内的自己対話-川の畔のささめごと

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戦中日本におけるもう一つの近代の超克の試み(七)― 時枝における現象学への関心の深度

2017-03-05 19:09:14 | 哲学

 時枝の現象学への並々ならぬ関心が胚胎したのはいつごろのことなのか。それを十分な確からしさとともに推定するだけの根拠が今私の手元にはない。昭和二年に京城帝国大学への赴任が決まり、その数カ月後には一年半の欧州留学に旅立っているが、この留学中に時枝が具体的に何を学んだのか詳らかにしない。留学後、京城帝国大学に昭和十八年まで勤務することになる。おそらく、その比較的早い段階で現象学に強い関心をもったであろうと推測させるエピソードが一つある。
 今、手元に昭和四十七年三月発行の『國文學 解釈と教材の研究』臨時増刊がある。この増刊号は、「敬語ハンドブック 現代語・古典語」と銘打たれおり、一見、時枝誠記とは関係がなさそうである。確かに、同増刊号に収録された論文の中には時枝に言及している箇所が若干見られるが、ほとんどの論文は時枝文法とは直接関係がない。ところが、巻末に、国文学者で京城帝国大学での時枝の先輩同僚であった高木市之助(1888-1974)の「時枝さんの思出」というエッセイが収められているのである。
 そのエッセイによると、高木市之助が京城帝国大学の国語学のポストに相応しい人物の推薦を橋本進吉に頼んだところ、橋本は将来有望な新卒者として時枝の名前を挙げたという。しかし、推薦者の橋本も、時枝が植民地行きを承諾するかどうかは危ぶんでいたという。結果としては、話はとんとん拍子に運んだとある。
 留学後、京城帝国大学での研究生活に入ってからどれくらい経ってからのことか、高木は明記していないし、このエッセイの執筆時からすでに四十年近く前のことであるから、細部において記憶に誤りがあるかもしれないが、以下に引用する高木によるエピソードは、時枝の現象学への学問的関心がけっして自身の国語学研究にとって補助的なものではなく、その展開にとって現象学が決定的に重要な役割を果たすと時枝が確信していたことを印象深く語っている。

 それについて思い出されるのは時枝さんが教授時代の或る日のこと、突如私の宅を訪れ、京城大学を辞して京都大学へ聴講に行きたいと言出されたことである。あっけにとられている私の前で時枝さんが語られた理由は、

自分の国語学は現象学を必要とする段階に差しかかったが、自分はこの方面の知識に比較的弱いので、今自分が信頼する××教授の許で勉強したい。

というにあった。これはつまり時枝さんにとって、自分の学問の操守の前には、大学教授やそれに付随する一切が魅力を喪失したことに他ならなかったのである。
 私が時枝さんのこの決意を翻えさせるためにどんな苦労をしたかについては、当時このことに協力して頂いた麻生さんが知っていて下さると思うが、常識的に言って、大学教授の職というものは自分の勉強のために犠牲にしなければならないほど窮屈なものとは思われなかったので、私達は時枝さんの辞職が京城大学の講座をどんなに窮地に陥れるかについて百方口説いて結局時枝さんを思い止まらせることに成功はしたが、時枝さんにとってはこの断念がどんなに不本意なものであったか。時枝さんの常識はずれの、国語学に対する操守の前に屈服しつつも、時枝さんにこの卑俗な常識を護って貰うためにのみ私達は働かなければならなかったのである(214-215頁)。

 昭和四年に刊行された山内得立の『現象学叙説』を時枝がいつごろ読んだのか、正確なことはわからない(初刷刊行時の山内の肩書は東京商科大学教授。私が所有している昭和五年一月発行の第三刷でも同様。しかし、山内は、昭和四年、京都帝国大学に文学部講師として転任)。いずれにせよ、三十歳を過ぎてまだ間もないころでだったであろう将来有望なこの少壮学者に帝国大学教授のポストを擲ってまで京都に行きたいと山内のこの一書が思わせたのである。同書の何が時枝をここまで思いつめさせたのであろうか。












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