内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「自然な」日本語から「国際語」としての日本語へ ― 日本語を開くために(上)

2015-10-31 04:01:06 | 日本語について

  

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 どの言語であれ、それを外国語として習得する場合、特に学習開始年齢が青年期以降であれば、到達できるレベルには自ずと限界があろう。私などは27歳になろうという年にフランス語を始めたから、もうほとんど絶望的な限界がある。フランス語で講義ができるくらいは話せ、一応論文らしきものがフランス語で書けるということとフランス語の精妙なニュアンスがわかるというということとの間には、それこそ天と地ほどの差がある。私は、今後も、死ぬまで、ただ地を這いつくばりながら、日々怠らずに、一歩でも上達することを「健気に」目指すばかりである。しかし、そのような地を這う虫にも、しかもこれから知力は否応なく下り坂にむかっていく年齢になっても、なお上達の可能性が残されている、つまり学ぶべきことがまだ無尽蔵に残されているという、まさにそのことが、圧倒的な絶望感と同時に、一条の光明のような希望を与えもするのである。
 各言語が有っている精妙なニュアンスが十全に感じられるようになることだけが語学学習の最終目的であるわけではもちろんない。身も蓋もない言い方をすれば、必要に応じて使いこなせるようになれば、それでいいとも言える。
 私がここで考えてみたいのは、しかし、学習者の立場から見た外国語の難しさについてではない。ある言語が、学習者にとってより学びやすい言語になるには、どのような条件が満たされなければならないか、という、言語の「国際語化」の問題について考えてみたいのである。もちろん、ある言語が国際語化するための条件は種々あり、簡単に論じることはできない。今日と明日の記事では、その中の一条件と私に思われるものについてのみ、若干論じてみたい。
 ある言語がそれを母語としない人たちにも普及していくための、そのかぎりで国際語化していくための、少なくとも一つの条件は、その言語の学習に際して障害となりやすい特異な固有性を敢えて切り捨てる、とまでは行かなくても、それを最小限に抑え、できるだけ少ない規則と語彙で運用できるように、「自覚的に」限定していくことだと私は考える。
 日本語に即して、この国際語化のための一条件について考えてみよう。
 昨日までの四回の記事で取り上げた日本語の難しさは、一言で言えば、日本語の円滑な運用のために前提とされる文脈依存性にある。文脈上明らかだから「省略されている」要素を読み手・聞き手が補うことができてはじめて、理解が成立する。さらに踏み込んで言えば、「省略されている」という言い方さえ、適切ではない。なぜなら、それらの要素は顕在化しないのが普通だからであり、あるべきものが敢えて省略されているわけではないからである。仮にそれらの要素を全部文中に顕在化させると、それは日本語としてかえって読みにくい文になってしまう。不必要な衣服を過剰にまとったかのように、重たくて、動きの鈍い、「不自然な」文になってしまう。
 これらの「自然に」隠された「見えない」要素が「自ずと」わかるようになることが、日本語ができるようになることだ、と言うこともできる。実際、学生たちの日本語理解能力をこの一点からだけでも判断できるほどである。
 しかし、まさにそうであるからこそ、「省略」要素を大量発生させるこの文脈依存性を軽減させることが日本語をよりわかりやすい言語にすることにもなる。