内的自己対話-川の畔のささめごと

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鉛直線上の〈孤悲〉のアリア、あるいは、大伴家持における〈雲雀〉と孤愁について(八) ― 雲雀についての哲学的考察断片(十三)

2018-03-15 00:44:03 | 哲学

 四二九二番歌における「ひばり上がり」は、小運動体の垂直方向への急速な上昇を表現している。つまり、この歌の動性は、垂直軸に沿って展開されている。したがって、〈ひばり〉という明確な形をもった生物個体の垂直上方への急速な上昇と四二九〇番歌における霞という不定形なものの水平方向への緩やかな拡散とは、際立った対照をなしていると言うべきだろう。
 麗らかな春の光の中、無限に広がる天空での何ものにも囚われない自由な飛翔を〈ひばり〉が象徴しているとすれば、それを見ている詩人は、なぜ心悲しいのか。春の陽光に照らされて独りでしかありえないことを自覚した〈思ひ〉は、〈ひばり〉とともに上空へと飛翔することはできない。その上昇不可能性は、この詩的空間において、〈思ひ〉を下方へと沈降させずにはおかない。詩的空間において独りの〈思ひ〉に働いている重力、それがどこまでも深い悲しみを詩人の心に生じさせる。
 もう一点、この歌について指摘できることは、〈春日〉について、それが夜明け前でも日が傾き始めた夕方以降でもないということは明らかだとしても、それ以上には時間帯は限定されていないということである。春日の麗らかさそのものが時間的にそれだけ非限定的に形象化されていると言い換えてもよい。この点でも、「この夕影」という表現によってある特定の日の特定の時間帯を指示している四二九〇番歌とは対照的である。この〈春日〉の時間的非限定性は、家持の孤独の深度に照応している。