小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

日弁連「死刑廃止宣言」の横暴――死刑存廃論議を根底から考える(その2)

2016年12月04日 17時53分43秒 | 社会評論
      





 では死刑の意義とは何か。
 普通言われるのは、国家が被害者に代わって加害者を罰して罪を償わせることという考え方です。しかしこれは完全な間違いとまでは言いませんが、不適切な捉え方です。死刑は国家による復讐の代行ではありません
 そもそも国家は共同体全体の秩序と国民の安寧を維持することをその使命とします。犯罪はこの秩序と安寧の毀損です。たとえ個別の小さな事件でも全体が毀損されたという象徴的な意味を持ちます。だからこそその回復のために国家が登場するのです。
 この秩序と安寧を維持する意志を仮に「正義」と呼ぶとすれば、死刑は、国家が、極刑という「正義」の執行によらなければかくかくのひどい毀損に対しては秩序と安寧が修復できないと判断したところに成り立ちます
 その場合、被害者およびその遺族という私的な人格の被害感情、悲しみ、憤りなどの問題は、この国家正義を執行するための最も重要な「素材」の一つにほかなりません。だからこそこれらの私的な感情的負荷が、ときには国家の判断に対して満たされないという事態(たとえば一人殺しただけでは死刑にならないなど)も起こりうるのです。
 もちろんその場合には私人は、法が許す限りで国家の判断を不当として変更を迫ることができます。そのことによって、国家正義のあり方自体が少しずつ動くことはあり得ますが、近代法治国家の大原則が揺らぐことはありません。
 つまり死刑とは、国家が自らの存続のために行なう公共精神の表現の一形態なのです。繰り返しますが、国家は被害者の感情を慰撫するため、復讐心を満足させるために死刑を行うのではない。むしろ逆に復讐の連鎖を抑止するためにこそ行うのです。極刑によってこのどうにもならない私的な絡まりの物語を一気に終わらせようとするわけです。そこにまさに近代精神(理性)の要があります。

 ところで筆者は、この公共精神の表現の一形態たる「死刑」という刑罰が存置されることを肯定します。なぜなら、人間はどんな冷酷なこと、残虐なことも、大きな規模でなしうる動物だからです。これだけのひどい秩序と安寧の毀損は、死をもって贖うしかないという理性的な判断の余地を葬ってはなりません。
 抽象的な「人権」、絶対的な「生命尊重」の感覚のみに寄りかかった現代ヨーロッパ社会(および国連)の法意識はけっして「進んでいる」のではなく、むしろ近代精神を衰弱させているというべきです。日弁連幹部の廃止論はこの衰弱した近代精神にもっぱら依存しています。
 さて日弁連の先の「宣言」では、明確な死刑廃止宣言をしていながら、それに代わる刑として「仮釈放のない終身刑を検討する」としており、その場合でも、社会復帰の可能性をなくさないために仮釈放の余地も残すべきだとしています。
 そうすると廃止をした後に「検討する」わけですから、死刑に代えるに終身刑をもってするのではなく、終身刑の規定すら採用されない可能性が大いにあります。もし終身刑の規定が採用されなければ、最高刑は「仮釈放のある無期懲役」ということになります。また終身刑でも「仮釈放の余地も残す」のでは、極刑の概念を完全に抹消することになります。
 筆者は到底これを受け入れるわけにはいきません。なぜなら、人間は神と悪魔の間の膨大な幅を生きるのであってみれば、極刑の概念を残しておくべきであるし、また懲罰の選択肢は多ければ多いほど良いからです。
 たとえばこれは筆者の個人的なアイデアにすぎませんが、死刑、仮釈放のない終身刑、仮釈放の余地を残した終身刑、無期懲役、有期最高刑懲役五十年(現行三十年)等々――刑法を、複雑多様化した現代、寿命の延びた現代に合わせて改革するなら、こういう方向で模索すべきでしょう。
 もちろん、極刑を課さなくても済むような社会づくりに向かってみんなが努力すべきであることは言うを俟ちませんが。



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