内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

内的合理性をもった解釈が最良・最適な解釈とはかぎらない ―『風姿花伝』「位の差別」の条に即して(六)

2020-01-04 00:00:00 | 哲学

 昨日読んだ箇所に続く一文は、生得幽玄のない者にも希望を与えるかに思われる。

また、稽古の功入りて垢落ちぬれば、この位おのれと出で来ることあり。

しかしまた、稽古の年功が積り、芸の垢が洗い流されてしまえば、この位が自然ににじみ出てくることもある。(表章訳)

 ここを読むかぎり、生得幽玄がない役者でも、稽古を重ね、欠点・不器用さを克服することができれば、位がおのずと現われて来ることがあるという希望をもつことができるように思える。しかし、この位もまた本来生得的なもので、稽古以前には潜在的であったものが稽古に精進する役者においておのずと顕現するようになることであり、もともとは身に備わっていなかったが稽古によって新たに獲得され得る能力という意には解しにくい。芸位とは、武道の段位のような強さの指標ではなく、演ずる役者の身体によって劇空間において実現される品位そのものである。
 品位のおのずからなる顕現のために役者が為すべきことはなにか。それは稽古である。その稽古は、まずもって、能楽の基本的な形成要素それぞれにおいて具体的に型を身につけていく過程にほかならない。

稽古とは、音曲、舞、はたらき、物まね、かやうの品々を極むる形木なり。

いま稽古と言ったのは、謡・舞・所作・物まねなど、能芸の基礎を極め尽すことである。初心者はそれを目標にすべきなのだ。(表章訳)

 表章訳は、原文には対応する文がない一文「初心者はそれを目標にすべきなのだ」を付加することで、位が目標化し得ないのであれば、何を稽古の目標にすればよいのかという問いへの答えがここにあるのだという解釈を明示している。