内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ミシュレにおける理想化された精霊としての「目に見えぬ雲雀」― 雲雀についての哲学的考察断片(二)

2018-03-03 17:32:16 | 哲学

 さて、今日の記事では、西洋文学に現われたる〈雲雀〉の表象について少し見てみよう。
 このテーマについては、幸いなことに、先日の記事で言及したバシュラールの『空と夢』第二章「翼の詩学」第七節に見事な分析がある(このバシュラールの名著には邦訳があるが、未見)。
 この節には、英仏伊の詩人・作家たちからの引用が散りばめられていて、それを読むだけでも楽しい。
 その中で、私に懐かしい想いを抱かせたのは、Jules Michelet, L’Oiseau (ジュール・ミシュレ『鳥』)からの引用である。十数年前のことだが、パリのサン・ミッシェル通りから少し脇にそれたところにある古書店で、1857年刊行の同書の改訂増補第三版を購入した(初版刊行は前年1856年だから、当時よく売れたということだろう)。背表紙の革はもう相当に傷んでいたが、中身は所々に斑点状のしみはあるものの、わりと綺麗で、今でも手元において大切にしている。
 バシュラールは、同節で数回ミシュレを引用しているが、ミシュレが叙述する雲雀は、もう「ミシュレの雲雀」と言わなければならないほどに理想化された「眼に見えぬ」形象として『鳥』の中に登場する。

Sa chanson gaie, légère, sans fatigue, qui n'a rien coûté, semble la joie d'un invisible esprit qui voudrait consoler la terre (p. 30).

その陽気で軽やかで疲れを知らぬ無償の歌は、大地を慰めようとする眼に見えぬ精霊の悦びのようだ。

Au réveil des campagnes, à la gaieté des champs, l’alouette répond par son chant, elle porte au ciel les joies de la terre (p. 196).

田園の目覚めに、野原の陽気に、雲雀はみずからの歌で応える。地上の歓喜を天空へと運ぶ。

 雲雀が自然の精霊のように形象化されている例は、英国の詩人シェリー、同じく英国の小説家メレディス、イタリアの詩人・作家ダンヌンツィオなどにも見られる。それらからの引用はここでは省く(ご興味のある方は、バシュラールの邦訳を参照なさってください)。
 明日の記事では、フランスの作家 ジュール・ルナンの Histoires naturelles(『博物誌』)の « L’alouette » と題された短い一節から引用し、それについて若干の考察を加える。