内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

初めて買ったカメラで撮った最初の一枚

2015-10-01 00:59:14 | 写真

 今までカメラというものを持ったことがなかった。
 この夏、一緒にパリ近郊を訪ねた人が沢山の写真を撮り、後でそれらを送ってくれたのを見ていて、その中にとても良い写真があったので、自分でも、まったくの素人ながら、撮ってみたくなった。
 そのためには、何はともあれ、まずカメラを買わなくてはならない。しかし、あまりにも多種多様で、どの機種を選んでいいのかわからない。説明を読んでも、意味がわからない言葉がそこらじゅうに出てくる。値段も、たとえ入門機種に限ったとしても、数万円から十数万円と幅がある。ネットでいろいろなサイトを見、プロにアドヴァイスも受け、NikonかCanon、というところまではたどり着いた。が、それでもまだ迷う。せっかく始めるのだったら、少しは上達したいとも思う。一眼レフかミラーレスか。できるだけハイ・スペックがいいのか。それとも最初は手軽に操作できるものがいいのか。もう悩みに悩んだんである。
 で、買ったのは、Canon EOS M3。昨日、店から届いたとの連絡があり、愛車(自転車)で取りに行った。喜び勇んで家に帰り、まずはバッテリーの充電である。その間に説明書を読もうと、最初のページを開いて、「SDカードが必要ですが、それはキットに含まれていません」と書かれてあって(こんなこと皆さん知っているんですよね)、ガックリくる。SDカードを買うためだけに、また自転車で疾駆して街中に戻る(それでも片道十五分かかるんですよ、街の北の外れに住んでいますから)。
 息を切らせて自宅に戻ると、おお、充電が完了している。バッテリーとSDカードを装填。電源ON。緊張の一瞬である(大げさである)。たちどころに液晶画面が立ち上がる。年月日時間をタッチパネルで入力する。さあ、これで撮影可能だ。
 何枚か室内と窓越しの風景を撮ってみて、PCの画面で見てみる。ぜ~んぜん期待したように撮れていない。まだ使い始めたばかりなんだから当然だよと自分に言い聞かせる。
 買い物に行くついでに近所の風景を撮ろうと、シャッター付きのガレージにしまった愛車(自転車)をまた出して、ペダルを勢いよく踏み込む。お気に入りの散歩道の脇を流れる川で白鳥たちが水浴をしている。夕日に照らされた樹々の緑が水面に揺曳する中を優雅に泳いでいる。これを撮らずしてどうすると、急ブレーキをかけ、転けそうになりながらも、白鳥たち気づかれないように、そおっと近づく。先方は私のことなど最初から完全に無視しているようである。
 かくして撮ったのが下の写真です。記念すべき最初の一枚です。ちょっと印象派風ですが、言うまでもなくそれを狙ったのではなく、結果としてそうなっていただけです。

(写真はその上でクリックすると拡大されます)


「無限の球体」が西田の言語宇宙で光を放つ場所 ― パスカルと西田(5)

2015-10-01 00:00:02 | 哲学

 西田がパスカルのメタファー « sphère infinie »(「無限の球体」)に言及している箇所を追っていくと、パスカルの『パンセ』の思想のある一点に西田の思想の一部が一瞬急接近したかと思われた後、あたかも軌道を異にした二つの天体のように、それを見る者に眩暈を引き起こすような超高速で、無限の哲学的言語空間の中を両者は互いに遠ざかっていく。
 私たちは、だから、もはや両者の比較や可能的な接点を探すことを止めよう。そして、「無限の球体」というメタファーが西田の言語宇宙の中で光を放っている場所を探そう。
 1935年に『思想』に二回に分けて発表され、同年に刊行された『哲学論文集 第一 ― 哲学体系への企図』に収められた論文「行為的直観の立場」の中に、パスカルの「無限の球体」への言及が再び見出される。
 現実の世界とは何か。こう西田は問う。西田の考えを聴いてみよう。

直観が成立する、行為的に物が見られるといふことが、無数の物と物とが表現的に相限定することである。(『西田幾多郎全集』第七巻、2003年、121頁)

 直観の主体がまずあって、その主体が見ることによって物と物との間に関係が成立するのでもなく、主体とは独立に、それに先立って、物と物との間にまず客観的な関係があり、それを主体が行為的に把握することが直観なのでもない。行為する個物である私たちの身体が物の世界において働くことと、無数の物と物とが互いに他を何らかの関係において表現し合っていることとは、同一の事柄であり、同一の経験なのである。それによって開かれる世界を、西田は、「行為的直観の世界」と呼ぶ。

自然は歴史に於てあるのである。[…]真の具体的実在の世界は、[…]永遠の今の自己限定の世界でなければならない。パスカルの周辺なくして到る所が中心となる無限の球といふ如きものである。(同頁)

 自然がまず在って、そこにある時から歴史が形成されるのではなく、歴史において自然が自然として限定される。西田がこのように考えるとき、有史以前から存在する〈自然〉は、人間による概念的構成に過ぎないなどと言いたいのではない。西田が「歴史的現実の世界」あるいは「歴史的生命の世界」と言うとき、すべてがそこに到来する〈時〉が開かれる世界のことを考えている。それゆえ、自然もまたそこに到来するものとして把握されているのである。
 この〈時〉の開けは、一回限りの〈はじまり〉ではない。それはそこにおいて無数の異なった生きられた時がいたるところでいつでも生まれ得る永遠の現在のことである。この「永遠の今の自己限定の世界」のメタファーとして、西田は、パスカルの「無限の球」をここに登場させているのである。