内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

もしメルロ=ポンティが『陰翳礼讃』を読んだとしたら―「陰翳の現象学」(四)

2020-01-14 13:27:48 | 哲学

 『陰翳礼讃』にあって『眼と精神』にない感覚的要素は何か。それは聴覚と嗅覚と味覚である。『眼と精神』は、絵画をその主な考察対象としているのだから、視覚を中心に議論が進められるのは当然のことである。次いで問題にされるのが触覚である。身体の自己関係性が〈触れるもの-触れられるもの〉として捉えられる箇所とデカルトの『屈折光学』が取り上げられる箇所で触覚について考察されている。しかし、その他の三つの感覚については一言の言及もない。

Un corps humain est là quand, entre voyant et visible, entre touchant et touché, entre un œil et l’autre, entre la main et la main se fait une sorte de recroisement, quand s’allume l’étincelle du sentant-sensible, quand prend ce feu qui ne cessera pas de brûler, jusqu’à ce que tel accident du corps défasse ce que nul accident n’aurait suffi à faire… (p. 21)

人間の身体がそこにあるのは、見る者と見えるもの、触れる者と触れられるもの、片方の眼と他方の眼、手と手のあいだである種の交叉が起こり、〈感じ-感じられるもの〉に火花が散り火が灯ったときであって、その火は、偶然的出来事だけでは十分に作りえなかったものを、身体の偶然的出来事が壊してしまうまで燃え続けるのである。(富松保文訳 76頁)

 人間の身体を〈感じ-感じられるもの〉の交叉として捉えるときに視覚と触覚がその格好のモデルを提供するのはわかる。それに対して、〈聞きー聞かれるもの〉〈嗅ぎー嗅がれるもの〉〈味わいー味わわれるもの〉としての人間の自己身体の自己関係性のモデルは構築しにくい。しかし、聴覚・嗅覚・味覚についての考察を欠いては、人間身体の行動の構造も外部世界との関係性も十全に捉えることはできない。そして、なによりも、存在の織地を探究するのであれば、そこには音も匂いも味もその本来的な元素として含まれているはずではないか。これは『眼と精神』に対する批判ではもちろんない。それは「ないものねだり」あるいは「お門違い」というものだろう。
 『眼と精神』にはなくて『陰翳礼讃』にはある要素を積極的に導入することによって、陰翳の現象学を前者の視角を超えて展開することができると私は考える。実際、『陰翳礼讃』には五感が協働して存在の織地を捉える経験の見事な記述がある。

けだし食器としては陶器も悪くないけれども、陶器には漆器のような陰翳がなく、深みがない。陶器は手に触れると重く冷たく、しかも熱を伝えることが早いので熱い物を盛るのに不便であり、その上カチカチという音がするが、漆器は手ざわりが軽く、柔かで、耳につく程の音を立てない。私は、吸い物椀を手に持った時の、掌が受ける汁の重みの感覚と、生あたたかい温味とを何よりも好む。それは生れたての赤ん坊のぷよぷよした肉体を支えたような感じでもある。吸い物椀に今も塗り物が用いられるのは全く理由のあることであって、陶器の容れ物ではああは行かない。第一、蓋を取った時に、陶器では中にある汁の身や色合いが皆見えてしまう。 漆器の椀のいいことは、まずその蓋を取って、口に持って行くまでの間、暗い奥深い底の方に、容器の色と殆ど違わない液体が音もなく澱んでいるのを眺めた瞬間の気持である。人は、その椀の中の闇に何があるかを見分けることは出来ないが、汁がゆるやかに動揺するのを手の上に感じ、椀の縁がほんのり汗を掻いているので、そこから湯気が立ち昇りつつあることを知り、その湯気が運ぶ匂に依って口に啣む前にぼんやり味わいを予覚する。

 ここでの五感の協働は共時的でありかつ通時的である。存在の織地は一挙にそのすべての感覚質を顕にするのではなく、時間の中に徐々に繰り広げられていく。存在の織地が感覚質として繰り広げられていくことそのことが生きられる時間の実質を成していると言うべきかも知れない。
 椀の中身の温かみが漆器を伝達媒体として椀を持つ手の触覚に伝わり、椀と身体とが手の触覚を介して存在の織地を成す。「椀の暗い奥深い底」は存在の奥行として視覚的に立ち現れる。椀から立ち上る湯気は鼻孔をくすぐり、嗅覚を覚醒させる。嗅覚が捉えた匂いが、これから到来する味覚を予告する。現前している感覚質が相互浸透を起こすことで存在の織地が織り成されているだけでなく、予覚として与えられた感覚質もまたすでに織地の「綾」を成している。