内的自己対話-川の畔のささめごと

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鉛直線上の〈孤悲〉のアリア、あるいは、大伴家持における〈雲雀〉と孤愁について(四) ― 雲雀についての哲学的考察断片(九)

2018-03-11 00:52:15 | 哲学

 「うらうらに照れる春日にひばり上がり」、そのとき、心が悲しいのは、なぜなのだろうか。第五句「ひとりし思へば」まで素直に読み下ろせば、それは、独りで物思いに沈んでいるから、と一応の理屈はすぐにつけることができる。
 しかし、この「ひとりし思へば」という表現は、『万葉集』中の類例が他に一つしかない異例の用法であることを忘れるわけにはいかない。他の一例は、小治田広耳の作、「ひとり居て物思ふ宵に霍公鳥こゆ鳴き渡る心しあるらし」(巻第八・1476)。この広耳という人は、伝未詳だが、家持とほぼ同時代人であろう。両歌に共通するのは、どちらも他者とは本来的に分かち合えない「思ひ」を懐いていることである。
 集中、「ひとり」の用例は70余例あるが、その多くは「ひとり寝る歌」である。つまり、共に寝る相手がいない結果としての「独り」の寂しさを詠んでいる。他の例を見ても、「ひとり」とは、共に過ごすべき相手がいないという不在・欠落・喪失の状態を指している。言い換えれば、この「ひとり」は他者を前提とし、他者を志向している。
 ところが、「ひとりし思へば」はそうではない。誰かがそばにいないから、誰かのそばにいないから、あるいは「思ひ」を伝える相手がいないから、独り物思いに沈んでしまう、だから心が悲しい、ということではない。「思ひ」は独りでしかありえないという、「思ひ」そのものの単独性が心を悲しみで満たしている。
 穏やかな春の陽光に照らされ、その中を雲雀がまっすぐに空高く上ってゆく詩的空間が心そのものなのであり、その心が独りでしかありえない「思ひ」なのであり、その「思ひ」は悲しみ以外ではありえない。
 佐佐木幸綱『万葉集の〈われ〉』(角川選書、2007年)は、この「ひとりし思へば」に早く注目した一人として、万葉学者であり歌人でもあった川口常孝を挙げ、その著書『万葉歌人の美学と構造』(桜楓社、1973年)に言及している。佐佐木書からの孫引きになるが、参考までに、川口書の一節を引用しておく。

二人寝は望まれようし、二人が去くことも、二人で飲むこともできる。だが、二人で『思ふ』ことはできないのである。『相思ふ』ことはできようが、二人で一つの思いを思うことはできないのである。ここに『ひとり思ふ』世界の徹底的な孤絶の深淵がある。