいい加減な予測を立てるもんですね。そんな先のことが分かるはずがない。でも「今のままで経済が発展した場合」という仮定がミソで、ちゃんと責任逃れの手は打ってある。
 ちなみに最新のデータ(2013年)では、BRICs4か国合計で15.4兆ドル(南アを含めると15.7兆ドル)、上記先進6か国合計で32.7兆ドルです。10年たった今でも、半分にも達していません。しかも中国の統計がまったくあてにならないことは先に述べました。付け加えれば、他の三国の統計もあまりあてにならないでしょう。
 しかしこの解説で、最も重要なポイントは、この用語と数字をアメリカの超大手証券会社が投資家向けリポートの中で用いたという点です。こういう予測を立てる目的は何か。慧眼(けいがん)な読者はお分かりですね。これは要するに、次の投資先(技術とか社会資本形成とか生産のための投資ではなく、もっぱら金融資本投資です)としてのねらい目はどこかという、投資家にとっての単なる金儲けのための予測です。白羽の矢を当てられた国々が実体経済を充実させて国富が豊かに蓄積され、国民の福祉に寄与するだろうという話とはまったく関係がないのです。
 ところが「権威筋」からこういう話が出ると、それが独り歩きして、何となくこれらの国々の経済が独自に発展するんだというイメージを持たされてしまうのですね。ある国の金回りがちょっとよさそうだと、その国が実力を蓄えてきたように輝いて見えます。でも事実は必ずしもそうではありません。一国を多くのお金が出たり入ったりする現象には、為替の動き、貿易や外交の関係、各国の経済政策、その時々の金融の動向、外資依存度など、さまざまな要因が絡んでいるので、一つの原因に帰することは極めて困難です。
 ゴールドマンサックスの予測が幻想であったことは、リーマンショック以降すでに明らかとなっていますが、それにしても、いったん植えつけられた幻想というのは、タイムラグがあって、なかなか人々の頭の中から抜けません。幻想が実態を覆い隠します。ブラジルの実態について言えば、先に述べたように、相変わらず生活水準が低く、インフラや医療や教育も整っていません。それがなんと2年後の夏季オリンピックもブラジルのリオで行われるのですね。今回のW杯で噴出した問題は、2年後にもそのまま受け継がれることはほぼ確実でしょう。
 現在グローバリズムが世界を駆け巡り、資本の移動の自由が極限まで進んでいます。その主役は言うまでもなく、一部の金融投資家たち(特にウォール街)です。この人(機関)たちはコンピュータに組み込まれた自動プログラムによって、瞬時に巨額の取引をしますから、何かの材料によって、ある国が「有望」と判断されれば、そこに一気に金が流れ込みますが、逆に「危ない」と判断されれば、潮が引くように一気に引き上げられてしまう可能性があります。
 いえ、ことはブラジルだけではありません。グローバル資本が幅を利かせている現在の国際社会では、国内産業が整っていない国はどこも危ないのです。逆に言えば、国政の関心を本気で国内産業の維持発展(内需の拡大、国内投資と雇用の促進)に向けるかどうかが国運を左右するということです。
 南米の熱き血よ。W杯や五輪に燃える気持ちはよくわかるけれど、見え張りナショナリズムは少し控えて、冷静に自分の足元を見つめることをお勧めします。失礼ながら6年後に五輪開催が決まっている私たちも他山の石とさせていただきます。