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小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

小保方問題と佐村河内問題

2014年04月03日 02時16分56秒 | 社会評論
小保方問題と佐村河内問題





 4月1日、理化学研究所の調査委員会が、小保方晴子氏をユニットリーダーとする「新型万能細胞・STAP細胞」研究論文の重要部分に捏造(ねつぞう)と改竄(かいざん)があったと断定しました。
 みなさんご存知の通り、この論文は、1月末に、英国ネイチャー誌に発表され、生命科学の常識を覆す快挙として喧伝されました。その後外部からいろいろな疑義が提出され、一転して理研によって撤回の検討が表明されました。
 ほんの少しさかのぼりますが、「現代のベートーヴェン」とまで言われた「全聾の作曲家」佐村河内守氏が、ゴーストライターの新垣隆氏に「真実」を暴かれ、やむなく謝罪記者会見を行いました。
 私は、ほぼ同時に起きたこの二つの騒動が、いろいろな点でとてもよく似ていると直感しました。といっても、佐村河内氏と小保方氏が、同じインチキ男(女)だと決めつけたいわけではありません。ここにはそうした特定の個人に対する倫理的な非難・譴責(けんせき)の問題を超えた現代社会に特有な共通の問題が横たわっていると指摘したいのです。そうしてこれは、それぞれ個別のスキャンダルとして聞き流すだけでは済まされないきわめて深刻な文明論的問題です。その問題を一言で言うと、現代のマス情報の公開プロセスの構造には、公開した主体の善意・悪意のいかんにかかわらず、もともと根本的にマユツバ性が含まれているのではないかということです。
 結論を急ぐ前に、この二つの騒動の共通点を洗い出してみましょう。

①すばらしい価値があると褒め称えられた人や物事がたちまち疑惑の奈落に突き落とされた。
②主人公がセンセーションを巻き起こすにふさわしい社会的「しるし」を濃厚に帯びていた――佐村河内氏は重度の聴覚障害を持つ作曲家、小保方氏はうら若きリケジョ・カワイコちゃん科学者。

③クラシック音楽という高度な芸術性が期待される領域と、再生医療科学という最先端の専門領域で起きた事件のため、どちらも普通の人がそこでの営みの真価を判定しにくい。

④「人に受けたい」「価値を認めてもらいたい」という人間本来の衝動が急速なピッチで露出した。

⑤共同作業と分業と模倣と継承によってしか成り立たない仕事(あらゆる仕事はそうです)が、あたかも特定の個人の仕業であるかのごとくに把握されて、その個人が称揚されたり、貶められたりする。

 繰り返しますが、私はここで、両事件の主役のどちらか一方あるいは両方を、倫理的に非難したり擁護したりする意図を持っていません。ちなみに佐村河内問題の場合は、不十分とはいえ、本人がすでにインチキを認めていますから、このサイトで非難の追い打ちをしてもあまり意味がないでしょう。また小保方問題の場合は、理研の「不正認定」に対して、彼女自身が徹底抗戦の構えを示して近く記者会見をするそうですし、今回の理研の報告にはSTAP細胞そのものの存在可能性について触れられていませんから、現時点では判断を保留せざるを得ません。
 考えてみたいのは、特定の悪者捜しではなく、こういう事態を引き起こす現代社会の条件とは何なのかということです。

 私たちはいま、すごいスピードで流れる大量の情報を、自覚的な取捨選択の余地もなく消化しては排出しています。これが常態として習慣化すると、知覚や情緒や意志の脈拍もその流れに合わせて急テンポとなり、体は動かさなくても頭の中は絶えずあちこち走りまわっているコマネズミのようになるでしょう。知らない間にセンセーショナリズムの影響を受けてしまうのです。
 みなさんは、IT社会という情報洪水の環境の中にどっぷり漬かっていて、こんなことでいいのだろうかと感じたことはありませんか。私などは、もともと世事に疎く、周囲の状況になかなか適応できないたちで、パソコンを始めたのも人よりずいぶん遅れました。おまけに団塊ジジイなので、新しい情報技術や、その技術を支えている発想にすんなりとはついていけません。商売柄必要やむを得ず、こうしてブログなどを運営してはいるものの、若い友人のサポートがあって初めて可能となっているので、じつは相当無理をしています。
 コンピュータは、あれですね、ヒューマン・スケールをはるかに超えたキャパを持ってしまいましたね。先日も必要があって旅行情報を調べたら、画面に出てくる選択肢がまあ、やたらと多くて、何をどういう順序で選んでいいのかほとほと迷ってしまいました。ちょっとうっかりクリックすると後戻りできないヘンな迷路にハマってしまいます。そんなのどっちでもいいからこっちが必要としている情報を早く提供してくれよ!、と画面に向かって怒鳴りたくなりました。相手が人間だったら絶対こんなことないのに。……いや、最近は、人間もけっこうコンピュータに感化されているか。
 閑話休題、現代文明を考えるうえで、もっと大切な点は、産業構造の高次化によって、自然を相手に作物をじっくり作り出すような仕事よりも、人と人との関わりが最も重要視され、いかに他者に向ってうまく表現するかという課題に多大なエネルギーが注がれるようになったということです。プレゼンテーション、うまく言いくるめる説得術、コミュニケーションスキル、相手を傷つけないような(相手に気に入られるような)心づかい――何に従事するにしてもこういうことが不可欠な課題としてのしかかってくるのですね。先進社会の住人は、みな多かれ少なかれ一種の表現中毒にかかっています。この中毒をうまく消化できない人は、表現恐怖症になって、些細なことで適応障害を発症します。
 17世紀イギリスの思想家・フランシス・ベーコンは、人間が抱きやすい先入見、臆断、幻影を「イドラ」と呼んで、種族のイドラ、洞窟のイドラ、市場のイドラ、劇場のイドラの四つを挙げました。ウィキペディアから、あとの二つについて引いてみましょう。

市場のイドラ(伝聞によるイドラ)…ベーコンが「人類相互の接触と交際」から生ずるイドラとしたもので、言葉が思考に及ぼす影響から生じる偏見のことである。社会生活や他者との交わりから生じ、言葉の不正確ないし不適当な規定や使用によって引き起こされる偏見を指し、噂などはこれに含まれる。

劇場のイドラ(権威によるイドラ)…ベーコンが「哲学のさまざまな学説から、そしてまた証明のまちがった法則から人びとの心にはいってきた」イドラとしたもので、思想家たちの思想や学説によって生じた誤り、ないし、権威や伝統を無批判に信じることから生じる偏見のことである。思想家たちの舞台の上のドラマに眩惑され、事実を見誤ってしまうこと。


 現代のマスコミやネット社会に飛び交う情報が、私たちのまともな価値判断力を剥奪する状況は、まさしくこの「市場のイドラ」と「劇場のイドラ」にぴたりと当てはまりますね。
 こうした生き馬の目を抜くように激しく転変する市場型社会、劇場型社会で生活していると、本人が仮にそれほど意識していなくても、いつの間にかウソかマコトかを問う暇もなく、ともかく急いで名優としての演技を演じて見せるように急かされます。
 しかも観客のほうも同じ目まぐるしいマス情報社会の流れの中にありますから、何が信じるに値する価値であるかを判断するだけのゆとりが与えられません。呆然としつつ、ただ面白い見世物を次々に求めるようになります。それを素早く見せることができた者が競争に勝つ。本当に価値があるかどうかは二の次という空気が醸成される。

 話を佐村河内問題と小保方問題に戻しましょう。佐村河内騒動の場合、人々は、「障害」と「ヒロシマ」と「震災」といういかにも情動を揺さぶる現代日本のマジックワードにまんまと乗せられました。彼(じつは新垣氏)の手になる音楽そのものが、そんなに感動に値するものなのか、だれもまともに評価の声を挙げません。付帯条件による先入観(イドラ)のために、多くの人が無自覚に感動したフリをする結果となる。一蓮托生、現代では、観客もまた俳優です。
 小保方問題の場合は、発表論文に数々のずさんさやパクリや間に合わせの跡が指摘されていますが、これもまた、表現中毒の一例です。世はまさにコピペ時代、私の勤務する大学で単位認定のためにレポート課題を出したら、相当多数の学生がネット丸写しでした。罪悪感なんて感じていないらしい。この感じていないというところがいかにも現代的です。感じろと叱りつけても無理でしょう。もちろん全員、落としましたけどね。
 いっぽうで「個の創造の素晴らしさ」がもてはやされながら、実態は俳優も観客もこぞってまがい物に近い見世物を共同制作しています。そういう時代なのです。だれもこの妖怪めいた力から逃れることはできない。ならば、この公開されたマス社会のマユツバ性という事実をひとまず受け入れるほかはない。誤解を恐れずに言えば、演技者はけっしてインチキを見破られないようなテクニックを磨けばよいのです。だれにも(自分自身にも)絶対にインチキを見破られないなら、論理的に言ってそれは「真実」なのです。真実とは、だれもが納得する物語の創造ということです。
 小保方問題に関して、公式の言論は、科学の信頼回復、信頼回復と叫び続けています。しかしこういうことを叫び続けて正義漢ぶっている人たちは、公開された社会表現のなかに、客観的な「事実」とか「真実」とかいったものがあらかじめ絶対に存在するという素朴な前提に立っているのです。この前提を疑わずに「信頼、信頼」とあまり言うと、この言葉自体がなんだかとても安っぽく聞こえてきます。「信頼」という大切な言葉は、秘められた内々の人間関係のためにとっておきましょう。

こんな無意味・有害なことやめろ(その4)

2013年11月11日 17時04分04秒 | 社会評論

こんな無意味・有害なことやめろ(その4)


Ⅰ.個人情報保護法

 元CIA職員・スノーデン容疑者が米国家安全保障局にスパイ容疑で訴追され、アメリカは身元の引き渡しを香港行政府に要求しましたが、香港はこれに応じませんでした。北京政府との摩擦を避けたのかな? 
 この事件をきっかけに、いまこうした漏洩行為およびそれを摘発する行為の是非について、世界中に議論が波及しています。先のG8でも相当問題になりました。スノーデン容疑者は香港からロシア経由で亡命したようですが、これで一件落着というわけにはいきませんね。
 国家の機密暴露は、その国の政府にとってはもちろん困ったことですが、機密を得たほうの国の政府にとっては、その事実がばれさえしなければ「してやったり」ものです。しかしばれた場合には、表面上の友好関係を損なう恐れがあるので、とてもまずいことでしょう。
 また、漏洩情報はたまたま明るみに出た氷山の一角で、政府が握っている情報には、必要情報とは直接関係のない個人情報がたくさん含まれている可能性がありますから、プライバシー保護の観点からは、そういうことが許されてよいのかという批判意見もあるようです。しかし一国の安全保障の徹底を図るためには、政府の情報機関が広く情報を把握しておくことがどうしても必要とされることもたしかです。
 この問題はとても複雑ですね。私には、いまここでこの問題に口を出すだけの資格も力量もありません。
 ところで、この問題からの連想で、前から疑問に思っていたことが浮かび上がってきたので、それについて書きます。我が国の個人情報保護法(2003年5月成立・施行)というのは、いったい何の役に立っているのか、弊害の方が大きいのではないか、という疑問です。
 みなさんは、文書やネットに個人データ(氏名、電話番号、メールアドレスなど)を登録する必要がある時に、当の個人情報取扱業者の書類に「この情報は、この目的以外には使用しません。第三者に無断で流用しません」という意味の断り書きがあるのにしばしば触れたことがあると思います。この断り書きは、個人情報保護法の規定にのっとっているのですね。
 しかし、そう書いてあるからと言って「ホントに守るのかね」と疑えばきりがありません。いちいち疑っていたらやりたいこと、必要なことができませんから、「ハイハイ」と受け流しているのが通常でしょう。
 この法律には、明白な違反が認められた場合にはごく軽微な罰則規定があるものの、事実上は、ほとんど拘束力などないと言ってよいでしょう。利用規約に違反しているかいないか個人が追尋しようがないし、違反していることがわかった時に、その訂正や削除を実現させるためには、時間とお金がすごくかかります。
 しかも、ネットの場合、本人が自分の情報の流用の事実を他のサイトで容易に確かめられさえすれば、流用者は、その事実を本人に知らせた上で、「ほら、ちゃんと正直に公開してるでしょ、だからいいじゃない」と言い逃れることができます(23条2項)。でも、じっさいには、これで、個人情報がどんどん広まってしまっているわけですね。
 またこの法律には除外規定があって、たとえば、当の事業者と実質的に同じとみなされる事業者が共同で利用する場合、本人がその事実を容易に知ることができるなら、本人の同意を得る必要がありません(23条4項の3)。
 さらに、マスコミ、著述業関係、大学等、宗教団体や政治団体などは、「個人情報取扱事業者」の義務の適用を受けません(50条1項)。これらの例外団体に少しでもかかわっているという体裁が取れる事業者なら、だれでも個人データを利用できるわけです。
 いかに、この法律が何の意味もないザル法であるかがお分かりいただけたかと思います。 ちなみに公明党は、この法律の成立に反対していましたが、除外規定に宗教団体が入れられるやいなや、掌を返したように賛成に回ったそうです。
 ところで、このように条文に現われた骨抜き具合を検討してみなくても、いまの時代、普通の人の個人データなど、FBなどを見てもわかるように、ネットや交渉を通してじゃんじゃん流用されていることは周知の事実ですね。
 論理的に考えても、A社の保存している個人データを大事な取引先のB社に対してすべて秘密になどすれば、B社の仕事は成り立たなくなり、それは跳ね返ってA社のビジネスをも停滞させてしまいます。営業マンが名刺を配らなくては交渉もできませんし、自分の抱えている顧客データをあるところまで知らせなくては、仕事になりませんね。
 こういうたぐいのことを法律で縛れると思う方がどうかしているので(ただのアリバイ作りですね)、これは知らせたほうがいい、これは知らせない方が得策、という各企業の判断に任せるほかはないのです。その場合、判断の根拠は、自社の利益と社会良識です。両者は矛盾しません。企業が一定の社会良識を持っていれば、長期的にはそれこそが自社の利益につながります。本当に着実な利潤を確保しようと思ったら、社会良識をきちんと維持することが不可欠です。「情けは人のためならず」。
 もっともこの法律の趣旨は本来、「個人情報取扱事業者」に対する主務官庁の監督を義務づけるところにあって、一般国民に対する直接の規制があるわけではありません。つまりこの法律は、一種の拡大解釈によって過剰反応を生み出してしまったのであり、その弊害は、いまも尾を引いているようです。
 例えば医療や教育の領域では、関係者が個人データを相当深いところまで知る必要がある場合があります。
 精神医療は、しばしばクライアントの長きにわたる成育歴・生活歴を医師がつかむことによって、適正な診断・治療を果たすことができます。しかし、他の医療機関から移転してきたクライアントの情報をできるだけ詳しく得ようと思って、その医療機関に問い合わせたとき、「個人情報保護法」をタテにとって、「それはできません」と拒否されたらどうでしょうか。いい治療はできませんね。
 また、高等学校では、選抜や入学後の指導に当たって中学校までの生徒の活動の記録を重要視します。しかし総じて、この種の書き物には、おざなりの「いいこと」しか書いてなくて、その子がどういう子なのかというイメージをきちんとつかむことができません。もう少し「この子」の情報がほしいと思って、中学校側に問い合わせたとき、「それはプライバシーにかかわるのでできません」と断られたらどうでしょうか。聞くところによると、教育界の一部では、5年以前の子どもの記録はすべて破棄してしまうそうです。これでいい教育ができるでしょうか。
 犯罪捜査もそうですね。ストーカー被害の訴えがあった時に、警察官が加害者の疑いのある人の周辺をより正確に調べようと思っても、関係者が「個人情報保護法」をタテに情報提供を拒否したら、取り返しのつかない結果を招くかもしれません。この種の事件はすでに過去にもいくつか報じられていますが、マスコミが叩くように、一概に警察の手落ちと決めつけられないと思います。むしろ、限られた数の捜査官がぶつかっている「たしかな情報の得にくさ」という苦しい壁に想像力を馳せることが大事ではないでしょうか。
 以上のように、「個人情報保護法」は、何でも機械的な文字情報として書き込んで、それに依存しないとやっていけないという強迫観念に彩られた、このマニュアル社会(マクドナルドやファミレスの店員ことば!)の通弊を象徴しているような気がしてなりません。法律として成文化されたものは、やたら精細になり、そのためかえって本来の趣旨を裏切っている。そうして、じっさいにはちっとも効力を持っていず、肌合いと呼吸と日々のやり取りで生きている私たちの現実の人間関係から乖離するばかりです。
 もっとも、こんなことは昔から言われていたことです。しかし、当ブログの「私の憲法草案(その1)」にも書いたことですが、どうも近頃、過度にそういうものに頼ろうとする不安神経症的な傾向が増しているのではないか。これも素朴でシンプルな原理によって生きることができなくなってしまった私たちの時代の哀しさなのでしょうか。


Ⅱ.ネット会員加入のための「同意する」

 それで思い出したのですが、ネットを通してちょっとした何かの会員になろうとするときに、細かい字でぎっしり長々と書き込まれた契約文が必ず出てきて、それに「同意する」か「同意しない」かという選択を迫られますね。あの契約文、みなさん読んでますか? 私は一度も読んだことがありません。おそらくほとんどの人が読まないままに、「同意する」を選んでいるのでは?
 あの法律用語の悪文で書かれた条項をいちいち吟味して、これはこういう意味だろうかとか、こういうことがあったらどうするのだろう、とか、そんなことをやっていたら小半日かかってしまいますね。しかもそれだけ時間と労力を費やしても、契約文全体の言わんとするところを正しく理解するなんて、とても望めないでしょう。
 だいたい、これは面白そうだな、必要だなと思って会員になることを決めてアクセスするんだから、「同意する」しかないじゃないですか。もし「同意しない」を選んだら、その時点でアウトですよね。
 もともとネットで会員登録するのって、店先で商品を物色して、これなかなかよさそうだなと思って、「じゃ、これ買います」って店員さんに言うのと同じですね。そのときに店員さんに、「じつは、これを買うためには、これこれこれこれの規則があり、その規則をすべて理解していただいた上で」なんて延々とやられたら、買う気なくしませんか。こちらは、その商品のホントの価値は、使ってみなくちゃわからないけど、まあ、大した金額じゃなし、だいたい見て間違いなさそうだから、買ってみよう、失敗したらしょうがないや、くらいに思ってお金を出すんですね。八分の信用と二分の不信です。それでだいたいの小さな取引って成り立っていくものでしょう。
 高い買い物、たとえば不動産などは、売買当事者に不動産屋が立ち会って、かなり時間をかけて契約書や重要事項説明書の読み合わせをやりますが、それでも、ネットの契約書ほど細かくないし、わかりにくくないでしょう。ネットの契約書は、おそらく、企業同士でビッグ・ビジネスをやるときのモデルをそのまま引っ張ってきてるのですね。あんなこと無料会員(少額の有料会員も)にとって意味がないですから、やめてほしいです。
 もちろん、サービスの提供側には、それなりの理由があるでしょう。まさかのトラブルがあった時のための自己防衛策であり、自分たちは法治社会でこのように公正な手続きを取っていますという証拠提出なのですね。それがどうしても必要なのだというロジックはわかります。こちらも、そりゃ、きちんとしてくれるのならそれに越したことはないと、一応は納得します。
 しかし、あれを提示する側の人たち自身も、ほとんどのユーザーはこんなものまじめに読みはしないということを知っているのではありませんか。もしそうだとすると、逆に、読みっこないからこういう条項をひそかに入れといてやろうというように悪用される可能性があります(たとえば不当な金銭要求)。「契約を結ぶ」ということの重要な意味を逆手に取るわけですね。現にネット詐欺の恰好の手段になっているのではありませんか。
 無料会員登録のような気やすい取引に、そんな契約条項など付帯させる必要などありません。有料ならはじめから金額を大きく謳っておけばいいし、疑問がある人のためには、たいていQ&Aコーナーが設けてありますよね。疑問がある人は、同意する前にそれを読むはずです。
 またユーザーが不満を持った時には「解消」を申し出ればそれで済む話です。その手続きが簡単にできるようになっていることが大事です。また、サーバーがサービスできなくなったのなら、謝ったうえで「やめます」と言えば済む話です。だれも100円ショップがつぶれたのを見て、恨みなんか抱きませんよ。
「でも、世の中いろいろで、うるさいこと言ってくる人がいるんですよ」とおっしゃるかもしれません。それは事実でしょうね。でもそれだったら、なぜ「同意する」か「同意しない」かの二者択一にしておくんですか。
 だいたい、「うるさいこと言う人」って、加入する気はあるけど、契約条項にこだわる人でしょう。その人が契約条項に対する疑問を拭えなかったら、「同意しない」を押すしかないじゃないですか。それで取引決裂ですね。
 もしネットサービス提供者が、そういう人もきちんと取り込みたいと思うのなら、「この契約には疑問がある」→「第〇〇条のこの部分」という選択肢を設けておいて、ユーザーの発信を受けてからきちんと返答する労を取るべきですね。それでこそ質の高いサービスというものです。


こんな無意味・有害なことやめろ(3)

2013年11月10日 12時45分40秒 | 社会評論

こんな無意味・有害なことやめろ(3)



公立高校での英語による英語授業



 今年度から、文科省の新学習指導要領にのっとり、公立高校での英語授業をオール・イングリッシュで行うことになったそうです。
 この問題は、すでに2008年くらいからその是非が論じられてきたようですが、議論生煮えのまま、ついに実施に踏み切ったというわけです。
 議論参加者たちの言い分をいくつか読んでみましたが、総じて、賛同派も反対派も慎重派も、それぞれにもっともな部分はあるものの、ことの本質がいまいち見えていないように思われます。もとより私はこんなアイデアに大反対なので、このアイデアの無意味・有害さがどこにあるかを「本質的に」指摘することになります。
 議論参加者は、英語教育に多少ともかかわりのある人が多い。そうすると、どうしても議論の基本の枠組みそのものが、これまでの日本の英語教育の「使い物にならなさ」をどうするかという方向に大きく規定されてしまいます。たしかに日本の英語公教育は、6年から8年やっても、国際舞台でほとんど使い物にならないという事実は、これまで何度も指摘されてきました。しかし、この問題を英語教育をどうすべきかという方法論的な方向性で考えることそのものが、本質を見えなくさせている元なのです。
 たとえばある人は、受験英語で文法知識などに偏った教育が行われてきたので、使い物にならなかった、だから日常的に使われる英語や英語文化に親しませることが重要なのだ、英語文化圏以外の諸外国でも、英語で授業をすることは今日当たり前になっていると言います。(1)
 別の人は、いやいや、きちんとした文法知識を身につけてこそ応用が利くのだから、いい加減な会話重視などに走って文法をおろそかにすることは、かえって本当の実力を身につけることにならないと言います。(2)
 また別の人は、こうした教育方法の二元論に対して、そもそも公立校のごく限られた時間数で英語を使いこなせるようになると考える方がどうかしているので、そんなことを期待すること自体が虚しいのだと言います。(3)
 またまた別の人は、いったい、いまの日本人英語教師の中で、英語によるコミュニケーションが自在にできる人がどれだけいるというのか、まして、日本語でさえ英語の文法規則やシンタックスを教えるのがむずかしいのに、それを英語で理解させようとしてもできるわけがないと言います。(4)
 またまたまた別の人は、英語が国際通用語になっている事実は認めざるを得ないが、何もその事実に踊らされて英語早期教育、会話教育などに軽薄にシフトする必要はない、その前に、しっかりと国語教育を施すことのほうがはるかに大事なのだ、と言います。(5)
 だいたいこれで議論は出尽くしたでしょうかね。私自身の感じからすると、この中で比較的説得力があるのは、まあ、(3)と(4)でしょうか。しかし、これらはいわば「あきらめ論」なので、じゃあ、どうすればいいのだという反問に答えなくてはなりません。それについては、私なりの答え方を用意していますが、それは、この問題に対する自分の基本姿勢を述べたあとにしたいと思います。ちょっとニヒリスティックに聞こえると思いますが、じつはきわめて現実主義的であって、建設的です。もったいぶっていてごめんなさい。
(3)と(4)にしても、先述のように、英語教育方法論の内部で話をしているので、公立校の英語教育現場実態の指摘としては当を得ていても、そこから先、いまの教育現場全体の実態に対する視野の広さと感受性、人間論的なものの見方が不足しています。そのために、ここで議論を終わらせずに、もう少しその先まで進める必要があるのです。
 
 さて議論を先に進めるには、次の二つの前提をぜひとも皆さんと共有しなくてはなりません。この前提を共有できない人は、先をお読みにならなくて結構です。
①人間にはもともとはなはだしい能力格差があり、ほぼ全員入学が果たされている現在の高校では、この能力格差が学校間格差として歴然と反映する。
②近代の成立・発展とともに浸透していった「学校」制度は、かつて出世・成功のための唯一の「聖なる物語」を提供してくれたが、この物語は、近代の完成とともに色あせ、現在では子どもに対して、そこに通うための内からのモチベーションを提供してくれない。 

 後者の点については、精神科医・滝川一廣氏の近著『学校へ行く意味・休む意味』(日本図書センター)、また、評論家・由紀草一氏のブログ「一読三陳」(http://blog.goo.ne.jp/y-soichi_2011)がとても参考になります。
 ①についてですが、これは誰もが知っている当たり前の事実なのに、公式的にはけっして明示されたためしがありません。まあ、文科省や教育委員会や日教組がこういうことを露骨に言うわけにはいかないのはある程度まではわかります。公立教育はなんてったって「平等」がたてまえで、生徒の能力や学力に雲泥の差があることを公然と認めることは戦後教育のタブーになっていますからね。でもはっきり言ってバカみたい。
 ちなみにこのたび報道された自民党の教育再生実行本部の第2次提言案には、遠回しにではありますが、この当たり前の事実をきちんと踏まえようとした形跡が認められます。「飛び級、高校早期卒業、学び直し」という項目がそれです(産経新聞5月17日付)。明言すれば、これは、優秀な生徒にはどんどん英才教育を施し、できない生徒には昔で言う「落第」を甘受してもらうということです。「小・中の区切りを柔軟に決められる小中一貫校制度の創設」というのも、考え方によっては、同じ含みがあると言えます。四・四・四制(あるいは五・四・四制)の提唱も含めて、私はこの自民党案を支持します。とはいえ戦後教育論には「バカの壁」が幅を利かせていますので、実現はなかなか難しいでしょうな。
 それはともかく、むしろいちばん問題なのは、「英語の授業を英語で」という提案に対してその是非を論じる識者たちの議論がこの当たり前の事実に触れようとしない点です。彼らは公務員のように窮屈な枷をはめられているわけではなく、自由な言論を駆使できる立場にいるはずです。それなのに、この点に言い及ぼうとしないのは、そういう現実感覚をはじめから持っていないか、あるいは教育の「戦後レジーム」にマインドコントロールされているために、無意識のうちに自ら口に戸を立てているかどちらかなのでしょうね。
 思うに、そもそも英語教育のあるべき姿などを論じることができる論者たち自身がエリートに決まっているので、自分がこれまで社会から得てきた評価の中にすっかり取り込まれていて、そのために自分の身辺で問題にされている議論のあり方が一般的・普遍的な意味を持つと勘違いしてしまうのでしょう。エリート集団の中で活躍しているうち、いつしか、この世にはできない子がわんさかいるという実態に想像力が及ばなくなるのです。こういう論者には、一度でいいですから、底辺校や私塾に通ってくるできない子たちとの接触体験を持ってほしいものです。経験を笠に着るのは本意ではないですが、はばかりながら私は永年小さな塾を経営してきた経験があるので、浮き上がった議論に対しては、「おいおい、それは一般の子どもの生活実感と乖離しているよ」とすぐ言いたくなるのですね。
 先ごろ、大学のレベル低下、大学が就職の通過点としかみなされていない現状を憂えて、「大学に古典教育の復活を」などという議論が論壇の一部を賑わせたようですが、こういう議論がいまの大衆化した大学一般に当てはまると考えたら大間違い。いま大学は、ブランドさえ選ばなければ誰でもどこかに入学できて就学率が6割近くです。平均レベルが下がるのは当たり前で、平均的な学生諸君が、大学に行っておいた方が後々少しでも有利だろうし青春できるから楽しそうだし経済が許すならまあ通っておこうと考えるのも当然です。「学問の府」なんて、ほんの一握りでたくさんなんですよ。ですから、この種の議論がいくらかでも効力を持つのは、一部のエリート大学関係者の範囲内だけです。まずこの当たり前を認めて、どういう大学ならこの種の議論が適用できるのかを見定めたうえで論じてほしいものです。
 さてこうした大衆平等主義社会の現状を、いまの公立高校の教育現場の実態の中に探ってみると(わざわざ探るまでもないのですが)、いわゆる「高校教育」を受けるに値しない生徒がごろごろいます。ことに英語や数学に関してはこの事態は歴然としていて、中学校時代から授業についていけなくなったまま高校に上がるので、レベルの低い高校ではアルファベットや四則計算などの基礎からやり直し。最近ある底辺校の先生から聞いた話では、bとdの書き分けもできないそうです。公教育における英語の授業はどうあるべきか、などの純粋方法論に耽っている人たち、こういう生徒を教えなくてはならない先生の苦労がわかりますか?
 英語授業を英語でできる教師がいるかいないかも問題ですが、まずその前に、そんなことをしてついてこれる(ついてくる気のある)生徒がそもそもどれくらいいるのかが問題です。だって、教育は本質的に受け手がそれによって恩恵を感じられることを目指したサービス業ですよ。お金の使い方を知らない子にお金を与えたって喜ぶはずがないのと同じで、英語でコミュニケーションするためには、受け取る方が基礎英語を理解していなければサービスを享受できないでしょう。
 しかし、悲しいかな、公立校というのは、平等主義の建前に縛られていますから、「わかる子のいる学校に限って英語で授業」というような差別化をはっきり打ち出すわけにはいかないのですね。なのにグローバリゼーションの大波にさらされて、日本人の英語能力はダメだ、ダメだと周囲から脅迫されているので、文科省は血迷ったあげくにこんな珍策を思いついたという次第。
 ざっくり言って、偏差値50以下の高校で、こんな珍策が実行できるはずがないでしょうな。ですから実際には、売春防止法と同じで、「ザル指導要領」ということになるに決まっています。
 そこで先に述べた②「学校の聖性の終わり」という前提が絡んできます。
 近代学校制度は、徴兵制と同じく、中央集権的近代国家の国民としての意思統一をはかるために強力に推進されました。これは、我が国における産業資本主義の発展過程に見合っていました。国民全員に共通の教育を施して「読み書きそろばん」の能力獲得を徹底させる。時間はかかりましたが、この目標は、戦前においてほぼ達成されたと言えます。戦後、新制高校への進学率はうなぎのぼりに高まり、1970年代に9割を超えます。高校準義務教育化が達成されたというわけですね。
 さて皮肉なことに、このころからほどなくして、不登校、いじめ、校内暴力、細かすぎる校則、学級運営の困難などの現象が目立ってきます。最近ではモンスター・ペアレンツなども騒がれましたね。それぞれの問題にはそれぞれの要因があり、一概にひと括りにはできないのですが、こうした学校現象が目立ってくる根底には、近代学校の目標が達成され、豊かな社会が実現されたために、多くのふつうの子どもたちにとって「学ぶ意味」を体で納得することができなくなったという先進国共通の問題が横たわっています。インセンティヴの喪失ですね。
 英語教育も例外ではありません。現代社会の要求として、義務教育レベルの基礎的な英語能力を習得するという条件は、だれにとってもまあ満たすに越したことはないのですが、いくらグローバリゼーションが進んだからと言って、マジョリティの日本人にとって、それ以上の高度な英語能力が必要かと言えば、首をかしげざるを得ません。職業にかかわるかぎりで、また国際競争に負けない限りで、必要に応じて学んでいけばいい問題でしょう。何よりも、学ぶ気のない子どもたち、外国語などが苦手な子どもたち自身に、どうすればインセンティヴを植え付けたらよいのかが、最も重要なハードルなのです。「これからは英語ができなくちゃだめだ!」といくら尻を叩いても、子どもたちがその必要性を深く納得するのでなければ、効果は望めません。
 bとdが書き分けられない高校生(まあ、これは極端な例でしょうが)に、彼にとってどういう意味があるのかを納得させられないまま、英語を学べ、学べと尻を叩くことは、教える側にとっても教えられる側にとってもまさに「苦役」にほかなりません。
 一般的に言って、日本人が英語習得を苦手とするのには、この問題以外に二つの要因が考えられます。ひとつは、欧米語と日本語とでは、文法構造がまったく異なること(中国語のほうがはるかに欧米語に近いですね)、もう一つは、日本は島国のせいもあって、長い間、生活や文化面での固有の伝統を維持してきたため、きわめて内部的な同一性の高い国民であること。
 いまでも国内でふつうに暮らしていれば、英語を話す能力なんて、そんなに必需品にはなりませんよね。必要がある人、語学が好きな人、世界に羽ばたきたい人は大いに勉強すればよいので、民間にはその機会もふんだんに用意されているはずです。無理をしてまで馬に水を飲ませるのは、やめた方がいいでしょう。
 しかしそうは言っても、義務教育のシステムが実質的に高校レベルにまで高まってしまった今日、この「学ぶ機会の平等性」をひっくり返すわけにもいきません。英語を学ばせない子どもを強制的に作ることはできませんね。ではどうすればよいか。
 これについては、すでに私自身、15年も前に一つのアイデアを出したことがあります(『子どもは親が教育しろ!』草思社・現在でも入手可能)。

 ちなみに、自慢のように聞こえるかもしれませんが、四・四・四制(あるいは五・四・四制)も、「落第制」の復活(これはネガティヴな意味で、すごく勉強へのインセンティヴになりますよ)も、この本で提唱しています。
 要するにことは簡単で、成熟社会では、学ぶ意味の喪失感とそこから生じる倦怠とをできるだけ取り除くために、高校教育にもっと多様性を盛り込めばよいのです。みんなが年限を規定されて同じことを一斉に教わる普通高校に通うのではなく、基礎教育としての共通部分を残しつつ、何を重視した学校か、それぞれが旗印を鮮明に打ち出す。語学、福祉、IT、科学、文化芸術、商業、工業、農業、一般教養その他。中学生は親とじっくり相談しながら、自分が得意と思える分野を選ぶ。こうすれば、語学の得意な子はますますその能力を伸ばせるし、苦手な子は「苦役」を忍ばなくてすみます。
 まだ幼いですから、この年齢から教育を職業選択に結びつけるのは早すぎるという意見があるでしょうね。もっともです。そこで、選択を誤ったと思った場合のために、敗者復活の機会もじゅうぶん用意しておく。平均寿命も延びて先はまだまだ長い。急ぐ必要はありません。その意味でも高校三年は短すぎます。
 いかがでしょうか。横並び一斉競争の時代はとっくに終わっています。これからの親御さんは、自分の子どもは何に向いているのか、何には向いていないのかをよくよく見抜く必要があります。そうしてそれにふさわしい助言と支援をしていく必要があります。抽象的な学力競争に子どもを駆り立てるべきではありません。もちろん、学力優秀な子には競争させてかまわないのですが。

 また、教育行政は、こういう多様性を許容するようなシステムをきちんと整えるのでなくてはなりません。それにつけても、教育関係者が、子どもの能力・学力にはたいへんな格差がある、という事実をまず直視することが前提です。
 ご一考ください。





こんな無意味・有害なことやめろ(2)

2013年11月10日 12時27分41秒 | 社会評論
こんな無意味・有害なことやめろ(2)


月曜振替休日

 いま日本では、祝日と日曜日が重なると、月曜日を振替休日にしますね。もちろん、偶然月曜日が祝日に当たっている場合もあるのですが、海の日などは、はじめから7月の第三月曜日と決まっています。

 2013年のカレンダーでは、日曜日以外の休日が19回、そのうち月曜が休日になる日が11回もあります。一年は約52週ですから、全月曜日のうち2割強が休日ということになります。

なんでこんなに公式的な月曜休日が多いのか。これはいろいろと弊害が多いのではないか、と私は以前から考えていました。その弊害についてこれから述べますが、その前に、諸外国(主要先進国)ではどうかということを調べてみました。(いずれも2013年 *1)



        全休日(日曜日以外)   うち月曜

アメリカ     10         6

イギリス     12         6

ドイツ      16         2

フランス     12         3

イタリア     9         1

スウェーデン   16         1

オランダ     8         2

カナダ      20         14

韓国       14         1



 以上挙げた中で、日本より多いのはカナダだけですね。あまり勤勉な国民性とは言えないイタリアのような国の公式休日が少ないのにびっくりされた方もいるのではないでしょうか。もっとも深刻な不況と高失業率で苦しんでいるスペインは、なんと36回公式休日があります。おいおい、そんなに休んでちゃ生産力落ちるぜ、と言ってやりたくなりますが、それでも月曜日は8回です。

 さて、月曜休日の弊害ですが、この曜日を本当に休みにしてしまうのは、官公庁、銀行、郵便局、公的教育機関、証券取引所、恵まれた一部の大企業、医療機関など、高い公共性が要求されるところに限られます。じっさいには、商店、デパート、コンビニ、新聞社、テレビ局、鉄道、観光業、流通業、運輸業など、多くの民間サービス業者は休んでいません。総労働人口のうち、どれくらいが実際に休んでおり、どれくらいが働いているのかはわかりませんが、第三次産業中心の社会では、相当多くの人が働いているものと考えられます。上に挙げた業種だけではなく、この不況下では、普通のサラリーマン、自営業者なども、さぞかし休日返上で働いているケースが多いでしょう。

 ですから、私がここで取り上げたいポイントは、休日を多くすると日本人の伝統的な勤勉さが衰えるといった道徳的な心配にあるのではありません。それはむしろ杞憂というべきです。

 問題の要点は、高度な公共性が要求される業種ほどしっかり休日をとっていて、民間業者の多くは休んでいない、このギャップをどう考えるかというところにあります。いろいろ弊害が思い浮かぶのですが、ここでは、次の四点に絞ってその弊害を述べましょう。



① 医療機関が休日を多くすると、緊急時の対応が遅れがちになる。

② 公的教育機関が月曜を休みにすると、カリキュラムの構成に支障をきたし、その分、しわ寄せが他の日に回ってくる。

③ 銀行や郵便局、証券取引所などが閉まっている日が多いと、大切な資金取引や通信業務に支障をきたし、結果的に経済の不活性化を惹き起こしやすい。

④ 官公庁や一部大企業など、地位も給料も安定している機関に対して、中小企業で喘いでいる人たちの不満が高まりやすい。



① については、多言を要しないでしょう。

もっとも、おそらく実態はさまざまで、看護師さんなど、過酷な環境下で休日出勤している人たちもさぞ多いことと思います。こうした人たちがゆったりと働けるように、多くの人材を確保し、しかも待遇面で優遇する施策が切に望まれます。

② について、少し説明します。

まず小中学校では、土、日、月と三連休が多いと、年間授業時数をこなすために、その他の曜日にたくさんの時間を割り当てなくてはならなくなります。ことに現在は、ゆとり教育の失敗を挽回するために、学力向上が至上命題となっています。そうすると、先生は少ない曜日でたくさんの業務をこなさなくてはならず、そのジレンマに悩むことになります。

また、子どもも、ウィークデーの生活時間の大半を学校で過ごすことになります。いまの子どもたちは神経が繊細になっていて、固定集団で一日長い時間を過ごすことにうまく適応できない子がたくさんいます。つまり、不登校やいじめなどの間接的な要因になりやすいのです。週休2日くらいを上限として、各曜日、薄く広く時間配分をするのがちょうどいいバランスだと思います。

大学の場合は別の切実な問題があります。大学は講義ごとに教師が異なりますね。あらかじめ何先生の授業は何曜日の何時限と決めておかなくてはなりません。そうして一コマについて一学期何時限までこなすということも決められていますから、月曜日に当たった先生は、講義回数を十分確保することができず、土曜日などに補講をたくさん設定しなくてはなりません。ところが、補講って、学生が集まらないんですね。

③ については、三つの問題が考えられます。はじめの二

点に関しては、どこまで妥当か、あまり自信がないので

間違っていたらどなたか指摘してください。

一つは、国際金融市場での取引に関して、各国で休日が異なるために、必要な取引が遅滞しやすいのではないかということです。

もう一つは、資金繰りに苦労している経営者が、貸し借りや返済などでチャンスを逸してしまうと、不渡りを出すなど、致命的な失敗に陥りやすいのではないか。それを避けるために、町金、闇金などについ頼ってしまい、ますます泥沼にはまりやすいのではないか。これを考えると、銀行、郵便局などは、もっと公的な責任を自覚して、開かれた時間を多くする必要があると思います。

 三つ目。これは日常サービスに関する身近な不満ですが、手紙や振り込み、郵便振替などの必要があって、早くこうした懸案事項を済ませたいと思っている時に窓口が閉まっていると、何でもっと開いていてくれないのかと感じることが多いのですね。コンビニやスーパー、デパートなどはほとんど休まないので、その便利さがふつうだと感じているために、余計、こうした公的機関、準公的機関の不便さが際立ちます。ちなみにコンビニのATMでは、振り込み業務は扱っていませんね。

 以上の機能不全は、全体として経済的な不活性化を招きやすく、それは結局、当の営業者自身の不利につながってくると思うのですが、いかがでしょうか。

④ について。

これは、いちばん深刻な問題のように思われます。

私は、必ずしも官公庁や一部の大企業に勤めている人たちが楽をして高給を取っているとは思いませんが、外から見ると、どうしてもそう見えてしまうところがあります。経営に苦しんでいる中小企業の経営者や、低賃金で過酷な労働に耐えている人たちは、相当にストレスをためているものと思われます。

そういう感情的な下地があると、「あいつら、いい思いしやがって」というルサンチマンにつながりやすい。それが人情というものです。不満のはけ口を外に向けるというのは、まさに某隣国政府が悪用している政策ですね。それと同じように、ルサンチマンのため込みが思わぬ秩序攪乱、治安の悪化を呼び起こすかもしれません。そうならないためには、景気回復が何よりも大事なのですが、公的機関、準公的機関、一部の大企業などは、腹の太いところを見せて、せめて公休日を少し減らすべきではないでしょうか。

さてこの項、最後に、いまの日本はなぜこんなにやたら祝日や振り替え休日を増やすようになったのかについて考えてみましょう。

これについては、年配の方々はすぐ思いあたるでしょうが、高度成長期以後、日本人の働きすぎということがしきりと問題にされた時期があります。他の先進諸国に比べて、労働時間がこんなに多い。これは長年の貧乏性、余裕のなさで、恥ずかしいというわけですね。当時の労働省などがドイツは何時間、それに比べて日本はこんなに多いなどと統計を駆使して喧伝したのです。過労死も多いし、うまく余暇を楽しむことを知らない、等々。労働組合の活動がまだ活発だった頃でもあります。

そういう判断が、実態の正確な把握をせずにずっと残り続けて、いまに至っています。だから公式的に休日を増やせばいいという安易で観念的な解決策を取ってきてしまったのだと思います。公式的に休日を増やしたって、休めない人は休めないんだよ。

では、日本人の労働時間は、国際的に見てどのように推移してきたのか。この点について資料(*2)に当たってみましたが、各国の状況が一目でわかるものの、統計上の理由から、特定年次の比較には適さないと、わざわざ断り書きがあります。ただ、一応、1988年の労働基準法改正を契機に日本人の平均労働時間数は、かなり減ってきたことがわかります。

とはいえ、じつをいえば、私はこの資料をあまり信用していません。というのは、第一に、基礎データをどういう方法で抽出して算出しているのか、近年問題とされている派遣やバイト、残業などの実情がきちんと反映されているのか、そのへんが疑わしいのと、第二に、これはあくまで「平均」であって、格差の問題が考慮されていないからです。

そこで、この問題に関しては、次のように考えるのが妥当だと思います。

労働時間が増えたか減ったかというような抽象的な指標だけで、休日が多いことの正当性いかんを判断することには、根本的な限界があります。くどいようですが、この不況下、実際には統計にカウントされないところで人々、特に若者は休日返上で必死にはたらいている可能性があり、もしそうだとすると、ただ休日を増やすのが上策だなどとはとても言えないからです。形式的に休日を増やすことによって、第三次産業中心の社会では、特にあまり良い目を見ていない階層でかえってつらい労働が増えているのかもしれません。

少なくとも、不況から脱却しなければ、日本の月曜日振替休日がいろいろな意味で有害無益だということだけは言えそうです。国際的に見てもかなり異常なこの制度的措置が、別に少しも寿ぐべきことではない、ということを知っておく必要があると思います。みんながそこそこ豊かになり、心置きなく休日や余暇を楽しむことができるようになってこそ、休日が多い国の真のメリットが生きるのではないでしょうか。



参考資料

*1:http://www.startoption.com/holidays/

*2:http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/3100.html

こんな無意味・有害なことやめろ(1)

2013年11月10日 02時50分35秒 | 社会評論
こんな無意味・有害なことやめろ(1)


 日ごろ、こういうのは、無意味だし時には有害でさえあると思っているいくつかのモノ、コトについて述べます。

Ⅰ. コンビニでアルコールを買った時のタッチパネル 
 これ、だれでも感じますよね。「未成年者」にアルコールを売るのはよくないし、売りたくないと本当に思っているのだったら、店員が「あなたの年齢を証明するものを見せてください」といちいち問えばよいはず。しかし、そんな面倒なことできるわけないし、客だって証明書など持っていることなどまずないでしょう。
 明らかに子どもが買おうとしていたら、君はまだ子どもだから売れないよ、と言えばいいんでしょうが、これもコンビニのバイト店員に義務づけるわけにいかないでしょうな。売り上げにも影響するし、子ども客のほうが「頼まれたんです」と言えば、おしまい。だからしょうがなくてああいうものを置いているのだろうけれど、どう考えても無駄なコストをかけていますね。ある若い店員が「一応押してください。でもこんなの無意味ですよね」と自分で言ってました。そう言ってくれるだけで同志を得た思い。この店員君、エライ!
 高校時代の修学旅行で京都に宿を取った時、友だちと酒を飲もうとして酒屋に行ったのですが、私はガキっぽく見えたので、売ってくれませんでした。そこで、いちばん老けタイプの奴に代わってもらったら、見事に買ってきました。これくらいのゆるい(人間的な)倫理感覚が行き渡っているのがいいと思うのですが、いまの時代では無理ですね。「酒は二十歳になってから」なんていたるところに書いてありますが、あれもなんて無意味なんでしょう。だれも気にしていませんね。こんな文句を書きつけることに効果があるなんて思わないで、大人一人ひとりが自分とかかわりの深い「未成年者」に、状況に応じてタガをはめればよいのです。

Ⅱ. ゴミの過剰分別 
 私は横浜市に住んでいますが、横浜の家庭ゴミ分別は、異常にうるさいのです(知人にこの話をしたら、横須賀はもっとうるさいとのこと)。
 プラゴミと生ゴミとビン、缶、ペットボトルはそれぞれ峻別、新聞、チラシ、雑誌類は、特定の日にひもで縛って出すこと、スプレーや電池も、それぞれ特定の日だけ。粗大ゴミはもちろん事前連絡して、かなり高いお金を取られます。金属類、粗大ゴミでないような電化製品、ガラス製品などは、どうするんだったっけ。とにかくとてもつきあいきれないような細則のオンパレードです。
 まあ、慣れれば大したことはないし、よく処理のわからないものは、新聞紙にでも包んで出してしまえばいいわけですから、細かさそのものに目くじらを立てることもないのですが、腹立たしく思うのは、こういう分別の負担を住民に強いることに論理的な根拠が見いだせないことです。どこが論理的でないのか、すぐ書きます。
 ある時、プラゴミと生ゴミを混合させて出したら、環境事業局の調査員に見つかって、「指導に行くから、都合の良い日を連絡してください」とのチラシがポストに。どうやらゴミの中に私の住所氏名がわかる手紙の類が入っていたらしい。
 私は、ある人の書いた環境問題の本を読んで、その主張をまことに妥当だと思っていたので、横浜市のゴミ分別の不条理さに以前から静かな怒りを抱いていました。「指導」しに来るとは望むところ、こっちにも言い分がある、というわけで調査員との会合が成立しました。私が主張したのは、次の諸点です。
①「ビン、缶、ペットボトル」をなぜ一緒にするのか。ビンと缶は不燃ゴミだが、ペットボトルはよく燃えるし、含水率の高い生ゴミの燃焼を助けるのにたいへん都合がよい。
②私は別の地区の分別を知っているが、そこでは、不燃ゴミ、可燃ゴミという明快な二大別しかしていない。それで十分間に合っている。
③ペットボトルはリサイクルに回すと言われているが、あなたがた市の職員は、リサイクル業者に金を払って引き渡した後、現実にどれくらいの割合でリサイクルされているか事後調査をしているか(じつはこの割合はとても少なく、多くは最終的に焼却や投棄に回されています)。業者に払う金は住民から徴収した税金であろう。
④プラゴミと生ゴミとを分けるのも納得がいかない。現在のプラゴミはほとんどが容器包装だが、これらの材質は、たいへん焼却に適している。
⑤横浜市の焼却炉の能力は極めて高く、しかもNOxやSOxの処理も行き届いていると聞いている。プラゴミも焼却をメインにすればいいではないか。助燃材としての重油もいらなくなる。
⑥私は負担が大きいことに不満を持っているのではない。問題の要点は、市が、住民にこれほどの細かい分別の負担を強いながら、分別された後の廃棄、再利用などの処理の過程を把握していないことである。「このように分別されたゴミは、その分別にふさわしく、それぞれこのように処理されています」と、住民にきちんと説明責任を果たすのが、公正な行政サービスのあり方ではないか。
 懇切に話し合うこと2時間、言うまでもなく、調査員はこれらの主張に一つもまともな答えを返すことができません。そりゃそうですよね。まあ、調査員を問い詰めても仕方がないことははじめからわかっていました。私はいじめ趣味などは持たず、モンスター・クレーマーではないので、最後は「和やかな物別れ」で終止符を打ちました。
 それにしても、何とかしてほしいものです。

Ⅲ. 車内での携帯禁止放送 
 いまだにこれやってますね。「携帯での通話はお客様のご迷惑になりますので、普通席ではマナーモードに切り替え、優先席付近では電源をお切りください。」
 この放送って、携帯メールが普及し、ほとんどの人がスマホを使っている現在、何の意味もないのでは? 私はこの2、3年、電車の中で大声で通話している人を見かけた覚えがありません。技術革新がこの問題を解決してしまったのですね。マナーもいつの間にか徹底して、たまに車内でガラケーの発信音が鳴っても、受信した人は、小声で「ごめん、いま電車の中だから」と断ってすぐに切るのがふつうです。知り合い同士で大声でしゃべっている連中(特に中高生くらいのガキども)のほうがよっぽど迷惑です。
 この放送はかつて、何とか理屈をつけるためにじつに滑稽な説明をしていたのをみなさんは覚えておいでですか。
①「心臓ペースメーカーをつけている方に害を及ぼす恐れがありますので……」
 そんな人がどれくらいの割合でいるって言うんだ! 仮にいたにしたって、携帯使用の微弱な電波が心臓ペースメーカーに害を及ぼすっていう説がそんなにきちんと証明されたのか! ちなみに私のこの言い分に疑問を持たれた方は、以下のURLへどうぞ。

getnews.jp/archives/49911

②「偶数車両では電源をお切りになり、奇数車両ではマナーモードに切り替えて……」
 爆笑ですね。ラッシュアワーでどうっと乗客が出入りして揉まれている時に、自分の乗った車両が偶数車両か奇数車両かなんて、調べてる暇があっか! いったい鉄道会社の誰が、守れるはずのないこんなみょうちきりんで非常識なルールを考え出したのか。
 まあ、過ぎた話なのでいいですが、こういうときは、次のように明快に放送すべきだったでしょう。
「車内では、携帯で大きな声で話されると迷惑に感じられるお客様が多いので、通話はご遠慮ください」
 要するに、物事を遠回しにしか言おうとしない日本人の悪い傾向が出ているのですね。もちろん、この傾向は、よい面も持っていることをおことわりしておきます。

Ⅳ. 駅ホームでの下りエスカレーター専用時間帯 
 私の経験では、東京メトロ東西線、日本橋駅でこれを続けています。おそらく全国の都市駅でこれを実行しているところはたくさんあるでしょう。
 私は、基本的にエスカレーターというのは、上り優先で考えるべきだと思っています。下りは、あればあるに越したことはないですが、あるホームのある箇所に一つしかないエスカレーターを下り専用にするというのは、どうしても納得がいきません。
 私は日本橋駅でこれを見つけたので、使う人がいるかどうか、5分ほど観察していました。空いている時間帯だったためもあるのか、一人もいませんでした。そこで、改札口付近に腰かけている案内役の若い駅員に、あれ、おかしくないですか、とクレームをつけました。
駅員「上りにしている時間帯もあるのです」
私「知っています。でも今見ていたら、だれも利用しませんでしたよ」
駅員「もう一つのほうは上りにしています」
私「それも知っています。しかし、だれだって、電車から降りたら、いちばん近いところから上って行きたいのではないですか」
駅員「階段を上っていただくより仕方がありません」
私「高齢社会で、杖をついているお年寄りも増えています。特にこの時間帯だったら、そういう人のほうが多いんじゃないですか。あなたはそういう人たちにも、向こうのエスカレーターへまわれとか、階段を使えとか言えますか」
駅員「ですから時間帯によって区別しています」
 そもそも時間帯によって区別するという発想がおかしいですね。それなら、ある時間帯には上りを、別の時間帯には下りを利用する人が多いというような調査をちゃんとしたのか。
 らちが明かないと見た私は、「あなたにこれ以上言っても無駄ですから、私の言い分を上司に伝えてください。時間がないので、今日はこれだけにします」と言って立ち去りました。この方式の責任がこの駅員にあるわけではありませんが、とにかく、公共施設の職員や店員には、この種のヘンな杓子定規を機械的に守る若い人が多いですね。「いまの若者は」というセリフは、私にとって禁句ですが、この駅員はまるでコンピュータのようでした。先のコンビニの店員がいっそう輝いて見えます。話が横道にそれるので、ここでは紹介しませんが、信じられないほどマニュアルに忠実で、人間味のない対応をする若者に私は何度か出会っています。仕事はつらいだろうけれど、みんなもっとハートを持とうよ。

Ⅴ. 車内英語放送の駅名「ガイジン」発音 
 もう一つ、電車の話題。
 この話はほかでも書いたことがあるのですが、車内に英語放送が流れますね。これは外国人にとても親切な対応スタイルで、たいへん結構なことです。ところがどうも気になるのは、駅名を言うときに、「シブウヤ」「ヨコハァマ」というように、ネイティヴ・アメリカンの発音を流している線があることです。
 私の経験した範囲では、JR山手線(少し変わったか)、横浜市営地下鉄ブルーラインの二つ。新幹線もまだ残っているようです。東京メトロと東急線各線はちゃんと日本語発音になっています。
 なぜこれがよくないか。地名というのは、人名と同じで、固有名ですね。その土地に住む人たちにとってのなじみ、親しみの感情を最も尊重すべきなのです。アメリカへ行って、「ペンスヴェイニァ」と発音せずに「ペンシルバニア」と発音することが正しいと主張できますか。
 よく英語を話している日本人で、自分の名前まで「イツゥオ・コハァマ」などと調子に乗って発音している人がいますが、非常に不愉快です。アメリカ人と話す機会がたまにあるのですが、私は必ず「コハマ・イツオ」と発音することにしています。これはべつに私がナショナリストだからではありません。とにかく、相手が欧米人だろうと宇宙人だろうと、個人として対等に接するべきであって、欧米人に対するいわれなきコンプレックスを露出するべきではないと考えているからです。
 この話はいろいろな人にしているのですが、ある人が、ああいう発音をしてやらないと、英米人には聞き取れないらしい、という説を唱えました。とんでもない説です。この説自体が事実として間違っていると思いますが、考え方としておかしい。ここは日本です。「郷に入っては郷に従え」。そんな余計な親切を示してやる必要がどこにあるのでしょう。観光にせよビジネスにせよ、日本に来た外国人は、日本語を使うときには日本語の発音をきちんと勉強すればいいだけの話じゃないですか。
 私は横浜市の教育委員をしていた時期に、教育委員というささやかな権威を笠に着ることができるのをこれさいわいと(笑)、同じ市の交通局に出かけて行って、市営地下鉄ブルーラインのあの方式はおかしい、教育上もよろしくない、と抗議したことがあります。すると、ブルーラインよりも後にできたグリーンラインでは、ちゃんと日本語発音にしているというのですね。だったらどうしてブルーラインも直さないのですかと聞くと、「予算の問題とかいろいろありまして」とお茶をにごします。予算の問題じゃない、決断の問題でしょうと言いたかったのですが、まあ、お役所というのはそういうところがありますね。私は「とにかくご検討願います」とだけ言って帰ってきました。
 この話は、みんなが面白がって聞いてくれるのですが、そもそも、みなさん、ふだんからあまりこんなことを気にしていないのですね。私のこだわりが偏屈だということになるのでしょう。でも、これを読んだ方は、ちょっとだけ考えてみてくださいね。大げさに言えば、安倍総理の「日本を取り戻す」という政治的なテーマにもつながってくる問題です。
 なお、今回書いたことは、哲学者の中島義道さんの影響を受けています。中島さんは主として、無意味な音、放送、醜悪な垂れ幕などに対して闘い続けていますが、私はある時期から彼のこの姿勢に感化されて、自分もおかしいとか不快と感じたことは、きちんと冷静に論理的に表明しようと心がけるようになりました。中島さんに感謝。(この項続く)