内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

鉛直線上の〈孤悲〉のアリア、あるいは、大伴家持における〈雲雀〉と孤愁について(二) ― 雲雀についての哲学的考察断片(七)

2018-03-09 10:28:17 | 哲学

 昨日の記事で取り上げた「うらうらに」の意味についての考察を今日も続ける。
 平安朝では、「うらうらと」は、散文では多用されるが、歌語としては例がほとんどない。手元の文献で調べたかぎりでは、西行の『山家集』中歌「うらうらと死なんずるなと思ひ解けば心のやがてさぞと答ふる」(1520)のみ。この歌では、しかし、「うらうらと」は「心のどかに」という精神状態を表現しているのであり、心象風景とも言えず、ましてや情景描写ではない。
 手元にある万葉集関連の文献の中で、この「うらうらに」の意味について唯一立ち入った考察を展開しているが伊藤博『萬葉集釋注』である。
 「うらうらに」は難解とした上で、「「うらうらに」が家持のこの歌だけの語だということになれば、それは、家持の美意識の慎重な選択を経て用いられたと見なければならない」と判断し、「明なるが故に悲し」というよく見られる解釈を超えて、「明るさを含みながらも、何か焦燥を誘う霞がかった世界を言い表そうとしたもの」という独自の釈義を展開している。
 その根拠として、左注にある「春日遅々」の「遅々」が多く「うらうらに」にあたることを挙げている。そして、「遅々」とは、「春の日が長く、進まず、どこかほんのりと霞んだ、そして何かしらそわそわさせられる情況を言ったもの」であるとする。
 この解釈を前提として、「うらうらに」の訳として、「おんぼり」という石川・福井あるいは出雲の方言をあてている。

常に光にかかわり、人にも自然にも言い、やわらかくほんのりとして霞んで見えるもの、ゆったりと明るい雰囲気の中におぼろげにふんわりと霞んでいるさまを言った。現代語でいえば、「うらうらに」はこの「おんぼり」に相当するのではあるまいか。であれば、初句の「うらうらに」と第四句の「心悲しも」とはすなおに響き合い、時の家持の憂愁の拠って立った情景をよく理解することができる。

 『釋注』は、この「おんぼり」を冒頭にすえ、歌全体の意を次のように他の通釈には見られない優れて情景喚起力の豊かな表現を第三句にあてながら通している。

おんぼりと照っている春の光の中に、ひばりがつーん、つーんと舞い上がって、やたらと心が沈む。ひとり物思いに耽っていると。

 「おんぼり」という言葉は確かに美しい響きをもっている。その意味からしても、この「うらうらに」の訳語として適切かもしれない。しかし、正直なところ、私には語感がつかみきれない。それに、ある限定された地方にしか使われていない方言を通釈に援用することにも問題があると思う。
 それはともかく、「うらうらに」については、『釋注』の解釈と歌意の通し方を尊重することにして、明日の記事では、第三句の「ひばり上がり」が打ち開く詩的空間の考察に移ろう。