内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

悠久の懐かしさ

2022-07-17 23:59:59 | 読游摘録

 今朝、昨日PCR検査を受けた検査場で日本の厚生労働省指定の検査証明書に必要事項を記入してもらった。記入といっても、検査方式など当該項目にチェックを入れ、検査場の判子を押してもらうだけのことで、一分で済んだ。すぐに家に戻り、スマートフォンで MySOS のアプリを使って証明書の写真を撮り送信。一時間ほどで検疫手続事前登録完了の通知が届き、アプリの画面が黄色から青色に変わった。後は空港での出国および入国手続きのときこの青色画面を提示すればよいだけである。念のためにPCからも同様の手続きを完了させ、さらに青色の頁とQRコードとを印刷した。ワクチン接種証明書、陰性証明書ももちろん紙版を携行する。
 今回の出入国に必要な書類が揃って安心したということもあるのだろう、明日の出発前に片付けておきたい仕事もなくはないのだが、一日を争う緊急案件はなく、日本でもできることだからと、よく晴れた今日一日、少しずつ荷造りをしながら、のんびりと読書をして過ごした。
 読んでいたのは高瀬正仁氏の『評伝 岡潔 ――星の章』(ちくま学芸文庫 2021年 初版 海鳴社 2003年)。二年ほど前、同氏の『岡潔 数学の詩人』(岩波新書 2008年)を読み、その「あとがき」で著者が八年のフィールドワークを重ねて執筆した二冊の評伝『評伝 岡潔 ――星の章』『評伝 岡潔 ――花の章』(海鳴社 2004年 本書もちくま学芸文庫として今年一月に刊行された)のことを知り、かねてより読みたいと思っていたのだが、ちくま学芸文庫として再刊されていること一昨日知り、早速電子書籍版を購入したのだった。こういう本はゆっくりと味わうように読みたいから紙版も中古品だが購入した。帰国中滞在する妹夫婦の家に数日後には届く。
 岡潔自身のエッセイにも度々出て来る「懐かしさ」は、岡潔が言うところの「情緒」を理解する手掛かりを与えてくれるキーワードだが、高瀬氏の評伝でもとても印象深く語られている。「心情の美と数学の変容」と題された章の冒頭に、岡潔が文部省の在外研究員として日本郵船の北野丸でフランスに向かう途次の話が出て来る。シンガポールの波打ち際で、ある悠久なものの影に心を打たれたときのことである。この話は岡自身によってさまざまなエッセイの中で変奏されながら繰り返し語られているのだが、それだけ岡にとって決定的に重要な経験の一つだった。
 高瀬氏が引用しているエッセイ集『一葉舟』(角川ソフィア文庫 2016年 初版 読売新聞社 1971年)の巻末に収録された「ラテン文化とともに」の当該箇所は以下の通り。

 一九二九年に私は、一人でシンガポールの渚に立っていた。長い椰子の木が一、二本斜めに海につき出ている。はるか向こうには、ニ、三軒伊勢神宮を思わせるような床の高い土人の家が、渚にいわば足を水にひたして立っている。
 私は寄せては返す波の音を聞くともなく聞いているうちに、突然、強烈きわまりない懐かしさそのものに襲われた。時は三万年くらい前、私たちはここを北上しようとして、遅れて来る人たちを気づかいながら待っているのである。

 この最後の一文を引いた後、高瀬氏は、この「私たち」というのは「日本民族」を指す言葉であり、北上を続けていって行き着く先は言うまでもなく「日本」であると述べている。この懐かしさがわかるとは私には言えないが、それが何かとても大切なことだということは理解できる。この懐かしさについて、高瀬氏は少し先で、「あたかも生まれる前からもっていたと思えるような、名状しがたい「悠久の懐かしさ」とでも言えるような深い「懐かしさの感じ」であったとも言っている。
 唐突だが、哲学もまた、この懐かしさから生まれ、そこへと帰ってゆくものなのではないだろうか、と自問している。バルバラ・カッサン(Barbara Cassin, 1947‐)の La nostalgie. Quand donc est-on chez soi ? Ulysse, Énée, Arendt, Éditions Autrement, « Collection Les Grands Mots », 2013馬場智一訳『ノスタルジー:我が家にいるとはどういうことか? オデュッセウス、アエネアス、アーレント』、花伝社、2020年)を合わせて読みながら、「懐かしさ」について考えてみたいと思う。