内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

もしメルロ=ポンティが『陰翳礼讃』を読んだとしたら―「陰翳の現象学」(六)

2020-01-16 18:19:01 | 哲学

 メルロ=ポンティは、『知覚の現象学』第二部第二章「空間」で奥行知覚の問題を十数頁に渡って詳しく考察している。そこでは知覚世界の空間の特性として奥行が取り上げられている。『見えるものと見えないもの』にもしばしば「奥行 profondeur」という言葉が使われているが、それは存在の次元としてである。この両著作での奥行へのアプローチの違いがメルロ=ポンティの哲学の転回点をよく示している。後者における奥行については、拙ブログで2014年4月28日から三日間に渡って取り上げているので、それらを参照していただければ幸いである。
 『眼と精神』にも奥行についての考察がある。奥行に関しては、三次元空間において知覚される奥行と絵画のように二次元の平面において知覚される奥行との二つの問題場面がある。『陰翳礼讃』の関わりでは、前者だけが共通の問題場面として取り上げることができるので、絵画における奥行という『眼と精神』にとっては重要な論点はここでは脇に置く。
 奥行は、物の重なり合いや隠し合いとともに生ずるが、それらの物の定義には含まれない。奥行は幾何学的な空間の特性でもない。そこでは奥行の問題は雲散霧消してしまう。奥行はどこにあるのか。物の間に在るのでもない。物をあるがままに現しながら、それ自身は物と同じようには見えない。しかし、奥行こそが物や場所に存在の重みを与えている。
 『陰翳礼讃』には「奥行」という言葉は使われていない。しかし、「深み」「奥」「奥深い」などの言葉は少なからず使われている。それらの箇所で奥行知覚そのものが問題になっているわけではない。しかし、そこには『眼と精神』の奥行論をよりよく理解するためのヒントが隠されていると私は思う。

諸君はまたそういう大きな建物の、奥の奥の部屋へ行くと、もう全く外の光りが届かなくなった暗がりの中にある金襖や金屏風が、幾間を隔てた遠い遠い庭の明りの穂先を捉えて、ぽうっと夢のように照り返しているのを見たことはないか。

 この箇所が示唆していることは、「奥」とは、時空に広がり徐々に開示される存在の「深み」であり、さらには、そこから物が立ち現われてくる見えない次元への開けだということである。