内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

現代社会の病としての境界性パーソナリティ障害

2020-10-21 23:59:59 | 読游摘録

 以下、岡田尊司の『境界性パーソナリティ障害』(幻冬舎新書 2009年)からの摘録である。摘録の後に、若干の私見を加える。
 境界性パーソナリティ障害というときの境界性とは、ボーダーラインの訳である。神経症と精神病の境界性という意味で使われる。医療従事者でも、境界性パーソナリティ障害についての十分な知識と経験を積んでいないと、誤った治療方針を立ててしまい、結果として、かえって状態を悪化させてしまうことがある。
 九〇年代以降、ごく普通の家庭でも、境界性パーソナリティ障害をもった家族を抱え、あるいは自分自身でそうした問題で悩み、どう対処すればいいのか、どう克服すればいいのかと悩んでいる人が急増している。もはや「患者」にどう対処するかという問題に尽きるものではなく、「現代社会病」とさえ言える。
 境界性パーソナリティ障害は、元々ある「性格」の障害ではない。あるきっかけから、そういう状態になるのである。発症のきっかけと原因は別である。きっかけはいろいろとありうるが、それは発症の最後の一押しに過ぎず、原因は別のところにある。とはいえ、きっかけは原因と無関係だというわけではない。きっかけとなる出来事は、かつての心の痛みを蘇らせるような性質を備えている。
 境界性パーソナリティ障害の診断基準としては、アメリカ精神医学会の診断基準であるDSM-IV がもっとも一般的である。ただし、これは操作的な診断基準と呼ばれるものであり、チェックすべき症状のうちのいくつ以上が該当する場合には、その診断を下すと便宜的に決めたものである。
 本来、疾病の診断は、原因を含め、障害が起きるメカニズムを突き止めた上でなされるのが理想的である、DSMでは、病因や病理ということは抜きにして、統計学的に関連性の高い症状により、症候群として診断を行っているに過ぎない。
 最近では、背景にあるメカニズムについて、かなり解明されてきており、実際の診断では、熟練した精神科医ほど診断基準を単純に当てはめるということはせず、その背景にある根本的な問題を把握した上で、全体像として捉えるというふうに行われるのが普通である。
 しかし、障害の程度がかなり深刻でも、それらの人たちが全員精神科医の診療を受けているわけではなく、本人も周囲も問題を抱えたまま苦しんでいる場合が少なくない。ところが、全員が診療を受けることは、現実の医療体制からして事実上不可能である。つまり、境界性パーソナリティ障害を抱えた多くの患者を「野放し」のままにしておかざるを得ないのが現代社会だ。
 言い換えれば、医者でもない普通の人たちが、自分の身近にいるそういう人たちに対する適切な対処の仕方をあるところまでは心得ていないと、境界性パーソナリティ障害は、社会問題として深刻化する一方だということである。

 

 

 

 

 

 

 

 


パーソナリティ障害の時代を生きる

2020-10-20 23:59:59 | 読游摘録

 今、必要があってパーソナリティ障害関連の書籍を読んでいるのだが、なんか自分のことを言われていると思わざるを得ないような箇所もちらほらあり、また周りを見ても、それらの本の記述が当たらずとも遠からずというケースも少なからずあり、世の中、パーソナリティ障害だらけじゃん、とさえ言いたくなってしまう。
 中でも、岡田尊司の『パーソナリティ障害』(PHP選書 2004年)は、抜群に説明がわかりやすく、かつ障害に苦しむ人たちへの情愛が文章に滲み出ていて、読んでいるだけで、こちらの尖った気持ちを和らげてくれる。精神科医でありかつミステリー作家でもある著者は、実に比喩の使い方が巧みで、難しい言葉を使わずに問題の所在を的確に示してくれる。
 著者によれば、パーソナリティ障害は、一言で言えば、偏った考え方や行動パターンのため、家庭生活や社会生活に支障をきたした状態である。裏を返して言えば、性格がかなり偏っていても、家庭生活にも社会生活にも支障をきたさなければ、それはパーソナリティ障害ではない。
 その偏りの度が過ぎると、本人にとっても、周りにとっても、困る場合が出てくる。つまり、これは関係の中で発生する障害であり、問題の当人独りの問題ではない、ということである。著者が言うように、パーソナリティ障害とは、「バランスの問題であり、ある傾向が極端になることに問題があるということである。パーソナリティ障害かどうかのポイントは、本人あるいは周囲が、そうした偏った考え方や行動でかなり困っているかどうかということである。」
 つまり、困っているなら、困らないように関係を改善するにはどうすればいいかということが問題なのであって、本人の非を責めて追い詰めても、何の解決にもならないどころか、かえって事態をさらに深刻化させかねない。もちろん、完全に排除するということも、関係する当事者たちにとっては一つの解決策ではあるだろう。しかし、多くの場合、事はそれほど単純ではない。
 それに、医療従事者が患者としてパーソナリティ障害に苦しんでいる人に対する場合と、その人と家庭生活や社会生活や職業生活の中で関わっていかざるを得ない人たちの場合とでは、自ずと対処の仕方が違ってくる。現実には、後者の場合が圧倒的多数を占めているのだから、一般人もパーソナリティ障害への適切な対処の仕方を身につけることを求められている時代に私たちは生きていると言わなくてはならないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「せつない」ってどんな気持ですか

2020-10-19 23:59:59 | 講義の余白から

 今月14日の記事で古語「かなし」について若干の考察を試みた。それは、一つには風土論との関連においてだったが、もう一つには、「日本の文明と文化」の今日の授業で取り上げるための準備という目論見もあった。先々週から、二時間の授業の中の十五分から二十分くらいを使って、「日本文明・文化を読み解くキーワード」と題して、一回に一語ないし二語を取り上げて説明することを始めた。第一回目は「なつかし」、第二回目は「もの」と「こと」、そして第三回目の今日は「かなし」だった。その説明内容は、14日の記事のそれとほぼ重なるので繰り返さない。
 この授業でいささか工夫を要するのは、日本語学習者に日本語で日本語を説明する際に、彼らの現在の日本語理解力に合わせて説明を組み立てることである。
 14日の記事で引用したように、「悲し・哀し」の語意説明に「せつない」という語が見られる。日本人なら、自分の語感で「せつない」の意味を説明できるだろうし、仮にうまくはできなくても、「せつない」気持ちになったことはあるだろうから、意味の了解にさほど困難を覚えないだろう。
 ところが、私が教えている学生たちとって、たとえそれが最優秀の学生であっても、「せつない」を、例えば、「悲しさや恋しさで、胸がしめつけられるようである」と日本語で説明されただけでは、今ひとつピンとこない。こういうときには実例を挙げる。ただ、それがありきたりの例だと、当該の言葉のニュアンスが心に染み透るようには入って来ない。
 そこで、今日試みたのは、吉野弘の「I was born」(一九五二年に詩誌『詩学』に発表)の全文朗読である。戦後の散文詩を代表するこの名作には、「せつなげだね」と「ただひとつ痛みのように切なく」という表現が終わりの方に出てくる。その部分だけ読んだのでは、しかし、ニュアンスは伝わらない。そこで、最初から全文朗読した。いくつかの難しい言葉を除けば、学生たちはスクリーン上に投影された詩の文面を私の朗読に合わせて眼で追っていくだけで情景が浮かぶ。そして、最後の部分が来る。

淋しい 光りの粒々だったね。私が友人の方を振り向いて〈卵〉というと 彼も肯いて答えた。〈せつなげだね〉。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ、お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは――。

父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつ痛みのように切なく 僕の脳裏に灼きついたものがあった。
――ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体――。

 学生たちは静まりかえって聴いていた。詩の力がそうさせたのだ。彼らは「せつない」という日本語をおそらくもう忘れることはないだろう。

 

註 〈淋しい 光りの粒々だったね〉は、『幻・方法』(一九五九年)に再録のとき、〈つめたい光りの粒々だったね〉に改められた。

 

 

 

 

 

 

 

 


日曜日の午後の鬱屈

2020-10-18 23:59:59 | 雑感

 忙しいといっても多寡が知れており、それにもかかわらずいつも時間に追い立てられているような落ち着かなさと虚しさを感じるのは、要するに、意欲と集中力の欠如のせいであり、確固たる中長期的な目標を立て、それを実現しようという強い意志を持っていないからである。だから、目の前の雑事に簡単に流されてしまう。一通り仕事は大過なくこなしているから、人から非難されることもない(いや、けっこうよくやっていると思いますよ、我ながら)。だが、増大する空虚感は止めどがない。この空虚感の理由は上に述べたことだけではないことは自分でもよくわかっている。しかし、どうすることもできない。恒常的な虚しさに耐えることに日々費やされてしまうエネルギーの総量が、生命体維持のための総エネルギー消費量の半分を超えているのは、どう考えても不健康だ。よく持ち堪えているものだと自分でも思う。このようにエネルギーを空費していると、その傾向は周りの人間にも感染しかねない。周りもそれに気づくから、近寄ろうとはしない。こういう点、人間はとても敏感にできている。誰も自分の生命を脅かすものの近くにいたいとは思わない。当然すぎることだ。こちらも無理をしてまで、自分を変えたくない。そんなエネルギーはそれこそもう残っていない。表面上、何事もなかったかのように淡々と日々をやり過ごす。それに尽きる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


学生たちの文章力と思考力を鍛え上げる

2020-10-17 23:59:59 | 講義の余白から

 「日本の文明と文化」という日本語のみで行う授業は、今年も去年と同じ映画を教材としながら、二週間に一回、日本語で課題レポートを書かせている。観る映画は同じだが、課題として出す問いは去年とは変えてある。
 去年もとても優れた文章を書く学生が何人かいたが、他方では、日本語としてはきちんとしているが、内容的にはそつなくまとめているだけで、あまりよく考えているとは思えない、悪い意味で優等生的なレポートで済ませている学生もいた(添削は楽でいいけれど、仕事としてはつまらなかった)。
 今年の三年生は、さらに優秀な学生が多い。彼らが二年生のときから、よくできるし反応の良い学年だと同僚間でとても評価が高いクラスだったが、私も昨年度後期に近現代日本文学の授業を担当して、対面はわずか六回しかできなかったが、その間、確かに、筋の良い質問が毎回のように複数出て、とても気持ちよく授業ができるクラスだった。
 今年度、彼らの日本語での文章力の高さに驚かされている。しかも、よく考えて書いている。もう自分の文体をしっかりもっている学生もいる。言語感覚の良さを感じる。
 今、第三回目のレポートを添削しているところだ。授業では、二回に渡って『かぐや姫の物語』を取り上げ、死と再生の物語として見る解釈を提示した上で、かぐや姫の罪と罰について自分の解釈を書きなさいという課題を出した。
 一応字数は六〇〇~八〇〇字にしてあるが、「書きたいだけ書いていいよ」とも言ってある。実際、目安の字数を大幅に超えた「大作」を書いてくれる学生が毎回数人いて、しかも実に斬新な解釈を見事な日本語で展開できる学生もいる。今回の最大作は、なんと三〇〇〇字を超えている。それをわずか数日で書き上げるのだから、大したものである。
 レポートは Moodle の課題提出用のセクションに提出させている。提出されると同時に私のメールボックスに知らせが届く。添削の平均所要時間は十五分ほどで、原則、即返す。特によく書けていたレポートには、「よく書けていた」「あなたの解釈は実に面白い」「あなたの作品分析を高く評価します」など、一言添えて返す。すると、「ありがとうございます」「認めてもらえてうれしいです」「今回は特に真剣に取り組んだので、先生の評価が嬉しいです」など、すぐに返事が返ってくる。
 他方、時間がなかったのか、本人らしからぬ間違いが目立つレポートが一つあった。それに対しては「今回は、いつもの君らしくない間違いが多かった。添削箇所をよく読み直し、なぜそう直されたのか考えてみなさい」と添えて返した。
 対面だろうが遠隔だろうが、彼らの文章力と思考力を一年かけて鍛え上げていくこと、それが私のミッションである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


当事者たち以外にはなんことだかわからない話で済みません

2020-10-16 23:59:59 | 雑感

 このブログをはじめて以来、これまであまりなかったことなのですが、今日の記事を書こうと、パソコンで文章を打ち込んでいる途中で何度も考え込んでしまい、それまで書いた文章を全部消去するということを数回繰り返しました。その文章が気に入らなかったということではなく、いくら自分のために書いているブログでも、こんなことまで書いていいのか、という懸念がそうさせました。
 以前にも書いたことがありますが、他者を攻撃するようなことは一切書かないというのがこのブログの大原則です。そもそもそんなことしても、私自身を含めて誰のためにも何の解決にもならないからです。実際に発生している問題は、その現場で解決すべきことで、ブログで愚痴ったところで無益であるばかりか、後味がわるいだけです。
 以下、記録として、当事者たち以外にはなんのことだかわからないような仕方で一言だけ記しておきます。
 今、職場で、私がこれまでに経験したことがないかなり深刻な事態が発生していて、私も困り果てています。それには複数の有能かつ信頼の置ける同僚がかなり厄介な仕方で巻き込まれていて、しかもそこから逃げようもなく、彼らのストレスは増すばかり、という極めて好ましくない状態です。私もその対応に苦慮するばかりで、有効な手を打てずにいるのです。しかし、このまま手をこまねいていては、事態は悪化するばかりです。
 原因は、はっきりしているのです。それを取り除けば、すべて解決することもわかっています。しかし、それができないのです。当事者が読めば、すぐになんのことかわかることですが、やはりこれ以上はここには書けません。
 わけのわからない話で済みませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


情緒論素描(二十)― 面影としての風土の方法的現前化の探究

2020-10-15 20:29:33 | 哲学

 「面影」は美しい言葉だ。響きがよい。漢字で書いても、平仮名で「おもかげ」と書いても、「絵」になる。そして、なによりも、万葉の時代から使われているこの言葉にはとても深い含蓄がある。
 例によって、『古典基礎語辞典』の解説をまず見てみよう。

オモは顔の正面、カゲは光によって現れる像。実体はそこには存在しないが、思い出や夢、想像でありありと思い浮かんでくるもののすがた。鏡に映る像。人やその容貌に使うことが多いが物や情景にも使う。過去に目にしたものに対して使うのが主であるが、未見の想像の場合にもいう。

 語釈①「目の前にいるかのように思い出や夢の中に出てくる人やものの像」の㋒「現実にそこに存在するかのように思い浮かんでくる物のようすや情景」の例として、万葉集・巻三・三九六の笠郎女の歌が挙げられている。この歌は、笠郎女が大伴家持に贈った歌三首のうちの第二首で、譬喩歌に分類されているが、内容的には相聞歌である。

陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを
(陸奥の真野の草原、この草原は遠くにある地でございますが面影としてはっきり見えると世間では言っているではありませんか。なのにあなたはどうして見えてくれないのですか。『新版 万葉集』伊藤博訳・注 角川文庫 2009年)

 面影はまた、中世の歌論において、「作品から鑑賞者が思い浮かべる心象や情景。または、余情」を意味した。引例は、鴨長明が『無明抄』の中で紀貫之の「思ひかね妹がりゆけば冬の夜の川風寒み千鳥鳴くなり」を「この歌ばかり面影あるたぐひはなし」と評している箇所。
 面影は、不在あるいは失われてなお慕わしい人・物がただ自ずとありありと立ち現れてくることばかりではなく、そのような喚起力をもった歌を評価する際に使われる言葉でもある。つまり、面影は、詩歌という方法によって喚起されうるものでもあるということだ。
 私たちはもう風土を現実に生きる場所としては感じられなくなってしまった時代を生きているのかもしれない。たとえそうだとしても、面影としての風土を想起することさえもできなくなってしまったわけではないことを長明の評言は示唆している。とはいえ、失われた風土をただ漠然と懐かしむだけ、ましてやそれを嘆き悲しむだけでは、面影がありありと立ち現れてくれることはない。
 面影としての風土の自発的現前を方法的に探究すること、この一見して矛盾を孕んだ試みに、哲学と文学が交叉する場所での風土論の可能性を私は見ている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


情緒論素描(十九)― かなしき風土

2020-10-14 15:29:46 | 哲学

 『ベネッセ 全訳古語辞典』(改訂版 2007年)は大変優れた学習古語辞典で、その最重要語欄は授業でよく参照する。
 「かなし」は、当然、最重要語の一つである。見出しのひらがな書きの左脇に「愛し・悲し・哀し」と漢字が充てられた表記が三つ縦に並んでいる。その下の基本義は、「身近なものに対する感情が痛切に迫って心がかき立てられるようす」となっている。その下の語義派生図は、「愛し」と「悲し・哀し」とに二分され、前者の語義は、副詞的用法を除くと、次の二つに分けられている。①かわいい。いとおしい。②心が引かれる。おもしろい。後者の語義は、これも副詞的用法を除くと、次の三つに分けられている。①切ない。嘆かわしい。②かわいそうだ。気の毒だ。③(経済的に)貧しい。気苦労が多い(これは中世以降の用法)。
 類語比較では、「かなし」と「いとほし」が比較されている。共通点は、「自分に身近な人を気の毒だと思う気持ち、また、かわいいと思う気持ちを表す」。「かなし」固有の意味は、「不可能の意味を表す補助動詞「かぬ」と同じ語源で、身近なものに対する押しとどめがたい、切ない感情を表すのがもともとの意味といわれる」と説明されている。「いとほし」は、「「いたはる」「いたはし」と関係のあることばといわれ、「心を痛める」というのがもともとの意味である」。
 「愛し」の例として、万葉集巻十四の中のよく知られた東歌を一首挙げておこう。

多摩川にさらす手作りさらさらに何そこの児のここだかなしき(三三七三)。

 後者の例としては、源氏物語の夕顔の巻から「別れといふもの悲しからぬはなし」を引いておこう。
 大野晋編著『古典基礎語の世界』(角川ソフィア文庫 2012年)の次の記述は、「かなし」の意味のより深い理解の助けになる。生きている人間に対する愛情を表す二例「わがかなしと思ふむすめを」(夕顔)、「いづれも分かず、うつくしくかなしと思ひきこへたまへり」(若菜上)を挙げた後、こう述べられている。

これらのカナシには、「愛しい」とか「心から可愛い」とか「愛着の念が強い」とかいう訳語が与えられている。これは死別とは全く異なって、生きている人に対する感情である。死に直面してのカナシは相手に対する深い愛着があればこそ生じる。生きている子供達に対するカナシも、強い愛情、愛着がある点で共通である。単に可愛いというのではなく、相手を失ったらどうしようという恐れや、その子供に自分の全てを尽くしてもなお及ばないというせっぱ詰まった気持が底にある。カナシはそれを表明している。その点で、この二つ、悲哀と愛着のカナシは基底が同一である。

 悲哀と愛着とカナシの基底が同一であることを示す近代短歌の一例として、若山牧水の次の歌を挙げたい。

ふるさとの尾鈴の山のかなしさよ秋もかすみてたなびきており

 長男として家を継ぐことを望まれているにもかかわらず、家族を放り出して、東京へ出、その後は一切音沙汰なしだった牧水は、父危篤の報を受けて急ぎ帰郷する。親族会議は糾弾会議の様相を呈した(永田和宏『近代秀歌』より)。そんな状況の中でこの歌は詠まれた。幼いときから見なれた故郷の山に感ずるこの「かなしさ」は、悲哀と愛着との両者が分かち難い心底から自ずと湧き起こって来た感情であったろう。牧水にとって、故郷は、「かなしき風土」であったに違いない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第一回日仏ZOOM合同ゼミの報告

2020-10-13 17:39:45 | 講義の余白から

 今日、こちらの時間で午前10時(日本時間17時)から、法政大学のA先生、このプログラムの後継者となるK先生、国際哲学特講を履修している哲学科二年生七名、ストラスブール大学日本学科修士一年生の十二名と私とが参加して、ZOOMを使っての日本とフランスを繋いだ合同ゼミの第一回目が行われた。
 A先生のご提案にしたがって、一時間を予定していた全体を三部構成にした。まず、学生たちの個別発表が三つ、それぞれに対して簡単な質問とコメントをA先生と私がした。フランス人学生二人による発表は焦点が絞りきれていなかったが、準備期間が短かったわりには、まあまあのできであった。日本人学生二人の個別発表は、それぞれに自分の経験に引きつけて風土を理解しようとしていて、簡潔でポイントをよく押さえた、とてもいい発表だった。それに続いて四グループに分かれてのブレイクアウト。最後に、全員ミィーティングルームに戻って、各グループからの報告とA先生と私とのまとめで全体を締め括った。当初の予定では、三部それぞれに二十分充てるつもりでいたが、第一部に三十分近くかかってしまったこと、ブレイクアウトのグループ分けに少し手間取ったことなどもあり、実際には一時間二十分ほどになった。
 しかし、予行演習なしの第一回目としては、全体として上出来だったのではないかというのがA先生と私の一致した感想である。一方、同じ構成で一時間に収めるのには、ちょっと無理があることもわかったので、十一月十七日に予定されている次回は、一時間半にすることにした。
 今日の発表とディスカッションを踏まえて、私が三十分ほどの録音授業を準備し、学生たち全員に今月中に配信する予定である。ストラスブールの学生たちには、それとは別に、彼ら向けの日本語での録音授業を今週末までに配信する。
 試行錯誤を重ねながら、日仏を繋いだZOOM合同ゼミの可能性を追求していきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


情緒論素描(十八)― 悲愛未分の基礎的感情としての「かなし」

2020-10-12 15:12:02 | 哲学

 和辻が『風土』の序言の最初の段落で、風土は自然環境ではないと言うとき、後者は前者を具体的地盤として、そこから「対象的に解放され来たったもの」だということがその論拠になっている。風土を問題にすることは、「主体的な人間存在にかかわる立場」においてはじめて可能になるというが和辻の主張だ。
 しかし、対象化しえないものをいかにして考察できるのか。一旦私たち人間存在との関係を括弧に入れて対象として取り扱うことなしに風土を考察するとはどういうことなのだろうか。
 和辻の風土論を批判することはそれほど難しいことではない。理論的にはむしろ隙だらけだと言ってもよい。それにもかかわらず、今もなおその中に私たちを惹きつけるものがあるとすれば、それはなぜなのか、というのが私の問いである。
 そこで私はその問いを探究する手がかりを情緒に求め、特に「なつかしさ」に注目した。情緒は一言で言い表せるものではないとしても、それと深く結びついている言葉がいくつかある。その原義にまで立ち返るとき、情緒の基層へと至る途が見えてくるのではないかという仮説に立って、「なつかし」について考察した。
 同じ仮説に立って、「かなし」という言葉の意味するところを見ておきたい。例によって、いくつかの古語辞典にあたってみた。
 『古典基礎語辞典』(角川学芸出版 2011年)の「かなし」の解説の一部を見てみよう。

子供や恋人を喪失するかもしれないという恐れを底流として、これ以上の愛情表現は不能だという自分の無力を感じて、いっそうその対象をせつなく大切にいとおしむ気持ちをいう。自然の風景や物事のあまりのみごとさ・ありがたさなどに、自分の無力が痛感されるばかりにせつに心打たれる気持ちをもいう。

 「愛し」と漢字を充てることでこの意味をよく反映させることができる。この意味で「かなし」が使われている例は、万葉集、古今和歌集、伊勢物語、竹取物語、源氏物語などから簡単に見つけ出すことができる。
 大伴旅人の名歌「世の中はむなしきものと知るときしいよよますますかなしかりけり」の「かなし」の原文は「可奈之」だが、通常「悲し」を充てることが圧倒的に多い。しかし、今日私たちが使用する通常の意味での「悲しい」とも「哀しい」とも、この旅人の「かなし」は違うのではないか。単に悲嘆するということではないのではないか。
 確かに、この歌の題詞には、「禍故重疊 凶問累集 永懐崩心之悲 獨流断腸之泣」(不幸が重なり、悪い報せが続きます。ずっと崩心の悲しみに沈み、独り断腸の涙を流しています)とあるから、「悲し」の意に取るのが順当だと思われる。この歌の前半に仏教語「世間空」「世間虚仮」の翻案を見、世間を空と感ずる思想の集中最初の表現とすることで専門家は一致している。
 しかし、「かなし」がただただ「悲し」を意味すると取るよりも、悲と愛とが分かちがたく結びついている、あるいは悲愛未分のより根源的な情としての「かなし」と取ることで、歌にさらなる深みと味わいが出て来るのではないだろうか(この旅人の歌については2014年1月11日2019年2月26日の記事で取り上げているので、参照していただければ幸いである)