内的自己対話-川の畔のささめごと

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戦中日本におけるもう一つの近代の超克の試み(六)― 時枝とフッサール現象学との出会い(承前)

2017-03-04 17:30:31 | 哲学

 「時枝文法の成立とその源流 ―鈴木朖と伝統的言語観」という講演記録の中で、時枝は、鈴木朖の『言語四種論』を理解するために、鎌倉時代にできた『手爾葉大概抄』まで遡る。そしてそこからの伝統的言語観を特に詞と辞との区別に焦点を合わせて辿り直した上で、こうまとめる。

その根本の考え方というものは、つまり、客体的なものと、それに働きかける人間の主体的なもの、その合体によって、人間の思想の表現というものは成り立つ。これが、日本の伝統的な、文法の根本にある考え方じゃないかと、私は思うんです。(22-23頁)

 この直後に、なぜフッサールの現象学が日本語の特質の解明の手掛かりになったかが述べられる。

 先ほど、フッサールのことを申しましたが、フッサールの現象学が、なぜ私がこれを解明する一つの助けになったかと申しますと、これは山内得立先生の説明によって、こういうことを学んだわけなんですが、フッサールは人間の意識を分析いたしまして、まず一つは、人間を取り巻くところの客観の世界、これをフッサールは、対象面、noema というふうに言っております。ご存じですね。それからもう一つ、その対象面に働きかけるところの人間の働きですね。これを志向作用noesis というふうに言っております。つまり、noema と noesis、 対象面と、それに働きかける志向作用の合体によって、人間の意識というものは成立する。でありますから、たとえばうれしいという感情は、ただうれしいという感情だけじゃなくて、うれしいことの、なにか対象面がある。それは、はっきりしたものであろうとなかろうと、かまわないんですが、なにか対象面があって、それに対する働きかけによって、そこに人間の、うれしいということが出てくる。ですから、現象学の有名な言葉で、<うれしいというのは、うれしきことに対するうれしいことである>というふうな説明がありますが、そういうことなんですね。つまり、noema の表現が、さっき言いました「詞」の表現、noesis の表現が「手爾呼波」と、こういうふうに、一応の説明ができると思うんです。(23頁)

 時枝のフッサール理解が不充分であること、山内得立『現象学叙説』の時枝による読解にも問題があることは明らかなのだが、それを批判したところで、哲学的にはほとんど生産性がない。時枝自身、上掲引用文の直後に、「ところが、日本の古代文法を、フッサールの哲学で説明したって、なんにもならないんで、ただ理解の手がかりになるだけです」と言っているのだから。
 今日のところは、時枝が、日本の伝統的文法の理解の手掛かりとして、フッサール現象学から何を学んだかを確認し、その文脈で「人間の主体的なもの」という表現が使われていることを確認するにとどめる。












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