内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

主体概念を問い直す手がかりとなる近現代のテキスト(7)―「介助」アレンジメント‐複合体

2022-07-29 06:18:02 | 哲学

 主体概念を再考するために演習で取り上げる七番目のテキストは、伊藤亜紗の『手の倫理』(講談社選書メチエ 2020年)である。本書には2020年11月13日の記事で言及している。本書を演習の主要テキストにしてもよいほどに示唆的で内容豊かな好著だ。今回は、しかし、演習で読む他のテキストと同様、「主体」という言葉が使われている箇所の中で特に注目すべき数カ所に限って取り上げる。
 私たちが自分の体にふれるとき、私たちの体は同時にふれられる私でもある。この触覚特有の主体と客体の入れ替え可能性を、伊藤氏は本書で触覚の「対称性」と呼んでいる。さわる主体がさわられる客体にもなりうるこの「対称性」において、触覚は視覚とは異なる独自の特性を持つ。
 伊藤氏がいう「対称性」と結びつく地点に、坂部恵が特に注目する触覚の「内部的にはいりこむ」性質がある。坂部はこの二つをまとめて「相互嵌入」と呼ぶ。「ふれることは直ちにふれ合うことに通じる」と言う。この「相互嵌入の契機」、「いわば自己を超えてあふれ出て、他者のいのちにふれ合い、参入するという契機」が「さわる」にはない、「ふれる」ならではの深みを作り出す。
 他の知覚動詞が作用対象を助詞「を」で示すのに対して、「ふれる」対象は助詞「に」によって示される(この点は「さわる」も同じだが)。このように「に」が用いられるのは、「ふれる」が、その他の感覚と違って、主体と客体を明確に分離せず、内部に入っていく感覚だからだと坂部は言う。
 ここまで坂部の議論を辿ったあとで、伊藤氏は、坂部の議論はいささか観念的で、本書が「倫理」という言葉でとらえようとしている具体的な内容とはいささか方向性を異にすると、自らの探究独自の方向性を打ち出していく。
 以下に引用するのは伊藤氏が本書第4章「コミュニケーション」の中で引用している小倉虫太郎「私は、如何にして〈介助者〉となったか?」(『現代思想』1998年2月号、青土社、190頁)の一節である(145‐146頁)。

「障害者」も「介助者」もどちらもが主体であったり、客体であったりすることはなく、いわば「介助」アレンジメント‐複合体として歩く方向と速度と調子が暫時的に決定されていくのである。そしてさらに、歩いている時に遭遇する障害物、標識や知人、駅の階段を上り下りをする時の通行人への呼びかけ、両者の反応と行為は、非対称的でありつつ連動し、しかも「遅れ」は無視されず、あくまで「遅れ」をめぐって歩き回る車椅子の「介助」アレンジメントは、暫時的に再‐組織化されていく……。車椅子が進む方向を決定する主体は、「障害者」ではありながら、しかし厳密には、「介助者」が介入する余地がまったくないわけではないのである。ここには、単純な主体‐道具といった図式では表現できないいわば奇跡的なアレンジメントが出現しているわけである。

 この考察もまた、具体的な経験に即して主体概念を再考することを私たちに促す。主体とは、動的・暫時的なもの、単体として規定しきれないもの、周囲の社会的な環境も含めたアレンジメントの結果として現出するものなのではないのか、と。