内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「無限の球体」が西田の言語宇宙で光を放つ場所 ― パスカルと西田(5)

2015-10-01 00:00:02 | 哲学

 西田がパスカルのメタファー « sphère infinie »(「無限の球体」)に言及している箇所を追っていくと、パスカルの『パンセ』の思想のある一点に西田の思想の一部が一瞬急接近したかと思われた後、あたかも軌道を異にした二つの天体のように、それを見る者に眩暈を引き起こすような超高速で、無限の哲学的言語空間の中を両者は互いに遠ざかっていく。
 私たちは、だから、もはや両者の比較や可能的な接点を探すことを止めよう。そして、「無限の球体」というメタファーが西田の言語宇宙の中で光を放っている場所を探そう。
 1935年に『思想』に二回に分けて発表され、同年に刊行された『哲学論文集 第一 ― 哲学体系への企図』に収められた論文「行為的直観の立場」の中に、パスカルの「無限の球体」への言及が再び見出される。
 現実の世界とは何か。こう西田は問う。西田の考えを聴いてみよう。

直観が成立する、行為的に物が見られるといふことが、無数の物と物とが表現的に相限定することである。(『西田幾多郎全集』第七巻、2003年、121頁)

 直観の主体がまずあって、その主体が見ることによって物と物との間に関係が成立するのでもなく、主体とは独立に、それに先立って、物と物との間にまず客観的な関係があり、それを主体が行為的に把握することが直観なのでもない。行為する個物である私たちの身体が物の世界において働くことと、無数の物と物とが互いに他を何らかの関係において表現し合っていることとは、同一の事柄であり、同一の経験なのである。それによって開かれる世界を、西田は、「行為的直観の世界」と呼ぶ。

自然は歴史に於てあるのである。[…]真の具体的実在の世界は、[…]永遠の今の自己限定の世界でなければならない。パスカルの周辺なくして到る所が中心となる無限の球といふ如きものである。(同頁)

 自然がまず在って、そこにある時から歴史が形成されるのではなく、歴史において自然が自然として限定される。西田がこのように考えるとき、有史以前から存在する〈自然〉は、人間による概念的構成に過ぎないなどと言いたいのではない。西田が「歴史的現実の世界」あるいは「歴史的生命の世界」と言うとき、すべてがそこに到来する〈時〉が開かれる世界のことを考えている。それゆえ、自然もまたそこに到来するものとして把握されているのである。
 この〈時〉の開けは、一回限りの〈はじまり〉ではない。それはそこにおいて無数の異なった生きられた時がいたるところでいつでも生まれ得る永遠の現在のことである。この「永遠の今の自己限定の世界」のメタファーとして、西田は、パスカルの「無限の球」をここに登場させているのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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