内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

鉛直線上の〈孤悲〉のアリア、あるいは、大伴家持における〈雲雀〉と孤愁について(四) ― 雲雀についての哲学的考察断片(九)

2018-03-11 00:52:15 | 哲学

 「うらうらに照れる春日にひばり上がり」、そのとき、心が悲しいのは、なぜなのだろうか。第五句「ひとりし思へば」まで素直に読み下ろせば、それは、独りで物思いに沈んでいるから、と一応の理屈はすぐにつけることができる。
 しかし、この「ひとりし思へば」という表現は、『万葉集』中の類例が他に一つしかない異例の用法であることを忘れるわけにはいかない。他の一例は、小治田広耳の作、「ひとり居て物思ふ宵に霍公鳥こゆ鳴き渡る心しあるらし」(巻第八・1476)。この広耳という人は、伝未詳だが、家持とほぼ同時代人であろう。両歌に共通するのは、どちらも他者とは本来的に分かち合えない「思ひ」を懐いていることである。
 集中、「ひとり」の用例は70余例あるが、その多くは「ひとり寝る歌」である。つまり、共に寝る相手がいない結果としての「独り」の寂しさを詠んでいる。他の例を見ても、「ひとり」とは、共に過ごすべき相手がいないという不在・欠落・喪失の状態を指している。言い換えれば、この「ひとり」は他者を前提とし、他者を志向している。
 ところが、「ひとりし思へば」はそうではない。誰かがそばにいないから、誰かのそばにいないから、あるいは「思ひ」を伝える相手がいないから、独り物思いに沈んでしまう、だから心が悲しい、ということではない。「思ひ」は独りでしかありえないという、「思ひ」そのものの単独性が心を悲しみで満たしている。
 穏やかな春の陽光に照らされ、その中を雲雀がまっすぐに空高く上ってゆく詩的空間が心そのものなのであり、その心が独りでしかありえない「思ひ」なのであり、その「思ひ」は悲しみ以外ではありえない。
 佐佐木幸綱『万葉集の〈われ〉』(角川選書、2007年)は、この「ひとりし思へば」に早く注目した一人として、万葉学者であり歌人でもあった川口常孝を挙げ、その著書『万葉歌人の美学と構造』(桜楓社、1973年)に言及している。佐佐木書からの孫引きになるが、参考までに、川口書の一節を引用しておく。

二人寝は望まれようし、二人が去くことも、二人で飲むこともできる。だが、二人で『思ふ』ことはできないのである。『相思ふ』ことはできようが、二人で一つの思いを思うことはできないのである。ここに『ひとり思ふ』世界の徹底的な孤絶の深淵がある。













水泳2000回達成

2018-03-10 09:45:41 | 雑感

 今日は、個人的に記念すべき日となりました。まだパリに暮らしていた2009年8月1日に健康維持のために始めたプール通いが今朝2000回に到達したのです。今晩、少し高めのワインで祝杯をあげます。
 8年7ヶ月と10日で達成したことになり、月平均19.4回、年平均233回。自己目標数値を若干下回っているのですが、この間、長いブランクもなく、規則的に続けられたのは幸いでした。総遊泳距離は、毎回の遊泳距離を記録するのを途中でやめてしまったので、おおよそですが、3600キロメートルくらいでしょうか。北海道宗谷岬から沖縄まで日本列島を泳いで縦断したくらいでしょうかね。
 水泳は、小学生のころにスイミング・スクールに通っていたこともあり、以来得意スポーツでしたが、高校以降は楽しみとしてときどき泳ぎに行くことはあっても、規則的にプールに通うということはありませんでした。
 始めるきっかけは、運動不足で体力低下が気になりだし、このままだと健康維持も難しくなってくるかもしれないと心配になり、なにか規則的に運動しなければと考え始めたことです。ともともと体を動かすことは好きでしたが、ろくに運動もしない期間が3年余りも続いていたので、最初は、負荷の大きいスポーツは避け、ウォーキングから始めたのですが、それではすぐに物足りなくなってしまいました。かと言って、お金も時間もかけるわけにはいかなかったので、教室に通う必要もなく、一人で始められる(実際は二人で始めたのですが)スポーツとして水泳を選んだのは私としては当然の帰結でした。
 幸いだったのは、パリには市営プールがいたるところにあり、全市営プール共通の3ヶ月間フリーパスを購入すると、一年で2万円程度の出費で済むことでした。当時住んでいたアパルトマンから歩いて行ける距離にプールが3ヶ所あったことも通い続けることを容易にしてくれました。時には、メトロやバスを使って少し遠くのプールに「遠征」するのも、それはそれで楽しみでした。
 2014年にストラスブール大への赴任が決まり、市内のアパルトマンを探していたときも、プールの近くというのが外せない条件の一つでした。幸いなことに、プールまで徒歩5、6分のところに今住んでいるアパルトマンを見つけることができ、プール通いの習慣をそのまま維持することができています。
 次なる大目標は3000回ですが、これまでのペースを維持できたとして、その達成には4年数ヶ月かかります。そこまで遠い先の目標のことを思うと挫けそうになるので、これまでどおり、月20回を最低ラインとし、できるだけ毎日休まずに通う、という基本方針でいくつもりです。












鉛直線上の〈孤悲〉のアリア、あるいは、大伴家持における〈雲雀〉と孤愁について(三) ― 雲雀についての哲学的考察断片(八)

2018-03-10 04:21:59 | 哲学

 昨日の記事で引用した『釋注』の通釈を読むとわかるように、第三句「ひばり上がり」という表現には、単に雲雀がまっすぐに空高く登っていくという視覚的イメージだけではなく、囀りという聴覚的要素もそれと不可分な要素として含まれている。「ひばりの習性から推して視覚と聴覚を兼ねた表現と見られる(春の光の中にひばりの声が空高く舞い上がって)。」(伊藤博『萬葉集の歌群と配列 下 古代和歌史研究8』塙書房、1992年、124頁)
 家持は、雲雀の飛翔を見つめているだけではなく、その囀りも聴いている。「うらうらに」という副詞が「ゆったりと明るい雰囲気の中におぼろげにふんわりと霞んでいるさま」(『釋注』)を示しているとすれば、やはり、その辺りは、穏やかな春の光の中、静寂に包まれていると捉えるのが自然だろう。その静けさの中にひばりの高い音域の声が宝玉のように際立って響く。『釋注』はそれを「つーん、つーん」という擬声語で通釈の中に織り込んでいる。
 それだけではなく、「うらうらに」という言葉自体の響きのやわからさと文字としては歌に表記されていない雲雀の甲高いさえずりとの間の対比もこの歌には込められているように私には読める。
 さらに、視覚世界においても、春の光に包まれた穏やかな大気のゆるやかな拡散性とその中を上空へと高速に一直線に上昇する雲雀の運動性との対比も見逃すわけにはいかない。
 かつてこのブログでも展開したことがある私の心身景一如論(2015年2月21日から5日感連続の記事)での所説に依拠するならば、上述のすべての要素が含まれた上三句は、家持の心の景色そのものであるということになる。














鉛直線上の〈孤悲〉のアリア、あるいは、大伴家持における〈雲雀〉と孤愁について(二) ― 雲雀についての哲学的考察断片(七)

2018-03-09 10:28:17 | 哲学

 昨日の記事で取り上げた「うらうらに」の意味についての考察を今日も続ける。
 平安朝では、「うらうらと」は、散文では多用されるが、歌語としては例がほとんどない。手元の文献で調べたかぎりでは、西行の『山家集』中歌「うらうらと死なんずるなと思ひ解けば心のやがてさぞと答ふる」(1520)のみ。この歌では、しかし、「うらうらと」は「心のどかに」という精神状態を表現しているのであり、心象風景とも言えず、ましてや情景描写ではない。
 手元にある万葉集関連の文献の中で、この「うらうらに」の意味について唯一立ち入った考察を展開しているが伊藤博『萬葉集釋注』である。
 「うらうらに」は難解とした上で、「「うらうらに」が家持のこの歌だけの語だということになれば、それは、家持の美意識の慎重な選択を経て用いられたと見なければならない」と判断し、「明なるが故に悲し」というよく見られる解釈を超えて、「明るさを含みながらも、何か焦燥を誘う霞がかった世界を言い表そうとしたもの」という独自の釈義を展開している。
 その根拠として、左注にある「春日遅々」の「遅々」が多く「うらうらに」にあたることを挙げている。そして、「遅々」とは、「春の日が長く、進まず、どこかほんのりと霞んだ、そして何かしらそわそわさせられる情況を言ったもの」であるとする。
 この解釈を前提として、「うらうらに」の訳として、「おんぼり」という石川・福井あるいは出雲の方言をあてている。

常に光にかかわり、人にも自然にも言い、やわらかくほんのりとして霞んで見えるもの、ゆったりと明るい雰囲気の中におぼろげにふんわりと霞んでいるさまを言った。現代語でいえば、「うらうらに」はこの「おんぼり」に相当するのではあるまいか。であれば、初句の「うらうらに」と第四句の「心悲しも」とはすなおに響き合い、時の家持の憂愁の拠って立った情景をよく理解することができる。

 『釋注』は、この「おんぼり」を冒頭にすえ、歌全体の意を次のように他の通釈には見られない優れて情景喚起力の豊かな表現を第三句にあてながら通している。

おんぼりと照っている春の光の中に、ひばりがつーん、つーんと舞い上がって、やたらと心が沈む。ひとり物思いに耽っていると。

 「おんぼり」という言葉は確かに美しい響きをもっている。その意味からしても、この「うらうらに」の訳語として適切かもしれない。しかし、正直なところ、私には語感がつかみきれない。それに、ある限定された地方にしか使われていない方言を通釈に援用することにも問題があると思う。
 それはともかく、「うらうらに」については、『釋注』の解釈と歌意の通し方を尊重することにして、明日の記事では、第三句の「ひばり上がり」が打ち開く詩的空間の考察に移ろう。













鉛直線上の〈孤悲〉のアリア、あるいは、大伴家持における〈雲雀〉と孤愁について(一) ― 雲雀についての哲学的考察断片(六)

2018-03-08 05:17:21 | 哲学

 昨日の記事まで、間に一回スピンオフを挟みつつ、四回に渡って「雲雀についての哲学的考察断片」のタイトルの下、西洋近代文学において〈雲雀〉が象徴する文学的価値について、ガストン・バシュラール『空と夢』に依拠しながら見てきた。
 その読解作業によって得られた知見を対比的要素として援用しつつ、今日から何回かに渡って、日本古代文学における〈雲雀〉の表象の価値についての考察を試みる。
 考察対象は、すでに予告したように、大伴家持の傑作の一つ、『万葉集』巻第十九巻末の春愁三首の最後の一首(4292)である。あまりにも有名な歌ではあるが、まずはその歌そのものを掲げる。

うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば

 この歌の通釈を手元にあるいくつかの辞書・注釈書等によって見てみよう。

うららかに照っている春の日に、ひばりが高く舞いあがってさえずり、悲しい気分になることだ。一人で物思いにふけっていると。(旺文社『古語辞典』第十版)

うららかに照る春の日、ひばりは囀り高く舞い上がる……。私の心は悲しみに閉ざされる、独り物思いに沈んでいると。(『ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 万葉集』角川書店)

春の日はうららかに照っている。その中にひばりがあがる。うらがなしいことだ、独り物思いをしていると。(大岡信『私の万葉集』)

のどかに照っている春の日中にヒバリが舞い上がり、心が悲しい。一人で思っていると。(新版『万葉集(五)』岩波文庫)

 これらの通釈を見て、わかること、いや、わからないことは、上三句と下二句との内容上の関係である。うらうらに照れる春日にひばりが空に高く舞い上がるのを見ているからこそ、心に悲しみがつのるのか。あるいは、そんな明るくのどかな光景にもかかわらず、独り物思いに沈んでしまうことを避けられないから心が悲しいのか。
 上掲のいずれの通釈も、その前提となっている注釈や解釈も、この歌の詩的世界についてなにか肝心な点を取り逃がしているのではないか、という、どこかしっくりこない気持ちをしこりのように私に残す。その理由を自分に問うてみるとき、いくつかの問題点が浮かび上がってくる。
 今日のところは、「うらうらに」という副詞に関わる問題を指摘するに留める。
 「うらうらに」とは、どのような様態を意味しているのか。一見、現代語の「うららか」と形が似ているし、多くの古語辞典も訳語としてこの現代語を挙げており、その用例としてこの家持の歌を挙げている。ところが、「うらうらに」は、万葉集にはこの家持の一例しかなく、他の上代の文献にも見あたらない「孤語」(伊藤博『萬葉集釋注』)なのだ。だから、どの辞書もこの家持の歌を用例として挙げざるをえないわけだが、一例しかない以上、その意味するところをこの歌に即して内在的に理解することを試みなくてはならない。
 もっとも、中古以後、「うらうらと」となり、これには、『土佐日記』『枕草子』『山家集』『愚管抄』等、いくつもの用例を挙げることができるから、そこから遡源的に上代における意味を推測することができないわけではない。しかし、そのような遡行方法には、核心から逸れてしまう危険がつねに伴う。
 それに、「うらうらに」と「うらうらと」とは、どちらも副詞として機能している点では同じだが、「に」と「と」は意味論的にまったく等価ではない。現代日本語では、前者においては状態性がまさり、後者においては動作性がまさる。しかし、この意味論的差異を古代日本語にそのまま当てはめることもできない。
 「うらうらに」については、当然、数多の先行研究がある。残念ながら、今それらを参照する手立ても時間もない。それに、仮にそれらが手元にあったとしても、そもそも素人が簡単に手出しできる問題でもない。
 これらの制約にもかかわらず、今回の一連の記事を通じて私が試みてみたいことは、一つの詩語によって開かれ、一つの詩的形象がそこで生動する詩的空間の中から、一つの哲学的含意を引き出すことにほかならない。
 明日以降も、毎日、細々とだが、この「哲学演習」をしばらく続ける。











〈雲雀〉の波動理論 ― 雲雀についての哲学的考察断片(五)

2018-03-07 01:36:54 | 哲学

 〈雲雀〉はなぜ私たちの心を動かすのか。逆に問えば、私たちの心のどこが〈雲雀〉に感応して震えるのか。この問いに答えるために、バシュラールは、「雲雀の波動理論」というユニークなアイデアを提案する。この理論によれば、私たちの存在の顫動する部分こそが雲雀をそれとして感知することができる。この部分は、どのように記述されうるのか。視覚的表象の知覚の統制下で形式的に記述することはできない。それは力学的想像力の努力によって動態的にこそ記述されうる。そして、雲雀の力学的記述は、己の内部のある点から歌を響かせる覚醒した世界の力学的記述にほかならない。

Et le philosophe, tout à sa fonction d’imprudence, proposerait une théorie ondulatoire de l’alouette. Il ferait comprendre que c’est la partie vibrante de notre être qui peut connaître l’alouette ; on peut la décrire dynamiquement par un effort de l’imagination dynamique ; on ne peut pas la décrire formellement dans le règne de la perception des images visuelles. Et la description dynamique de l’alouette est celle d’un monde en éveil qui chante par un de ses points (G. Bachelard, L’Air et les Songes, op. cit.,p. 110).

 一羽の雲雀という外的対象が発する音波の刺激によって知覚主体である私たちの心の内にある感情が引き起こされる。このような心身二元論的記述方式とはまったく異なった世界記述方式を雲雀の波動理論は提案している。世界内のある一点から響いて来る雲雀の歌の目に見えぬ波動が世界内の粒子の集合体の一つである私たちの心身を動かす。雲雀の歌声によって引き起こされた私たちの心身の震えは世界内に引き起こされた世界の身体の震えにほかならない。
 このような心身の顫動が起る詩的空間の記述は、既得の空間認識を一定の術語によって単に再認することではありえない。その記述の実践自体が一つの詩的空間の創成なのであり、その空間の探索から詩的世界の冒険が始まる。











「雲雀についての哲学的考察断片」スピンオフ ― 天から舞い降りてくるかの如き音楽

2018-03-06 00:09:17 | 私の好きな曲

 今日の記事は、昨日までの四話連続の「雲雀についての哲学的考察断片」からのスピンオフです。
 遥か天空から舞い降りて来るかのような雲雀の歌声についての記事を書いていて、モーツアルトのK361「13の管楽器のためのセレナード~グラン・パルティータ」第3楽章アダージョのバスーンとバセットホルンによる短い前奏後のオーボエの入りの旋律を想い出しました。あれこそ天から舞い降りてくるかの如きと形容するのが相応しい音楽の一つではないでしょうか。この一節、映画『アメデウス』でサリエリが初めてモーツアルトの天才に触れて衝撃を受けるあの有名なシーンで実に効果的に使われていましたね。
 天から聞こえてくるかのような音楽ということでもう一つ思い出したことがあります。もう何十年も前のことなので曖昧にしか覚えていないのですが、確か、吉田秀和の『私の好きな曲』(新潮文庫版)の中で読んだのだったと思います。シューベルトの交響曲第8(9)番ハ長調「ザ・グレート」第2楽章アンダンテ・コン・モートのホルンの八連下降音について、同曲をシューベルトの死後に発見したシューマンは、「天の使いが空から降りて来るようだ」と評したのではなかったでしょうか。
 どちらの曲にも、それこそ数え切れないほどの名演奏がありますね。私のお気に入りは、「グラン・パルティータ」の方は、カール・ベーム指揮ベルリン・フィルハーモニー管楽アンサンブルの演奏(1970年録音)。因みに、『アマデウス』の中で使われていた演奏は、ネヴィル・マリナー指揮アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズの演奏(1984年録音)でした。これも秀演だと思います。「ザ・グレート」の方のお気に入りは、ヘルベルト・ブロムシュテット指揮シュターツカペレ・ドレスデンの演奏(1981年録音)です。ギュンター・ヴァント指揮ベルリン・フィル(1995年ライヴ録音)のきりりと引き締まった演奏もいいですね。
 そうそう、「ひばり」繋がりということで言えば、ハイドンの弦楽四重奏曲に「ひばり」(Op. 64 N°5, Hob. III :63)というタイトルが付けられた超有名な名曲がありますね。これは第1楽章冒頭の旋律が雲雀の囀りに似ているから付けられたということだそうですが、ハイドン自身が付けたものでもなく、いつ誰によって付けられたのかも不明なままのようですね。
 この曲も名演奏に事欠きません。個人的な好みに過ぎませんが、よく聴く演奏は、古楽器演奏では、フェステティチ四重奏団。現代楽器演奏では、コダーイ弦楽四重奏団。後者は、いわゆる楷書の正統派の演奏なんですが、ほんとうにいつでも私の気持ちにぴったりくる演奏で、何度聴いてもその度になんか嬉しくなっちゃいます。
 以上、「〈ひばり〉系」の音楽ということで、「雲雀についての哲学的考察断片」と題された一連の記事の内容には直接関係しないことでしたが、一言触れさせていただきました。
 それでは、明日はまた「雲雀についての哲学的考察断片」に戻ります。













「詩的空間において、雲雀は、歓喜の波動が伴う見えない粒子である」― 雲雀についての哲学的考察断片(四)

2018-03-05 03:57:36 | 哲学

 バシュラール『空と夢』の中でも、次の一節はとりわけ美しい。一つの哲学詩と言ってもいいくらいではないかと思う。手元に邦訳がないので、原文の後に拙訳を示す。何度も読み直してその美しさを直に歎賞すべき仏語原文を汚すだけに終わるのかも知れないと怖れつつ。

 Pourquoi une verticale du chant a-t-elle une si grande puissance sur l’âme humaine ? Comment peut-on en recueillir une si grande joie, une si grande espérance ? C’est peut-être parce que ce chant est à la fois vif et mystérieux. Déjà, à quelques mètres du sol, l’alouette poudroie dans la lumière du soleil : son image vibre comme ses trilles ; on la voit se perdre dans la clarté. Pour formuler cette éclatante invisibilité ne pourrait-on pas accueillir dans la poétique les grandes synthèses du génie scientifique. On dirait alors : Dans l’espace poétique, l’alouette est un corpuscule invisible qu’accompagne une onde de joie (G. Bachelard, L’Air et les Songes. Essai sur l’imagination du mouvement, Le Livre de Poche, coll. « biblio essai », 1992 [première édition, Librairie José Corti, 1943], p. 110).

 なぜ、天から鉛直方向に下降してくる歌は人間の魂にかくも大きな力を及ぼすのか。なぜ、その歌から、かくも大きな歓喜、かくも大きな希求を受け取ることが人はできるのか。すでに、地上からわずか数メートルのところで、雲雀は太陽の光の中に粒子のように舞い上がる。その姿はトリルのように顫動する。雲雀は明晰さの中に消失する。この眩ばかりの不可視性を定式化するために、詩学の中に科学の天才の偉大なる集大成を迎え入れることはできないだろうか。そうすれば、次のように言えよう。詩的空間において、雲雀は見えない粒子であり、それには歓喜の波動が伴う、と。

 あらずもがなのパラフレーズとの誹りは覚悟の上で、以下に一言拙きコメントを記す。

 その姿が光の中に微粒子のように舞い上がり不可視なものと化すとき、〈雲雀〉は視覚において無化され、聴覚において天上からの歌声として地上に舞い降りてくる。詩的空間において、視覚における垂直上方への飛翔によってもたらされる粒子の不可視性と聴覚おける鉛直下方への歌声の降臨がもたらす歓喜の波動の伝導とが〈雲雀〉という不可視かつ明晰な一形象として統合される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


雲雀は天空に生きる鳥である ― 雲雀についての哲学的考察断片(三)

2018-03-04 13:21:32 | 哲学

 ジュール・ルナン『博物誌』の中の「雲雀」と題された短い一節から何行か読んでみよう。

 Je n’ai jamais vu d’alouette et je me lève inutilement avec l’aurore. L’alouette n’est pas un oiseau de la terre.

 雲雀は、地の鳥ではなく、空の鳥だ。だから、地上の存在である人間は、雲雀の生態を地の鳥のそれのようにつぶさに記述することは諦めざるを得ない。万華鏡のように煌めく言葉の彩を操ることに卓越した才能を示したジュール・ルナンにさえ、それはできないことだった。夜明けとともに起き出しても、雲雀の姿はけっして見ることができない。では、その「見えない」雲雀を作家はいかにして文学的に形象化するのか。
 作家は、雲雀の天空の飛翔を肉眼で把捉することを諦め、眼を地に落とし、その声に耳を澄ます。すると、どこか天空の高みから、黄金の盃の中で水晶の破片を砕くような妙なる澄んだ歌声が聞こえて来ないだろうか。

 Mais écoutez comme j’écoute.
 Entendez-vous quelque part, là-haut, piler dans une coupe d’or des morceaux de cristal ?
 Qui peut me dire où l’alouette chante ?
 Si je regarde en l’air, le soleil brûle mes yeux.
 Il me faut renoncer à la voir.

 雲雀は天空に生きる鳥なのだ。そして、私たちにまでその歌声を伝えてくれる唯一の空の鳥なのだ。

 L’alouette vit au ciel, et c’est le seul oiseau du ciel qui chante jusqu’à nous.

 私たちの魂は、なぜ、この天から鉛直に降臨する透明な歌声にかくも心を動かされるのか。この問に対するバシュラールの答えを明日の記事で読んでみよう。












ミシュレにおける理想化された精霊としての「目に見えぬ雲雀」― 雲雀についての哲学的考察断片(二)

2018-03-03 17:32:16 | 哲学

 さて、今日の記事では、西洋文学に現われたる〈雲雀〉の表象について少し見てみよう。
 このテーマについては、幸いなことに、先日の記事で言及したバシュラールの『空と夢』第二章「翼の詩学」第七節に見事な分析がある(このバシュラールの名著には邦訳があるが、未見)。
 この節には、英仏伊の詩人・作家たちからの引用が散りばめられていて、それを読むだけでも楽しい。
 その中で、私に懐かしい想いを抱かせたのは、Jules Michelet, L’Oiseau (ジュール・ミシュレ『鳥』)からの引用である。十数年前のことだが、パリのサン・ミッシェル通りから少し脇にそれたところにある古書店で、1857年刊行の同書の改訂増補第三版を購入した(初版刊行は前年1856年だから、当時よく売れたということだろう)。背表紙の革はもう相当に傷んでいたが、中身は所々に斑点状のしみはあるものの、わりと綺麗で、今でも手元において大切にしている。
 バシュラールは、同節で数回ミシュレを引用しているが、ミシュレが叙述する雲雀は、もう「ミシュレの雲雀」と言わなければならないほどに理想化された「眼に見えぬ」形象として『鳥』の中に登場する。

Sa chanson gaie, légère, sans fatigue, qui n'a rien coûté, semble la joie d'un invisible esprit qui voudrait consoler la terre (p. 30).

その陽気で軽やかで疲れを知らぬ無償の歌は、大地を慰めようとする眼に見えぬ精霊の悦びのようだ。

Au réveil des campagnes, à la gaieté des champs, l’alouette répond par son chant, elle porte au ciel les joies de la terre (p. 196).

田園の目覚めに、野原の陽気に、雲雀はみずからの歌で応える。地上の歓喜を天空へと運ぶ。

 雲雀が自然の精霊のように形象化されている例は、英国の詩人シェリー、同じく英国の小説家メレディス、イタリアの詩人・作家ダンヌンツィオなどにも見られる。それらからの引用はここでは省く(ご興味のある方は、バシュラールの邦訳を参照なさってください)。
 明日の記事では、フランスの作家 ジュール・ルナンの Histoires naturelles(『博物誌』)の « L’alouette » と題された短い一節から引用し、それについて若干の考察を加える。