内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

主体概念を問い直す手がかりとなる近現代のテキスト(4)― 主体としてのゲシュタルトが生み出す環世界としてのゲシュタルトが織り成す「生命の劇場」

2022-07-26 09:42:39 | 哲学

 〈主体〉再考のために一昨日の記事で取り上げたユクスキュルの『生物から見た世界』からの引用を補完するテキストとして、ユクスキュル最晩年の未完の著作『生命の劇場』(講談社学術文庫 2012年 原本 博品社 1995年)から以下の数カ所も授業で読みたいと思っている。

あなたの説に対する私の理解が間違っていなければ、生物学は動物学とは逆に、個々の主体から出発する道をとるようです。つまり、宇宙から自我へではなく、自我から宇宙へと向かう道です。あなたは、生物のどんな自我も、その感覚器官を用いてそれぞれ独自の世界を作り出していると主張されています。そしてその独自の世界を《環世界》と呼んでおられます。あなたの説によれば、環世界の特色をなしているのは、それが主体にとって意味のある事物しか含まないということです。そこでは、主体に関わりのないものはいっさい無視され、何の役割も果たしません。

 環世界と環境世界の区別と関係、前者においてのみ可能な主体の成立がここでの主要な論点である。

動物の主体は、従来私が繰り返し説明してきたように、その当の主体にのみ属している環世界の中に生きていますが、そうした環世界を満たしている事物は、同様に、動物の感覚器官によって外部へと移し入れられた知覚標識から構成されているのです。これでお分かりのように、動物の知覚器官を、たんに《受容器》と言うだけで済ませたり、まして《知覚装置》などと呼ぶのは、もはや私には到底受け入れがたいことです。

 ここでのポイントは、知覚器官は単なる受容器ではなく、環世界を形成する能動的な構成作用をもっているということである。主体と主体がそこにおいて働く環世界とは全体として「機能環」を形成する。

つまり、ある動物の環世界の中で何らかの役割を果たしている諸事物の意味は、もっぱらそれらの事物の、媒質、敵、獲物ないしは食物、および性のパートナーとしての関係によって捉えることができ、そしてこの関係をさらに子細に調べていくべきだ、ということですね。そうであれば、同じ石が、ある動物の環世界では障害物であり、別の動物の環世界では通路とされている、といったことを容易に想定していくことができるわけです。また、いまおっしゃったことから言えることは、私たちは主体のこれらの四つの《機能環》のいずれかに受け入れられた事物のみが意味を有していると見なし、そしてそれのみをゲシュタルトとして取り扱わねばならない、ということです。つまりただ生命のみがゲシュタルトを生み出すのであり、したがってまた、生物はゲシュタルトを生み出すゲシュタルトである、と。

 「生物はゲシュタルトを生み出すゲシュタルトである」というテーゼは、生物は「環世界」というゲシュタルトを生み出す「主体」というゲシュタルトである、と言い換えることができる。これらゲシュタルトは生物種ごとにある程度の准安定性を維持するが、種ごとに完全に固定的ではない。複数の環世界相互の関係は、調和・共存的でもありうるが、葛藤・闘争・排他性を排除するものでもないからである。そこから主体の動性・可塑性・有限性・解体可能性も出て来る。

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