内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日本語の難しさ(1) 丸山眞男の文章、あるいは克服可能な困難について

2015-10-27 05:28:34 | 日本語について

  

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 今日から四回に渡って、日仏語間の翻訳の問題をきっかけとして、日本語の難しさについて最近考えたことを書く。その上で、「国際語」としての日本語の将来について、一言私見をのべたい。

 自分の研究論文作成ためや大学での演習において、日本語とフランス語の間を日常的に往還しているから、両語間の翻訳の問題がどうしても日頃からとても気になる。特に、日本語の文学作品や文学的エッセイなど、その味わいをフランス語で伝えるために、翻訳家たちはどんな工夫をしているのか、原文と比較しながら読むことで学ぶことも少なくない。そして、翻訳家たちの人知れぬ苦労を思いやったりもする。
 他方、ああ、一見なんでもないようなところに落とし穴があるのだなあと、外国人にとっての日本語の難しさに改めて気づかされることもしばしばある。それは決して日本語の微妙なニュアンスに関わる箇所とは限らない。それは誰にとっても難しい。むしろ、日本人にとってはほとんど自明のことが、日本語に精通したフランス人にとってさえ、必ずしもそうではないと思い知らされるときがある。翻って、こちらがどれだけフランス語がわかっているのかと自問せざるを得なくもなる。
 修士の演習で今読んでいる丸山眞男の『日本の思想』は、学生たちにとって相当に手強い文章である。彼らの仏訳を見てみると、全然構文が理解できていないこともしばしばある。しかし、これは彼らの現在の日本語のレベルからしたら、まったく無理からぬことである。丸山の主張が難解なのではない。それについてこちらがフランス語で説明すれば、彼らはちゃんと理解できる。彼らにとっての困難は、主に、やたらと複雑な構文と語彙の難しさにある。
 しかし、このような難しさは、実はそれほど大きな問題ではない。なぜかというと、読んで訳している本人たちが、訳している文章の難しさを自覚しているからであり、自分の訳にどこかおかしいところがあることがわかっているからである。そして、一旦議論の筋道が見えてくれば、大きな過ちはもう犯さなくなる。それは先々週まで五週間かけて読んだ「超国家主義の論理と心理」の彼らの仏訳が週を追うごとに目覚ましく改善されていったことからもわかる。