内的自己対話-川の畔のささめごと

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「さわる」と「ふれる」の意味の差異を古典語に遡って調べてみると

2020-11-13 00:17:51 | 読游摘録

 伊藤亜紗の最新刊『手の倫理』の序は、「さわる」と「ふれる」という触覚に関する二つの動詞の用法と両者の意味の差異を実例に即して考察することから始まる。この予備的考察を前提として、「倫理」「触覚」「信頼」「コミュニケーション」「共鳴」「不埒な手」とそれぞれ題された第一章から第六章まで、触覚を基礎感覚とした倫理的考察が展開されていく。随所に示唆的な考察と知見が見られる。
 「さわる」と「ふれる」の意味論的差異に注目したのは彼女が最初ではない。序で言及されているように、哲学の立場から両者の違いに注目したのが坂部恵である。伊藤亜紗は坂部の主張を、「「ふれる」が相互的であるのに対して、「さわる」は一方的である」と一言にまとめている。
 言葉の用法についてのこうした哲学的考察は、往々にして、論者の都合に合わせて言葉の使い方が作為的に切り分けられてしまうきらいなしとしない。ただ、事柄の言分けに貢献するのであればそれはそれで一つの考察方法であるとは思う。
 二つの似た言葉の差異を探るとき、私はまず古語に立ち返ってそれぞれの意味を確かめる。それで問題が解決するわけではないし、意味は時代によって変化するから、古語の用法を論拠にできるともかぎらない。ただ、言葉の生い立ちを知るように常に心がけることは、事柄に対してより繊細な感覚を養ってくれる。「なつかし」「かなし」「はかなし」などの言葉についてこのブログで考察を試みているのもそれが理由である。
 「ふれる」と「さわる」について、例によって、『古典基礎語辞典』を読んでみよう。「ふれる」の古形は「ふる」。上代には、意志的動作を表す四段活用が下二段活用と共存していたが、中古にはそれは滅びた。万葉集に見られる自動詞四段活用は、「手とか指とかで軽く瞬間的に相手にさわる。ほんのちょっとかすめるようにさわる」の意。自動詞下二段活用は、「軽く表面に接する。ちょっとものにさわる」「ちょっと手をつける。ほんの少し食べる」「男女の関係をもつ」などの意。
 それに対して、「さはる」は、他のものに接触して、動きが滞り、時には妨げになる意。物の動きの先に何かがひっかかって障害となること。語釈として、「自然のなりゆきで移動・往き来の邪魔になる。物につっかかって通りにくくなる。主に「障る」と書く」とある。近世に入って意味が拡張され、単に接触する、かかわりをもつことをもいうようになった。この意の場合、主に「触る」と書く。
 つまり、「ふる」が対象との短時間の軽いあるいは淡い関係にとどまるのに対して、「さはる」は何かの妨げになることである。今日でも、前者の意味は「この問題にはふれるだけにとどめます」という表現などに、後者の意味は「私の言ったことが気にさわったのなら、許してください」という表現などに保持されている。
 現代語には、相手がふれてほしくない問題などに言及することを「痛いところにふれる」という言い方があるように、ふれることがいつも優しい所作とはかぎらない。ふれられただけで痛いほどの問題というものは、誰しも思い当たる節があるだろう。「痛いところ突く」となれば、もちろんもっと攻撃的だ。
 現代語では、「手ざわりがいい」という表現は珍しくないが、語源的には、さわるものは「障るもの」なのだから、この表現は矛盾していることになる。今日でも「耳ざわり」は、耳に不快な音について使われるのが主で、「耳ざわりがいい」とはあまり言わないだろう。語源的には誤用と言ってもいいのだから当然のことだ。「お酒を飲みすぎると、お体にさわりますよ」と誰かが私にやさしく言ってくれることがあるとすれば(実際はないが)、アルコールの過度な摂取は体に悪いからご注意なさい、ということだ。
 ちなみに、「気がふれる」と言うときの「ふれる」の語源はよくわからない。「振れる」あるいは「触れる」に関連づける説があるが、仮説の域をでない。「ものごとが常軌を逸する」の意から来ていることは確かだが、この意味での用法は室町末期以前には遡れない。漢字で「狂れる」と書けば、語源はともかく、意味に誤解の余地はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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