内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ユートピアとしての鏡 ― 場所なき場所で与えられる私自身の可視性

2015-10-25 10:48:40 | 読游摘録

  

(写真はその上でクリックすると拡大されます)

 昨日引用したフーコーの文章の中から、ユートピアとしての鏡についての記述のところだけ、再掲する。

Le miroir, après tout, c’est une utopie, puisque c’est un lieu sans lieu. Dans le miroir, je me vois là où je ne suis pas, dans un espace irréel qui s’ouvre virtuellement derrière la surface, je suis là-bas, là où je ne suis pas, une sorte d’ombre qui me donne à moi-même ma propre visibilité, qui me permet de me regarder là où je suis absent ; utopie du miroir.

 鏡がユートピアだと言われるのは、それが「場所なき場所」(« lieu sans lieu »)だからである。鏡の中で、私は自分がそこにはいないところに自分を見る。そこは、鏡面の向こう側にヴァーチャルな次元として開けている非現実的な空間だ。私は「あっちに居る」けれど、そこに私は居ない。一種の影のようなものが私に「私自身の可視性」(« ma propre visibilité »)を与えてくれる。それが、私がそこには居ないところに私を見ることを可能にしてくれる。
 私の知覚世界にはそれを見ている私の視点は対象として含まれていない。その見ている私を可視化するためには、それを私が居ない場所に投射しなくてはならない。この投射を可能にしているのが鏡だ。あるいは、鏡以外の反射面に己の姿を投影しなくてはならない。今日のように、だれでも簡単にヴィデオカメラで自分をリアルタイムで映し出し、その自分の動く姿をモニター画面で見ることができるようになっても、私たちの知覚身体の基礎構造が変わったわけではない。
 この映された可視的な自己への自己の到達不可能性がもたらした悲劇がナルシス神話だ。しかし、これは過去のある時に一度きり発生した悲劇の物語ではなく、人間の実存的条件の一つのアレゴリーになっているからこそ、現代の私たちにも訴えかけてくるものがあるのであろう。
 私たちは、ユートピアなしに己を十全に知ることはできないが、そのユートピアの中に生きることはできない。