内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

もしメルロ=ポンティが『陰翳礼讃』を読んだとしたら―「陰翳の現象学」(一)

2020-01-11 23:59:59 | 哲学

 来月5日にする講演のタイトルが「陰翳の現象学」であることは、昨年11月と12月の記事で二回少し触れた。ずっと気にはなっているし、講演の準備ノートも用意してはあるのだが、なかなかまとめられてないでいる。あまり難しい話になってはいけないし、大風呂敷な御託になってもいけないと逡巡しているうちに時間が経ってしまった。しかし、もうぐずぐずしている時間はない。今日から連載記事として少しずつ考えを記していきたいと思う。
 もし『眼と精神』を書いたメルロ=ポンティが『陰翳礼讃』を読んだら、どのように評価しただろうか。この問いに対する答えを『眼と精神』と『陰翳礼讃』のテキストに即しながら想像してみるというのがアイデアである。両作品を繋ぐキーワードは、「存在の織地 texture de l’Être」(L’œil et l’esprit, p. 27)である。
 例えば、燭台の蠟燭の光の穂の揺らめきの中に立ち現れる膳や椀の魅力を語っている次の箇所など、「現にそこにある空間や光に語らせる faire parler l’espace et la lumière qui sont là」(ibid., p. 59)哲学の実践例と見なせるのではないだろうか。

それを一層暗い燭台に改めて、その穂のゆらゆらとまたたく蔭にある膳や椀を視詰めていると、それらの塗り物の沼のような深さと厚みとを持ったつやが、全く今までとは違った魅力を帯び出して来るのを発見する。

 メルロ=ポンティが「光に語らせる」というところを、谷崎は「蔭」に語らせているという違いはあるが、それは両者の対立を示しているというよりも、この光と蔭は一つの事柄の表裏あるいは一つの現象の相補的二要素と見ることができる。

「闇」を条件に入れなければ漆器の美しさは 考えられないといっていい。[…]昔からある漆器の肌は、黒か、茶か、赤であって、それは幾重もの「闇」が堆積した色であり、周囲を包む暗黒の中から必然的に生れ出たもののように思える。

 この一節での漆器の「肌」は、存在に偶有的な感覚質ではなく、まさに「存在の織地」であり、その肌合いをもった漆器は、周囲の空間から切り離され得る一個の物体ではなく、その周囲を包む暗黒から生まれ出たものとしてそれと分かち難い。この暗黒は、メルロ=ポンティのいう「存在の奥行」(Le visible et l’invisible, 1964, p. 108)の知覚世界における現成の一様態と言えないであろうか。