内的自己対話-川の畔のささめごと

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古典の影、行間の沈黙から発してくるもの ― 西郷信綱『古典の影 学問の危機について』(平凡社ライブラリー、1995年)より

2024-08-08 17:24:00 | 読游摘録

 紙版での入手が困難になった本をアマゾンがオンデマンドで印刷・製本して販売しているが、その印刷レベルはお世辞にも褒められたものではない。原本より小さいポイントを用い、しかもインク代をケチっているのか、印刷がところどころかすれている。そのくせ価格設定は高めである。だから、原則避ける。
 ところが、先日、西郷信綱の『古典の影 学問の危機について』(平凡社ライブラリー、1995年)を発注し、届いてはじめてそれがオンデマンド版だと気づくというヘマをやらかした。案の定、印字がところどころかすれている。同書は現在まともな状態の紙版の入手が今困難であるし、注文の段階で確認を怠ったのはこちらの不注意だからアマゾンに文句は言えないが、こんなお粗末な印刷で本と言えるかと腹の虫がおさまらない。
 同氏の『古代人と夢』『古代人と死』『源氏物語を読むために』は同ライブラリー版が容易に入手できるし、電子書籍版も刊行されている。『古典の影』も、ヘボなオンデマンド版よりも電子書籍版を刊行してほしいものである。
 本書には、現代において古典を読むとはどういうことか、古典をいかに読むか、という問いをめぐって、1967年から1994年の間に、全集月報・他者の書の解説・雑誌への寄稿などさまざまな機会に綴られた文章が集められており、いささか筋張った文章に辟易するところもなくはないが、論述内容そのものは今も傾聴に値する。
 書名にもなっている「古典の影」と題された論考は1968年3月に雑誌『みすず』に発表された。一昨日の記事で引用した伊藤仁斎の『童子問』の一節を冒頭に掲げ、そこから当時の論壇に「「駁雑の学」という泥沼におちこんでいるのではなかろうか」と批判を突きつける。その直後の段落で西郷はこう述べている。

 右の仁斎の一文を読むと、私は否応なくこのようなことを考えさせられる。これは仁斎からの逸脱でもなければ、いわゆる深読みでもないと思う。その志向性において読むとき、右の一文の行間の沈黙から、まさにこのような意味が発してくるのである。いま立ち入ることはしないけれど、行間を読むという古来の読書法には、言語表現の本質からしても首肯される点があるはずで、とにかく、この行間の沈黙から発してくるもの、これが私たちに投げかけられた古典の影であり、古典がつねに読み直され、そこに人があらたな意味を見出すのも、この影においてである。だから、そこに表現されている観念の姿そのものが問題であるだけでなく、それが私たちに放射してくる意味、それによって私たちをあらたな探究に向かって開くところの意味、すなわち古典のヴェクトルとでもいうべきものが同時に問題なのである。『童子問』が日本における学問論のもっとも重要な、だがかくされた古典であると私に思えるのも、この点にかかっている。

 西郷信綱のこの文章を読むことによって私もまたこのように古典をその影において読み直し続けたいとあらためて勇気づけられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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