内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

天体から地上の身体へ ― 古代日本の一詩人によって読み解かれた天からのメッセージ (4)

2018-03-20 00:00:00 | 哲学

第二歌群 ― ポリフォニック・アンサンブル(1520-1522)②

 昨日読んだ長歌に併せて詠まれた反歌二首を今日は読もう。

風雲は 二つの岸に 通へども 我が遠妻の 言ぞ通はぬ (1521)

 この第一反歌は、お互いに自由に会うことができない苦痛を長歌以上に強く凝縮された仕方で表現することで、まさに反歌としての機能を果たしている。天の川があまりにも広大な障害であるゆえに、風と雲は何の障りもなく行き交っているのに、向こう岸にいる織女の言葉はこちらに届かない。
 第二反歌に移ろう。

たぶてにも 投げ越しつべき 天の川 隔てればかも あまたすべなき (1522) 

 一見すると、この第二反歌の表象は、第一反歌のそれと矛盾するように思われる。第一反歌は、両岸を絶望的なまでに引き離す大洋のように天の川の広大さを表象化していたのに対して、この第二反歌は、対岸までの距離の短さを表象化している。
 この一見すると正当化が困難な両歌間の矛盾を前にして、注釈者の中には、所詮これらは虚構にすぎないと、解釈そのものを拒否するものがいたり、第二反歌を後日の挿入とすることで二首ひとまとまりの解釈を回避するものがいたりした。
 しかし、万葉集の仏訳者ルネ・シフェールが的確に指摘しているように、「些細な(物理的)距離と(天の)禁止によって据えられた途方もない心理的な距離とのもう一つの比較の仕方」がここでの主題であろう。第一反歌のイメージと第二反歌のイメージとの対立は、織女ともっと頻繁に逢うことを可能にする方法がまったく存在しないこと、それゆえ牽牛はもはや何をすべきなのかわからないことをまさに舞台の一場面として提示しているのである。
 第二反歌の結句にみられる「すべなし」という言葉は、老病貧死に関わる癒し難い人間苦やこの地上世界で経験される苦悩に対しての深い絶望を表現する際に憶良が好んで用いる表現である 。
 憶良の歌においては、希求と幻滅、希望と絶望、野心と落胆などの相対立する感情がしばしば交錯することで劇的空間が開かれていることもここで指摘しておかなければならない。
 第一反歌と第二反歌との間には、観点の相違が導入されているとする見方も成り立つ。地上から天空の天の川を仰ぎ見れば、それは簡単に渡れる小川のようにも見える。ところが、その簡単に渡れそうに見える川が乗り越えがたい運命として立ちはだかる。それは運命として課される不条理な不可能性を象徴している。茫洋たる大洋と短い川幅という互いに矛盾する二つのイメージを舞台に登場させることによって、まさに運命の過酷さを詩劇として表現し得ているのである。
 天空において永遠に繰り返される別離を、人間存在によっても感じられうる苦痛へと変容させ、地上へと下降させることによって、憶良は、古代演劇の伝統的な枠組みを超越し、この地上世界で生きられている人間的真実を表現しようとしたのだ。
 もう一点、この三首の歌群について指摘しておきたい。それは、中国起源の漢語 の日本語の詩的表現への変換である。その変換によって、伝統的な漢語本来の簡潔さと雅致とを損なうことなく、七夕伝説にまつわる民俗的に共通のイメージを尊重することで、憶良はそれまでの七夕歌にない独自の作品を詠むことに成功している。この歌群制作とともに、憶良は、日本詩歌における新しい道、すなわち詩劇の世界を切り開いていく。
 と同時に、この歌群は、地上に生きる人間の実存的な苦しみを表現する憶良の一連の歌群を準備することになり、それは著名な「貧窮問答歌」の世界へと繋がっていく。