内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

内的合理性をもった解釈が最良・最適な解釈とはかぎらない ―『風姿花伝』「位の差別」の条に即して(三)

2020-01-01 01:39:29 | 哲学

 元日早朝から、年を跨いでの連載を続ける。昨日の記事に引用した原文を再度引く。

また、生得の位とは長(たけ)なり。嵩(かさ)と申すは別のものなり。多くの人長と嵩とを同じやうに思ふなり。嵩と申すは、ものものしく勢ひのある形なり。またいはく、嵩は一切にわたる義なり。位、長は別のものなり。たとえば、生得幽玄なるところあり。これ位なり。しかれども、さらに幽玄にはなき為手の長あるもあり。これは幽玄ならぬ長なり。

 市村訳、小西訳は、「位・長」を一つのユニットと考え、「位・長」が嵩とは違うという解釈を取っている。この解釈においては、嵩とは区別された〈位・長〉という一カテゴリー内における位と長との区別が問題となる。言い換えれば、同類における種差がここでの問題だということである。位は所与としての天稟であり、長は経験における到達点である。つまり、位と長とは、本条の「答」の冒頭の数行で区別されていた二つの位、すなわち天稟に恵まれた少年の役者におのずから顕現する位と稽古の結果として段階的に到達される位とにそれぞれ対応する。
 論理学的語彙を使ってこの解釈の意図を説明すれば以下のようになる。
 類としての〈位〉とその下位概念である種としての「位」とを階層的に区別し、この下位概念としての「位」の種差を「生得幽玄」とし、同じく下位概念の「長」の種差を「非幽玄」とすることで、両者の区別と関係を論理的に整合性のある仕方で規定しようとしている。
 しかし、これだけでは、この規定と「生得の位とは長なり」というテーゼとの関係を整合的に説明できるのかどうか不明なままである。ところが、両訳とも、「これは幽玄ならぬ長なり」という一文は「直訳」するだけで、この不明点についての合理的解釈を訳文に織り込むことを回避している。















新年のご挨拶

2020-01-01 00:00:02 | 雑感

 皆様、あけおめでとうございます。
 この新しき年、令和二年が皆様方にとりまして平安で幸多き一年でありますよう、心よりお祈り申し上げます。

 旧年中は拙ブログをご笑覧くださり、誠にありがとうございました。今年もこれまで同様、毎日投稿いたしますので、ご愛顧のほど、何卒お願い申し上げます。

 一昨年、昨年のように、年頭にあって、この一年間の目標・原則を掲げておきます。

 水泳は、これまでどおりのペース、月二〇回、年間二四〇回を維持する。
 研究に関しては、昨年中に素描を描きはじめたいくつかのテーマ ― 陰影の現象学、〈空〉の倫理学、〈なかしさ〉の哲学 ― について複数の論文を書く。
 教育に関しては、基本的なスタンスはこれまで通り、内容をより拡充させる。
 学科長としては、「最小限の努力で最大限の効果」を意思決定・行動の基本原則とする。
 一年かけてじっくりと読む古典シリーズ「日本古典編」として、昨年に引き続き『源氏物語』を読む。刊行中の岩波文庫版の第四巻から第六巻まで、玉鬘から幻までの二十帖。
 同シリーズ「二十世紀フランス哲学の古典的名著編」として、Jean Wahl, Vers le concret. Études d’histoire de la philosophie contemporaine (William James, Whitehead, Gabriel Marcel), Vrin, 2e édition augmentée, 2004 を読む。